「ああ……もう朝か……」
ベッドの上、窓の隙間から見える白んだ空を見て、佐和子は絶望した。
プロジェクトが大詰めに入っていることもあり、ここ数日は毎日、家に風呂と寝に帰るだけの生活が続いている。
あれだけ「自分の限界を超えない範囲で仕事をすること」と口酸っぱく永徳に言われていたが。上司が無茶を要求する上、それが会社の文化になってしまっていたら、自分だけがそうすることも叶わない。少なくとも佐和子には、そんな器用さはなかった。
身支度をして家を出る。職場までの移動時間は一瞬。まどろんでいるうちに会社の最寄り駅についていた。
ビルの自動扉を通過し、エレベーターで四階へ登る。階数を示すランプが一階登るたび、まるで重力がましていくかのように徐々に体が重くなっていく。
今日は朝から、社長による朝会があるらしい。オフィスの自席についてすぐ、秘書を伴って上機嫌の社長がやってきた。
「よし、みんな揃っているな。今日は重大発表があってな! きっとみんな驚くぞ。やっぱり私は天才だ」
不穏な空気を感じ、社員はその場で皆凍りついた。社長がこういう話の始め方をするとき、ろくなことがないというのを知っているのだ。
「なんと! 我が地元のサッカーチーム『ソラリス』の大株主になれることになったんだ。すごいだろう? チームと連携してのマーケティング活動も今後行なっていく予定だ。鳥海くん、これに関してはね、君に任せようと思っている、やってくれるね?」
——……ちょっと待ってよ、そんな話、聞いてない。
慌てて立ち上がり、佐和子は社長に向かって抗議の表情をあらわにする。
「あの、社長。お話は大変嬉しいのですが。すでに抱えている業務が大量にあり、毎日夜中まで残業をしている状態です。どう考えても、さらに新しい案件をやるのは……」
ここで「大丈夫」なんて言ったら、過労で死んでしまう。佐和子は永徳が自分に向けて言ってくれた言葉を反芻していた。
『大丈夫、という言葉に「自分が無理をすれば」という枕詞をつけてはいけないよ。大丈夫と言っていいのは、自分が元気な状態で、余裕を持ってやり切れるときだけなんだ』
社歴の浅い新人に、まさか正面切って反抗されるとは思っていなかったのだろう。鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべたあと、額に青筋を立てて社長は怒り始めた。
「なんだと? やらないって言うのか。素晴らしいチャンスなんだぞ。だいたい、君は仕事が遅いんだよ。もっと効率良くやれば新規事業の一つや二つ、十分対応できる余裕があるはずだ。努力が足りないんだよ、努力が」
周りにいる社員は、皆、目を伏せていた。巻き込まれたくない、という表情が見てとれる。動画施策を「私に任せればいいのに」と言っていた山田でさえ、目を逸らしていた。
つまりそれだけこの仕事が、先の見えない、社内の誰にも知見がない仕事であることを示している。
「ほら、大丈夫って言え。やれるだろ、え? せっかく私がとってきてやった仕事だぞ?」
「……大丈夫じゃありません」
「ああ? 声が小さくて聞こえなかったな、もうちょっとはっきり言いなさい。ほら、行ってみろよ!」
昔の佐和子なら、ここで恫喝に負けて「大丈夫です」と言っていただろう。でも今の自分は違う。佐和子はまっすぐと社長を見つめ、思い切り叫んだ。
——自分を守れるのは自分だけ。仕事のために自分の健康を犠牲にするなんて、もういや。
「大丈夫じゃありません!」
「よく言った。鳥海さん」
風鈴のような涼やかな声が、佐和子の背後から聞こえた。
聞き慣れたその声の方を振り返ると——紺色の羽織に黒地の着物を着た、あやかし瓦版オンラインの編集長、笹野屋永徳が立っていた。
ヴェネチアングラスを埋め込んだかのような青い双眸が、まっすぐに社長を見つめている。
突如社内に現れた和服の美丈夫を前に、社長はなにが起きたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしていた。
「俺も経営者の端くれなものでね。ひとつ言わせてもらうよ。経営者というものはね、従業員の健康を第一に考えなければならないと思っている。従業員が健康でなければ、いい仕事はできないからだ。だから貴殿のやり方はどうも理解できん。自分のやりたいことを押し切って部下の命を削る行為は、非常に愚かだと俺は思う」
永徳が吐いたド正論に、その場の空気が凍る。動揺しつつも、誰も永徳を止めるそぶりは見せず、社員たちは話の行方を見守っていた。
「そんなのは理想論だろう! そんなことで会社が上手くいくなら、誰だってそうしているさ。部下は常に怠けようとするものだ。だから私が発破をかけてやっているんだよ。何処の馬の骨かもわからんあんたに口出しされる覚えはない。第一不法侵入だ! 警察を呼ぶぞ」
怒り心頭の様子の社長に対し、相変わらず涼しい顔で永徳は笑っている。
「まぁ、うちは土地転がしで実質食っているようなものだからなぁ。そういう意味では本職で利益が上がっているかというと微妙なところだし、理想論というのは否定できないが……。だがしかし」
突然、ヒヤリとした冷気があたりを包んだ。
いつもの掴みどころのないヘラヘラした態度は鳴りを顰め、身の毛のよだつような氷の眼差しが、社長を射抜く。
「大魔王山本五郎左衛門が息子、笹野屋永徳の嫁候補への仕打ち、実に許すまじ。人ならざるものの怒り、思い知るがいい」
地の底から這うような声で永徳がそう言い放った瞬間。執務室のドアが勢いよく開け放たれた。紫や青、金色の煙が、まるで曲技飛行の如く入り乱れて雪崩れ込んでくる。煙とともに飛び込んできたのは、佐和子にとっては見慣れたあやかしたちの集団だった。
派手な赤い着物に身を包み、長い首を縦横無尽に伸ばしながら入ってくる刹那。鋭い牙を見せつけるように口を開けながら、その場にいる人間を威嚇するマイケル。赤いふんどしでシコを踏みながら入場してきたかと思えば、張り手でオフィスの壁に穴を開けていく宗太郎。小鬼の蒼司と赤司は、黄色い雲に乗って部屋中を飛び回り雄叫びを上げている。
目の前で突如始まった百鬼夜行のような光景に、社長は腰を抜かし、口を開けたまま動けずにいる。
その場にいる社員たちは、あやかしの一大パフォーマンスを捉えようと、次々とスマートフォンのカメラを構えるが、永徳が片手を上げれば、すべての電子機器の電源がプツリと落ち、撮影は失敗に終わった。
赤司と蒼司が乗った雲は、煙幕のように部屋中を煙で満たし、視界を遮っていく。するとその中から部屋全体を包み込むように巨大な髑髏が現れ、社長の喉元目掛けて大きな口を開いて飛び込んできた。
「うわああああ!」
巨大髑髏は、恐ろしげにガチャガチャとアゴを鳴らしながら社長の体を通り抜けたかと思うと、霧のように掻き消えた。
あまりの恐怖に床に崩れ落ちた社長は、どうやら失神してしまったようだ。
その様子を冷ややかな目で見ていた永徳だったが。佐和子の方に向き直ると、いつもの穏やかな顔に戻り、彼女の両肩に手を置いた。
「鳥海さん、ごめんね。突然お邪魔して。でもひとつだけ聞かせて欲しい」
「……はい」
「君は、どんな仕事がしたい?」
「私……」
永徳の優しい眼差しを受けて。佐和子の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
——今なら言える。自分の言葉で。きちんと自分のやりたいことを、自分の意思で選び取れる。
「私、あやかし瓦版編集部で……あやかしの皆さんのための記事を、もっとたくさん書きたいです。人間ならではの視点を生かして、困っているあやかしの方々の幸に、貢献できる記事を」
佐和子の返答を聞いた永徳の表情が綻ぶ。
「そうかい」
「戻っても、いいんでしょうか」
「編集部は君がいなくなって、火が消えたようだよ。あれだけ快活だった刹那はすっかり元気がなくなってしまったし、君の人間としての意見を求めていたあやかしたちは、相談相手を失って非常に困っていてね。鳥海さんの連載記事を楽しみにしているという読者からのコメントも届いている。俺としてはなんとか、君に戻ってきてもらえないかなあ、と思っていてね」
我慢していた涙が、ポロポロと溢る。
永徳は佐和子の前に、自分の手のひらを差し出した。
「俺と来てくれるかい?」
初めて自分を必要としてくれた職場に、上司の温かい微笑みに。心が満たされて、たまらなくなった。
「はい、喜んで」