よく晴れた日曜の朝。新緑に染まった總持寺(そうじじ)の大島桜を、佐和子は眺めていた。
季節が移り変わるのは早い。泣きながら桜を見上げていたのが、まだ昨日のように思える。
かつての佐和子は、自分の価値を全否定されて、贖う術もなく潰れてしまったことが悔しくて泣いていた。しかし今は、あのとき望んでいたように、綾小路不動産という場所で人材としての価値を認められ、仕事をさせてもらえている。憧れていた満開の桜にまでは及ばないが、求めていたものは掴んだはずだ。
だけどなにか違う。日々は無味乾燥で、どこか他人事のようにも思える。
——私はどうしてこんなに、満たされないんだろう。
行く当てもなく散歩をしていたら、ここに辿り着いていた。
社長に呼び出されて以降、急に忙しくなった。上司は容赦無く仕事を振るようになったし、インフルエンサーの案件は、社長の思いつきで始まったものらしく、企画内容は具体的にはまだなにも固まっていなかった。
山吹が作っていた資料もあったが、まったく使い物にならない内容で。社長にせっつかれながら一から大急ぎで企画書を作らねばならず、ほぼ毎日終電帰り。
プロジェクト自体、客観的には面白いと思う。永徳からの指導のおかげもあって、以前の会社のときのように、手順もわからず混乱しているという状況にはない。
「大丈夫」ではないが、なんとか頑張ればやり遂げられそうな気もする。
これまでのプロジェクトの経緯を聞こうと連絡を試みるも、相変わらず山吹からの返答はない。既読さえつかなくなったので、おそらくブロックされているのだろう。
——初めから押し付けるつもりで紹介したのかな……。
そもそも、もとから仲が良かったわけではない。頼まれると断れない性格である佐和子なら、押し付けやすいと思ったのかもしれない。
入社してから気づいたことだが、綾小路不動産はワンマン経営で、社長の言うことは絶対。プロジェクトを降りたいといった山吹に、社長は「辞めるなら代わりの人材を見つけてからだ」と言いつけたようだった。法律上は代わりなど見つけなくても退職できるはずだが、その辺り彼は律儀だったのかもしれない。
今日は上着がいらない程に暖かかった。佐和子は境内のベンチに腰掛け、富士子の幽霊とバスで出会って以降のことを思い返していた。
——あやかし瓦版のみんなは、元気かな。
辞めると決めた翌日、根付はポストに返してしまった。あれから何度か三ツ池公園の近くを散歩してみたが、永徳はもちろん、他の編集部員に会うことはなかったし、やはり屋敷の姿を見ることはできなくなっている。
「椿については手を打つ」と言われていた通り、何度でも襲ってやると宣言していた椿が、佐和子の目の前に現れることも今日までなかった。
ぼんやりと行き交う人々を見つめていると、何者かに視線を向けられているのに佐和子は気がついた。
「え……、笹野屋さん?」
寺の建物の影に、癖毛の黒髪、紺色の羽織を着た青眼の男性が見えたのだ。
大慌てで立ち上がり、地面を蹴る。通行人にぶつかりそうになりながら、人をかき分け、全速力でその場に向かう。
しかし辿り着く頃には、笹野屋永徳らしき人影は、影も形もなくなっていた。
「見間違い……か……」
途端に胸に懐かしさが込み上げる。
ぶっきらぼうだが根は優しい刹那。
口は悪いが人一倍仕事に情熱を燃やす宗太郎。
しょっちゅう佐和子をからかっていた小鬼の双子。
良き相談相手だったマイケル。
そして、いつも優しく見守ってくれていた永徳。
みんなでああでもない、こうでもないと言いながら、記事の企画を考えるのが楽しかった。なにより、現代の生活に馴染めないあやかしたちのために、有益な情報を提供するという仕事にやりがいを感じていた。
「ああそっか」
——私が仕事に求めていたものは、実績を上げて評価されることじゃなかったんだ。
衆目に恥じない、定められたレールの上を堂々と歩ける人間になることが、ゴールではなかった。誰かの幸せのために、仲間と協力しながら働くこと。それが自分にとっての仕事をする上でのやりがいであり、醍醐味だったのだと、今更ながら気づく。
——あやかしだからとか、人間だからとか。世間の物差しで進む道を選ぶべきじゃなかった。自分の正直な気持ちのままに選び取ればよかったのに。
「やっと、気づけたのになあ」
気づいたところで、もう遅い。
——私は人間の世界に、戻ることを選んでしまったんだから。