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第46話 私の本当の居場所

 よく晴れた日曜の朝。新緑に染まった總持寺(そうじじ)の大島桜を、佐和子は眺めていた。


 季節が移り変わるのは早い。泣きながら桜を見上げていたのが、まだ昨日のように思える。


 かつての佐和子は、自分の価値を全否定されて、贖う術もなく潰れてしまったことが悔しくて泣いていた。しかし今は、あのとき望んでいたように、綾小路不動産という場所で人材としての価値を認められ、仕事をさせてもらえている。憧れていた満開の桜にまでは及ばないが、求めていたものは掴んだはずだ。


 だけどなにか違う。日々は無味乾燥で、どこか他人事のようにも思える。


 ——私はどうしてこんなに、満たされないんだろう。


 行く当てもなく散歩をしていたら、ここに辿り着いていた。


 社長に呼び出されて以降、急に忙しくなった。上司は容赦無く仕事を振るようになったし、インフルエンサーの案件は、社長の思いつきで始まったものらしく、企画内容は具体的にはまだなにも固まっていなかった。


 山吹が作っていた資料もあったが、まったく使い物にならない内容で。社長にせっつかれながら一から大急ぎで企画書を作らねばならず、ほぼ毎日終電帰り。


 プロジェクト自体、客観的には面白いと思う。永徳からの指導のおかげもあって、以前の会社のときのように、手順もわからず混乱しているという状況にはない。


 「大丈夫」ではないが、なんとか頑張ればやり遂げられそうな気もする。

 これまでのプロジェクトの経緯を聞こうと連絡を試みるも、相変わらず山吹からの返答はない。既読さえつかなくなったので、おそらくブロックされているのだろう。


 ——初めから押し付けるつもりで紹介したのかな……。


 そもそも、もとから仲が良かったわけではない。頼まれると断れない性格である佐和子なら、押し付けやすいと思ったのかもしれない。


 入社してから気づいたことだが、綾小路不動産はワンマン経営で、社長の言うことは絶対。プロジェクトを降りたいといった山吹に、社長は「辞めるなら代わりの人材を見つけてからだ」と言いつけたようだった。法律上は代わりなど見つけなくても退職できるはずだが、その辺り彼は律儀だったのかもしれない。


 今日は上着がいらない程に暖かかった。佐和子は境内のベンチに腰掛け、富士子の幽霊とバスで出会って以降のことを思い返していた。


 ——あやかし瓦版のみんなは、元気かな。


 辞めると決めた翌日、根付はポストに返してしまった。あれから何度か三ツ池公園の近くを散歩してみたが、永徳はもちろん、他の編集部員に会うことはなかったし、やはり屋敷の姿を見ることはできなくなっている。


「椿については手を打つ」と言われていた通り、何度でも襲ってやると宣言していた椿が、佐和子の目の前に現れることも今日までなかった。


 ぼんやりと行き交う人々を見つめていると、何者かに視線を向けられているのに佐和子は気がついた。


「え……、笹野屋さん?」


 寺の建物の影に、癖毛の黒髪、紺色の羽織を着た青眼の男性が見えたのだ。


 大慌てで立ち上がり、地面を蹴る。通行人にぶつかりそうになりながら、人をかき分け、全速力でその場に向かう。


 しかし辿り着く頃には、笹野屋永徳らしき人影は、影も形もなくなっていた。


「見間違い……か……」


 途端に胸に懐かしさが込み上げる。


 ぶっきらぼうだが根は優しい刹那。

 口は悪いが人一倍仕事に情熱を燃やす宗太郎。

 しょっちゅう佐和子をからかっていた小鬼の双子。

 良き相談相手だったマイケル。


 そして、いつも優しく見守ってくれていた永徳。


 みんなでああでもない、こうでもないと言いながら、記事の企画を考えるのが楽しかった。なにより、現代の生活に馴染めないあやかしたちのために、有益な情報を提供するという仕事にやりがいを感じていた。


「ああそっか」


 ——私が仕事に求めていたものは、実績を上げて評価されることじゃなかったんだ。


 衆目に恥じない、定められたレールの上を堂々と歩ける人間になることが、ゴールではなかった。誰かの幸せのために、仲間と協力しながら働くこと。それが自分にとっての仕事をする上でのやりがいであり、醍醐味だったのだと、今更ながら気づく。


 ——あやかしだからとか、人間だからとか。世間の物差しで進む道を選ぶべきじゃなかった。自分の正直な気持ちのままに選び取ればよかったのに。


「やっと、気づけたのになあ」


 気づいたところで、もう遅い。


 ——私は人間の世界に、戻ることを選んでしまったんだから。


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