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第44話 人間の私がいるべき場所

「おはようございます」


 横浜駅近くの大きなオフィスビルの一室。挨拶をされて、スーツを着た女性は腕時計を見た。


 午前八時、就業時間の一時間前。まだ出社してきている社員の姿はまばらだ。


「おはよう。今日も早いわねえ」


 「山田」と名前が記されたカードケースを首からかけた女性は、にこやかに佐和子の挨拶に返答した。


「早く、仕事を覚えたいので」

「真面目ねえ。山吹くんとは大違いだわ。あの子の紹介とは思えないわよね、鳥海さんて」

「え、そうですか?」


 佐和子は目をぱちくりとさせ、意外な顔をした。


 山吹の話では、彼は「マーケティング部期待のホープ」という印象だったので、ネガティブなニュアンスを含む彼女のひと言は、佐和子にとって思いがけないものだった。


「そういえば、初日以来顔を見てませんけど……山吹さん」

「鳥海さんが入社してすぐから、有給使って休んでたんだけど。昨日の午後、退職代行サービスから連絡が来たのよ」

「……退職代行サービス……って、え、辞めたってことですか?」


 退職代行サービスといえば、その名の通り、お金を払えば退職にかかる連絡や、手続きすべてを代行してもらえるというサービスのはず。


 山吹がそんな方法を使って急に会社を辞めてしまうとは思わず、佐和子は唖然とした。


「愛想が良くて、人付き合いも上手いから。営業の仕事はうまくハマってたみたいなんだけどね。マーケに異動してからはダメダメで。仕事が粗くて、ミスが多くて。私もなんとかものにしてあげようと頑張ったんだけどね。うまくいかないくて。いやになっちゃったのかもねえ」

「そう……だったんですか……」

「うちも万年人手不足な会社だからさ、辞めづらい雰囲気もあって。それであなたを紹介して逃げるように辞めたんじゃないかしら。まったく困ったものよ。しかも直接の連絡もなく、退職代行サービスだなんて」

「はあ……」


 まさか彼がそんな評価を受けていたとは。昔から調子のいいところはあったが、そこまで言われるほどひどい仕事ぶりだったのだろうか。周囲からも認められて、すごく生き生き仕事をしていたように見えたのだが。


「鳥海さんは真面目だし、きちんと仕事もしてくれるし、ありがたいわ。欲を言えば、もうちょっと積極的に仕事を受けてくれるとありがたいけど」


 少し圧を込めたような目線で山田に見られて、佐和子は身をすくめた。直属のマネージャーである山田は、サバサバとして感じのいいベテラン女性という印象だったが。入社して二週間くらい経ってからだろうか。だんだんと有無を言わさぬ圧迫感を感じるようになってきた。


「今日はお昼に社長が社内の見回りに来るらしいから、机の上、綺麗にしておいてね」

「わかりました」


 ——社長か。面接以来だなあ。


 山吹の紹介で入社した会社は、「綾小路不動産」という、新築・中古物件の売買を主な事業とする地場の大手不動産会社で、社員数は二千人ほど。社長である綾小路士郎は二代目社長で、一年前に先代から家業を継いだらしい。


 自分の机の清掃を終えると、佐和子はパソコンを開けて淡々と作業をし始める。


 無理はしていない。永徳が教えてくれた通り、「大丈夫な範囲」で仕事に取り組んで、着実にできることを広げている。


 かつての自分は「認められたい」「失敗を挽回したい」という気持ちが強すぎて、安請け合いをしすぎていた。結果やり切れる以上の仕事を抱え込んで、パニックに陥って潰れてしまったのだ。


 永徳のおかげで、ようやくそれに気づくことができた。綾小路不動産に来てすぐは不安だったが、今は自分のペースを守りつつ仕事ができている。


 ——上長も私の働きを好意的にとってくれているし、あやかし瓦版に入る前の自分に比べたら、ずっと思い描いていた働き方ができてる。


 だけど、なにか物足りなかった。憧れだったマーケティングの仕事を、着実にこなせるようになってきているのに。


「社長! お疲れ様です!」


 周りの社員が一斉に立ち上がったのを見て、佐和子も慌てて立ち上がった。どうやら予定よりも早くやってきたらしい。


 ニコニコと上機嫌でオフィスを見渡しながら、秘書を伴った社長が佐和子の席の方に向かって進んでくる。


 ——あれ、なんだろう。こっちを見ている気がするけど。


 脇目も振らず真っ直ぐに佐和子の前までやってきた社長は、佐和子よりも少しだけ背が低い。人の良さそうな顔立ちをした中年の男性なのだが、どことなく胡散臭い雰囲気があって。印象はあまり良くなかった。


「鳥海佐和子くんだね。君と話がしたくてね。ちょっと出れるかい?」

「え、あっ、はい! 出れます!」


 よもや自分に声をかけられるとは思っておらず、佐和子は声を上づらせながらもそう返答した。チラリと山田の方を見れば、怪訝そうな顔を向けられている。


 ——山田さんじゃなくて、なんで入社して間もない下っ端の私なんかに声をかけたの?


 疑問を抱えながらも鞄とコートを引っ掛けて、社長の背後について行く。


 社長と秘書に連れられてやってきたのは、綾小路不動産本社向かいの、少しお高めのイタリアンレストラン。眼鏡をかけ、ぴっちりとしたオールバックヘアーの初老の秘書が社長のコートを受け取りつつ、店員に予約名を伝える。


「この店ははじめてかね」

「はい。素敵なお店ですね」


 テーブルについてオーダーを終えると、社長は早速と言わんばかりに本題を切り出した。


「鳥海さんは都内の大手企業のマーケにいたんだよね? 山田くんから、なかなか仕事ぶりがいいと聞いているよ。やはり僕の目に間違いはなかった。面接のときからね、君はいいものを持ってると思っていたんだよ」


 社長の褒めっぷりに愛想笑いを浮かべつつ。佐和子は恐縮して肩をすぼめる。


「……ありがとうございます」


 ——面接のとき、ほとんど私の顔なんて見ていなかった気がしたけど。


「新しいプロモーション策を社長室主導でやってるんだが、君にはぜひプロジェクトに関わってほしいんだよ」

「私……がですか」

「やってくれるかい」

「具体的にはどんなお話なのでしょう」

「有名なインフルエンサーと組んで、うちの新築戸建物件を紹介する動画を作りたいんだよね」

「……それは、面白そうですね」


 動画メディアで物件の良いところを紹介すれば、ただウェブで間取りを公開するより、内見前にある程度イメージを膨らませることもできるだろう。動画の視聴は事前登録必須ということにすれば、より購買意欲の高い客層を得る一助になるかもしれない。


 プロジェクト自体は面白いものだと思ったし、興味は惹かれた。


「ほら、うちさあ、若い子が少ないでしょ。君の上長の山田さんも五十手前のおばさんだし。面接のときから、この子は向いてるんじゃないかなあと思ってたんだよ。どうだい、やるかい」


 年齢でできることを区切ってしまうのはどうかと思いつつ、佐和子は遠慮がちに社長の言葉に応える。


「……興味はあります」

「それはよかった。ああ、ちなみに、部署異動するわけじゃないから。今やっている仕事はそのまま続けてもらうからね。じゃ、参加ってことで頼むよ」

「は、えっ」


 有無を言わさぬ社長の口ぶりに、佐和子は慌てた。


「あのっ、この話って山田さんには」

「ああ、言ってないから、君から説明しておいてくれ。社長案件に参加することになったって」


 ようやく日常業務に慣れてきたところで、山田からも仕事の量を増やされようとしているタイミングだった。そこへ社長室主導の新規プロジェクトなんて受けてしまったら、自分のキャパシティを一気に超えてしまう気がする。


「できるよね」

「一旦持ち帰らせていただくことは可能でしょうか。上長とも相談させていただきたく……。まだ通常業務を始めてひと月も経ちません。力を入れられているプロジェクトであれば、安定稼働できるように、現状業務がきちんと回るようになってから取り組みたいので」

「おいおい、頑張ればなんとかなるだろ、若いんだから。無理なことなんて世の中にないんだ。難しいとか無理という言葉は、怠惰な人間の言うセリフだよ。とにかく、頼んだよ」


 それだけ言うと社長はさっさと席を立ってしまった。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。


「詳細は追って私の方からご連絡しますので」

「あ……わかりました。お待ちしております」


 眼鏡をかけた男性秘書は、一礼すると会計を済ませて出ていった。


 突然こんなふうに社長から仕事を振られるとは思っておらず、現実感のないまま、会社へと戻る。


 エレベーターから降りて、自分の部署のある階へ降りると、部屋にいる社員の視線が一気に自分に集まるのを感じた。


「……おかえり。思ったより早かったわね」


 山田の佐和子に対する視線は、朝の穏やかなものとは一転、刺々しいものになっていた。

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