午後八時。お囃子衆の軽やかな太鼓の音とともに、真新しい山伏の衣装を着た天狗たちの舞踏が始まった。
「あら、始まったわね! 写真写真!」
そう言いながら一眼レフを片手に写真撮影に向かう刹那を見送り、佐和子は櫓を見上げる。
黒塗りの天狗面をつけた三人の川天狗たちが、軽やかに舞う。錫杖が床をつくたび、シャリン、シャリンと涼やかな音があたりに響いた。穏やかな川の流れを体現するような、緩やかな舞を見せたかと思えば、激流を表現するように床を踏み鳴らす。
「飛翔」をテーマにしたこの踊りは、川魚が豊漁だったときに酒を飲みながら一族皆で踊っていたものらしい。時が経つとともに定型化していったものを、今回、祭祀用の舞踏としてアレンジを加えてもらった。これが今回の「メインステージ」である。
「急ごしらえだったわりに、結構形になっているじゃないか」
いつの間にか佐和子の横に来ていた永徳が、感心したように櫓の上の踊り子衆を仰ぎ見る。
「黒羽さんが張り切ってましたからね。こんな短い準備期間でお祭りを開催するだなんて、荒唐無稽な案だったのに。あっという間に準備が進んでびっくりしました」
「天狗は結束力が強いからねえ」
祭りの会場は大賑わいだった。露店で売られている天狗の面を誰もが身につけ、うまい酒に酔いしれながら、優美な舞を眺める。誰もが「川澄まつり」を楽しんでいる様子を見て、佐和子の胸には達成感が溢れていた。
「今回の提案、一度始めてしまえば定期的に実施できる点もよかったのかもしれないな。祭のたびに川澄殿のことを思い出してもらえる。酒を通して、『川澄』の名前も広がる。あやかし瓦版オンラインとしても、イベントの形にしてもらったほうが記事として取り上げやすい。さすが嫁候補殿のアイデアだ」
「笹野屋さんが、ほとんど考えてくださったようなものです」
「はて、そうだったかなあ」
「でも、ありがとうございます」
佐和子は、まっすぐに永徳の瞳を見つめて、そう言った。
和太鼓や横笛の音色が響き渡る中。永徳も佐和子を見つめ返す。
「きっとひとりだったら、いい案なんて浮かばなかったと思います。笹野屋さんはすごいです。お陰様で、いろいろと学ばせていただきました。これから、もっともっと頑張って、社員として力になれるように努力します」
照れくさそうに頬をかきながら、佐和子から視線を逸らす永徳だったが。
「鳥海さん」
「はい?」
永徳は心配そうな顔をして、口をつぐみ。ふたたび佐和子の方へ視線を戻して口を開いた。
「初めからなんでも上手くできなくて当たり前なんだよ。大事なのは、今の鳥海さんのように学ぼうとする意欲なんだ。君はどうしてもこう、前のめりになってしまう傾向があるね。もっと力を抜いて。ゆったりと構えた方が楽に生きられる。あまり無理をしないで。仕事は楽しんでできるくらいが、ちょうどいいんだから」
慈しむような優しい微笑みを前に、佐和子は複雑な表情を浮かべる。彼の優しさから出た言葉であることは明らかだったのだが。このひと言は、佐和子の心に一点のシミを残した。
——つまりそれは、私にはそこまで大きな期待してないってこと?
考えてみれば当たり前かもしれない。永徳は佐和子が、前の職場で大きな損失を出して辞めざるを得なくなったことを知っている。今回は彼の助言でうまくいったものの、調子に乗られてまた同じような失敗をされては困ると思われているのかも。
——頑張らないと。安心して大事な仕事を任せてもらえるくらいに。
突如、耳をつん裂くような轟音が辺り一帯に響き、佐和子は驚いて顔を上げる。
櫓の向こう側、川澄が祭を眺めるために設置されていた本部席が黄金色に光っていた。
「そろそろだね」
永徳の声を聞きつつ、佐和子はあまりに神々しい光景に目が釘付けになっていた。
まるで太陽の権化のように赤く燃える一羽の大きな鳥が、大地を蹴り、満天の星の中へと飛び出した。大翼をはためかせ、会場を見渡すように旋回する。
「一同、我らが主様の旅立ちである! 祝えよ祝え、酒を掲げよ!」
地鳴りのような黒羽の声が、会場に響き渡り、その場にいた誰もが酒を片手に掲げた。
あやかしたちの献杯に見送られるように。遠く遠く、まるで一等星のような輝きを残して。偉大なあやかしの魂は天に昇って行った。
川澄の消えていった方向を見ながら、佐和子はつぶやいた。
「……おめでたいことだというのは、聞いて理解していたつもりですが。やはり……淋しいものですね、知っている誰かがいなくなるのは」
「……そうだね。それはきっと、みんな一緒だよ。あやかしも、人間も」
そう言った永徳の横顔には、ういろうを食べた日と同じ寂しさが宿っていた。
バスで出会った、老婦人の華やかな笑顔が頭に浮かぶ。
佐和子はおもむろに両手を合わせると、目を瞑り、願った。どうか川澄さんと富士子さんの新たな旅路が、幸せなものとなりますように、と。
川澄を送る、最後の「飛翔」の舞が終わったあと。天狗たちは片付けに追われていた。あやかし瓦版のスタッフは既にほとんどが家に帰っていたが、今回の祭りの担当者である永徳と佐和子は黒羽の手が止まるのを待っていた。
「お待たせして申し訳ない」
ひと段落ついた様子の黒羽が、こちらに早足でかけてくる。声の調子は明るく、顔は見えないが、達成感に満ちた様子が伺えた。
「いやいや、黒羽も忙しかっただろうし、気にしていないよ。タダで酒をたらふく飲ませてもらったし、嫁候補殿と仲睦まじい時間を過ごすこともできたしね」
「笹野屋さん、また……そんなこと言って……」
黒羽は土産だと言って、一升瓶を二本永徳に渡すと、深々と頭を下げる。
「この度の件については、心から御礼を申し上げたい。おかげで主様も、気持ちよく死出の旅に出ることができた」
「今日の祭りの記事も数日以内にはサイトにアップする予定だから。楽しみにしておいてくれ」
「頑張っていい記事を書きますね」
佐和子の言葉を聞いた黒羽はこちらを向き、まじまじと見つめたかと思うと。
天狗面の紐に手をかけ結び目を解き、素顔をあらわにした。
「えっ!」
顔を見て驚いた。ずっと中年の男性だと思いこんでいたのだが。面の下から現れたのは、佐和子とそう変わらない年頃の精悍な若者の顔だったのだ。
「佐和子の嫁入りの件、正式に申し込みたいと思ってな。顔も見せぬままではよろしくないと思い。我が一族のために親身になって仕事をしてくださったその姿に心を打たれた。早速婚儀の日取りを決めよう」
あとずさる隙も与えられず、黒羽に大きな手で両手を包まれた。ゴツゴツした手のひらは、熱を帯びている。
「えっ! いや、私は……今はまだ半人前以下の仕事しかできてないですし……結婚とかいうのは、その……」
「黒羽、いい加減にしてくれないか」
そう言って前に進み出たのは永徳だ。
「彼女は今、目の前の仕事に必死に向き合おうとしているところなんだ。惑わせるようなことを言うのはやめて欲しいね」
「仕事と恋愛は別だろう。それに、貴殿がわってはいることではない。嫁候補というのは、貴殿が勝手におっしゃっていることだと理解している」
ふたたび険悪になっていく雰囲気を察知し、佐和子は永徳の背から顔を出した。
「あの、すみません……。私がはっきりしないばかりに」
このまま強引にことを進められようとしても困るし、黒羽の言う通り「結婚」とか「恋愛」とかいうのは個人の問題だ。永徳に間に入り続けてもらうのも申し訳ない。
「私……しばらく引きこもっていた時期があって。今ようやく、働くことができてるんです。まだまだおぼつかい部分も多くて。ひとつひとつ前に進んでいる感じで。だから、まだ結婚とか恋愛とか、そういうこと考えられなくて。とにかく、今は、編集部でできることを増やしたいんです。だから、ごめんなさい」
——うまく、伝えられたかな。
頭を下げながら、佐和子は口をつぐんだ。もともとしゃべりがうまい方ではない。もうちょっといい言い方があったのではないかともどかしい思いを抱えつつ、黒羽の返答を待った。
「そうか。ならば仕方ない」
あっさりそう言った黒羽に、驚いて佐和子は顔を上げる。
「ならば急かさず、ゆっくりと進めよう。文を出す。まずは文通から始めよう」
「文通……」
これは、伝わったのだろうか。譲歩はしてくれているけれども。
「鳥海さん、帰ろう。疲れただろう君も。黒羽、また連絡する。頼むからあんまりうちの社員にしつこくするのはやめてくれよ」
永徳は深いため息をつくと、半ば強引に佐和子を黒羽から引き離し、祭の会場の出口に設置された門に向かって早足で歩きだす。
「まったく天狗っていうのは、強引で困るねえ」
うんざりしたように顔を顰めた永徳を見て、佐和子は苦笑いした。