黒羽の言葉に、佐和子はパソコンから顔を上げて驚愕の表情を向ける。
「え、二週間後? ものすごく時間がないじゃないですか。しかも、死期ってそんな正確にわかるものなんですか……?」
「我が主ほどのあやかしであれば、天に昇る日ぐらいは自分で予期できるのだ」
「まあ、事情はわかったから。できるだけ早く返答する。川澄殿、俺たちはこれで失礼するよ。お大事に」
立ち上がる永徳に続き、佐和子がペコリとお辞儀をすると、彼は佐和子の前に掌を差し出した。どうやらこの部屋の出口から編集室の襖まで飛ぶつもりらしい。
「あの、ずっと不思議に思ってたんですが。この術って扉じゃないとダメなんですか?」
「うーん、扉じゃなきゃいけないわけではないよ。なんらかの目標物があればいいって感じかな。この地に降り立ったときに、ドアのようなものはなかっただろう?」
そう説明しつつ、永徳はなぜか自分の方に佐和子の手を引き寄せると、黒羽に向かってにこりと笑う。相変わらず黒羽の顔は天狗の面で見えないが、不機嫌そうな仁王立ちでこちらを見ている。
「牽制とは大人気ないな、笹野屋殿」
「俺はなにも言っていないよ、黒羽。さあ戻ろう、鳥海さん」
「あ、はい……」
二人のよくわからないやりとりを目で追いつつも、佐和子はドアの方を向く。病人もいるからか、今回は歩いて出口に向かった永徳についてドアをくぐった。到着した場所は襖の先の編集室ではなく、笹野屋の屋敷の門を出たところだった。
建物の中にいたので気がつかなかったが、すでに日はとっぷりと暮れており、公園の街灯がぼんやりとあたりを照らしている。永徳は佐和子の手を離し、自分の羽織の袖口を探り始めた。
「こちらは雨が降っているね。その格好で寒くないかい?」
「はい、重ね着してきたので、大丈夫です」
永徳は袖口から大きな傘を取り出した。長さを見ても、どうやっても袖の中には入りそうもない。
——契約書や傘をどこからともなく取り出せることや、目印から目印へ瞬間移動できるところを見ると、笹野屋さんは空間同士を繋ぐ術を使うことができるのかな。
しげしげと袖口を眺めていれば、彼はおどけた様子で口角を上げる。
「飴玉とかも出せるけど、いるかい?」
「いえ。大丈夫です」
「なんでも出せるし、なんでもしまえるから。必要なときは活用しておくれ」
永徳はそう言って、佐和子の頭上に傘をさす。慌てて鞄から折り畳み傘を取り出し、傘から出れば、「このままでもいいのに」と彼は困ったように言う。
「暗くなってしまったし、家まで送ろう。歩いて帰るんだよね?」
「はい、バスに乗るにはもったいない距離なので」
永徳がついてきてくれると聞いて、佐和子は内心ほっとしていた。
この間の幽霊のようなものがまた現れても、きっと根付が守ってはくれるのだろうが、怖いものは怖い。薄闇の雨の中、一人で自宅に帰るのは心細かった。
しとしとと降り注ぐ小雨が水色の折り畳み傘を濡らす。佐和子と永徳の背は頭ひとつ分違うので、歩幅も永徳の方が広いはずだが。佐和子に合わせてくれているのか、ついていくのにそれほど苦労はしなかった。
「あの、笹野屋さん」
「なんだい」
「あの、いまさらで恐縮なのですが。笹野屋さんのお父様の……大魔王山本五郎左衛門さんって、どういう方なんでしょう。話の雰囲気から『あやかしの総大将』みたいな方なのかな、とは思っているんですが。みなさん当たり前のように口にする名前なので、なかなか聞きづらくて……不勉強で申し訳ないのですが……」
流されるままにここまできてしまったので、当たり前のように聞かれる山本五郎左衛門の名について、尋ねるタイミングを逸していた。いまさら人前で聞くのも憚られたので、次に二人きりになれたときに聞いてみようと思っていたのだ。
「うちの父? ……ああ、人間にとってはあやかしの総大将って言ったら『ぬらりひょん』のイメージが強いのかなあ。アニメとかの影響で」
「そうですね……それに大魔王って言われると、どちらかというとゲームとかのイメージが強くて」
ふむ、と永徳は自分の顎をさする。
「うちの父に関しては人間の物語で言うと、江戸時代中期に書かれたとされる『
「……はじめて知りました」
「まあ、無理もないよ。見た目も人間みたいで大きな特徴もないし、創作物にもあまり登場しない。容姿のインパクトと知名度なら刹那の方がよっぽどある」
そんなこと言ってると怒られますよ、と心の中で突っ込みつつも。佐和子は話の続きを待った。
「ただまあねえ。あやかしたちにはとても慕われていてね。面倒見が良くて、気っ風がよかったからかな。とにかく仲間を大切にしていてね。今俺が引き継いでいる、『あやかし瓦版』も、時代の変化についていけなくなったあやかしたちに、有益な情報と娯楽を提供するために父が始めたものだし。とにかくまあ、偉大なあやかしだったよ。手前味噌だけど」
「尊敬されているんですね」
「うーん、尊敬しているかはわからないけど、一生敵わないとは思っているかな」
三ツ池公園の前を通り過ぎると、桜が目に入った。公園の桜は先週に比べればだいぶ散っていたが、八割方無事なようだ。
「今屋敷に住まれてるんですか、お父様は。一度もお姿を見たことがありませんけど」
「母を失ってショックを受けてね。眷属の一部を連れて、全国行脚の旅に出ているよ。四十九日には戻ってくるとは思うけど。それが終わればまたいなくなるだろうね。あの落ち込みようは……」
公園の出口から住宅街に向けて急坂を登っていく。JR鶴見駅の西口に位置するこの住宅街は、山を切り開いた場所のため角度のきつい坂が多い。引きこもりがちだった佐和子は息を切らしていたが、永徳はまるでひとりだけ平面を歩いているかのように平然としていた。
分厚い雲に覆われた空を見上げながら、彼はため息をつく。
「さあて、どうするかねえ。鳥海さん、悪いけど明日の午前中、君の時間をもらうよ。アイデア出しをしよう、今日の川天狗の件」