「どこまで行くのだ。だいぶ歩いている気がするが」
訝しむような口調でそう尋ねる永徳に、黒羽は淡々とした口調で答える。
「あと少しだ」
しめ縄の巻かれた大岩は、川天狗の集落の入り口に張られた結界だったらしい。黒羽が手をかざすと古ぼけた石造りの鳥居が現れた。
鳥居をくぐりぬけ、険しい山道を黒羽の大きな背中に続いて進んでいく。黒羽のうしろには佐和子、最後尾に永徳という並びで歩いた。
佐和子はぬかるみに足を取られないよう、気をつけて歩きつつ、黒羽の背中の翼に興味を引かれていた。面は被り物のようだったが、この翼は本当に背中から生えているらしい。
「うわっ」
「おっと」
天狗の翼に気を取られ、うっかり足を滑らせたところを黒羽に片手でひょいと抱き上げられた。
「女の足ではきつかろう。背中に乗れ」
「え、でも」
「崖を滑り落ちたいのか?」
朱塗りの面が顎で佐和子の足元を指し示す。佐和子の左足から数歩横にずれた先は、底の見えない急斜面になっていた。
「いえ……」
足がすくんだのがわかったのか、背後から永徳が声をかけてくる。
「鳥海さん、俺が背負おうか」
「えっ、いやいやそんな」
黒羽と永徳の間でオロオロする佐和子を見て、黒羽はため息をつき、永徳に視線を合わせた。
「笹野屋殿。山道は我の方が慣れておる。任せてもらったほうが安心だと思うが」
「……。まあ、一理あるね」
「すみません、黒羽さん、助かります……」
山登りに慣れない上に体力もない佐和子には、滑りやすい峠道はなかなか堪えるものがある。恥ずかしさよりも疲れに負けて、黒羽の言葉に甘え背中を借りることにした。
物言いは強引だったが、黒羽は案外優しく、シダの生い茂る視界の悪い場所などは、背中にいる佐和子にぶつからないように、腰に備えていたナタで刈りながら進んでくれる。顔が見えないため表情が読めず、余計に緊張をしてしまう。そんな佐和子の様子感じ取ったのか、黒羽は豪快に笑った。
「そんなに身を固くせずとも、とって食ったりはせぬ。人を喰らう趣味は持ち合わせておらんからな」
「はあ……」
山の中に住んでいるせいか、刹那たちよりもだいぶ言葉遣いが古めかしい。
——結構お歳なのかな、この人。
しゃがれた声の雰囲気からも、若者というよりは中年に近い歳のような気がする。
「さあ、ついた。ここだ」
永徳と佐和子が襖を通ってやってきた場所からさらに上流。人の気配のまったくない森の奥には、ログハウスのような大きな建物がそびえていた。少し離れた場所に小屋がいくつも建っているのも見えたので、ここが川天狗の集落のようだ。
「意外と洋風なんですね……」
佐和子がそう呟くと、黒羽は褒められたととったらしく、「美しいだろう」と胸を張る。
「かつては城のような建物だったのだが。今の時代ちと目立ちすぎるのでな。我が主の希望もあって、モダンな作りのものに変えたのだ」
「……なるほど」
「黒羽。ここまでくれば足場は悪くないだろう。鳥海さんを下ろしておくれ」
余裕綽々のいつもの表情とは違い、永徳は不機嫌そうな顔で黒羽の面を睨みつけた。
「いやいや、ここはここで、小石がゴツゴツとして歩きづらいだろう。家の前までは我が運ぼう」
「あ、いや、ちょっと恥ずかしいので、下ろしてください……」
そう懇願すると、あっさり黒羽は佐和子を地面に下ろした。それでも手を取るよう促されたので、佐和子は恐縮しつつも固辞をする。諦めた黒羽は二人を先導し、ログハウスの中へ招き入れた。
「お邪魔するよ」
永徳がそう言うのに続き、佐和子も挨拶をする。入り口から見て右奥の部屋の扉の前に立った黒羽は、部屋の主に向けて声をかけた。
「主様、あやかし瓦版の担当者をお連れしました。大魔王山本五郎左衛門が御子息、笹野屋永徳殿と、編集部員の鳥海佐和子殿でございます。部屋に入っていただいてもよろしいでしょうか」
「うむ、案内ご苦労であったな、黒羽。お入りいただけ」
主からの言葉を受けて、黒羽はドアを開ける。扉が開いたその先にいたのは、キングサイズの天蓋付きベットの上に横たわる、小柄な老人だった。
「笹野屋殿、鳥海殿。このような格好での出迎えで大変申し訳ない。遠方からはるばるよく来てくださった」
皺くちゃの肌に禿げ上がった頭。一見人間の老人のようにも見えたが、その背中には黒羽同様翼が生えていた。しかし黒羽のものとは違い、だいぶ羽が抜け落ちていて、地肌が見えてしまっている。
「儂はこの土地の川天狗の頭領をしている川澄というものだ。見ての通りもう歳でな。間も無く天寿を全うするところよ」
カッカと豪快に笑う様は、黒羽に少し似ている。しかしその笑いは弱々しく、生気が感じられない。
「主様は三百年もの間、我ら川天狗をよく率いてくださった。もう間も無く天寿を全うされるお祝いに、なにか記念に残ることをしたいと考えている」
黒羽が鷹揚にそう言った。
「お祝い……?」
佐和子は眉間に皺を寄せる。問い合わせフォームの文面を見たときから疑問に思っていた。なぜ、「死ぬ」ことを祝うのか。そんな佐和子の様子に気づいたのか、永徳は黒羽の言葉を捕捉するように説明を加えた。
「長い時を生きるあやかしにとって、天寿を全うしての『死』というのは、めでたいものなのだよ。なんて喩えたらいいかなあ、フルマラソンを完走したときみたいな感じって言ったら伝わるかね」
「うーん、わかるような、わからないような」
川澄は永徳と佐和子のやりとりを黙って見ていたかと思うと、なにかに勘付いた顔をして、二人の会話に口を挟んだ。
「もしや、そちらの鳥海殿は人間の女か。これはちょうど良い。黒羽もそろそろ年頃でな。嫁御を探しておったところで……」
「鳥海は嫁にはやりません」
永徳はピシャリと川澄の話を遮り、険しい顔を作った。さっきから嫁取りの話になると明らかに不機嫌になる彼の横顔を、佐和子はじっと眺める。
——これはもしかして、やきもちだったり……?
自分の頭に浮かんだ考えを、佐和子は慌てて霧散させた。
——いやいや、そんなはずは。
「嫁候補」は佐和子をあやかしから守るための方便だと先ほども言っていた。出会ってまだ間もないし、永徳から甘ったるい態度を向けられたこともない。しかしあからさまなこの態度を見ると、虫除けの意味だけではないのではと疑ってしまう。
「うちは少数精鋭でやっているのでね。貴重な社員を嫁に取られては困る」
あとから付け加えられた反対の理由に、佐和子はがっくりと肩を落とした。会社が回らないから結婚は許さないという発言は、今の時代の経営者としてはアウトなのではないだろうか。
——いや、まあこんな山奥に連れ去られたら困りますけれども。
「まあその話はあとで進めるとして。まずは我らの要望を聞いてもらえるか」
嫁の話はあくまで進める方向で押し切ろうとする黒羽に佐和子はゲンナリしつつも、永徳と黒羽とともに、川澄のベッド脇に用意されたテーブルセットに腰を落ち着けた。ようやく本題に入れそうな雰囲気を見て、佐和子はカバンからノートパソコンを取り出す。
「我ら川天狗は、愛宕山の太郎坊ほどの高位の天狗ではない。しかし、地位は異なれど、自然を守り、人間やあやかしの子どもを守り、この地の安寧に尽くしてきた。だが、我が主がこのまま消えようとも、歴史には残らない。それが我は悲しくて仕方がないのだ」
黒羽はテーブルに置いている両手に力を込める。顔は見えないが、心の底からそのことを悔しく思っている様が伺える。
「儂は一族で送り出してくれればそれでいいと言ったのだがな。この黒羽や、他の天狗たちがどうしてもなにかしたいと聞かぬもので。ありがたいことではあるがの」
黒羽の言葉に重ねるように川澄は言った。
「それであやかし瓦版に、川澄殿の門出を一緒に祝ってほしいと、そう問い合わせをしたのだな」
永徳が尋ねれば、黒羽はうなずく。
「いかにも」
——天狗にも階級があるのね。全然知らなかった。
佐和子は黒羽の説明に相槌を打ちつつ、手元のパソコンに取材メモを打ち込んでいく。
「愛宕山(あたごやま)の太郎坊(たろうぼう)」「鞍馬山(くらまやま)の僧正坊(そうじょうぼう)」など、人間世界でもよく知られている天狗は、同じ天狗族の中でも神として崇められるほど力の強い大天狗なのだという。「川天狗」というのは、単純に「川の近くに住んでいる天狗の一族」のことを指す。天狗界での序列としては、下位にあたるのだそうだ。
「たとえば『川天狗の川澄、大往生』といったような記事を、あやかし瓦版のトップページに写真付きでどーんと出してもらうことは叶わぬか。主様のこれまでの輝かしい功績の紹介とともに」
黒羽の要望に、永徳は渋い顔をする。
「いやいや……それはちょっと。あの、仮にもメディアだからね、あやかし瓦版は」
佐和子はあやかし瓦版オンラインを開いた瞬間、川澄の写真がデカデカと出てくる図を想像してみる。それを見てブラウザバックをする読者が何人もいそうだ。
主にライフスタイル情報を扱うあやかし瓦版の人気コンテンツは、ファッションやグルメ、レジャーなどの娯楽情報。そういったコンテンツを楽しみにしている読者のことを考えれば、急に画面を占領するような大きさで見知らぬあやかしの訃報が出てくる、というのは好ましくない。
「あのね、黒羽。メディアというのは、読者にとって価値ある情報を提供するのが仕事なのだよ。だから『情報提供者だけに都合のいい情報』は載せられない。広告ならまだ譲歩の余地はあるけど。それだって読者が楽しめる形を考えて掲載しないといけない。まあ、川天狗って、これまで取り上げたことないし、取り上げ方はいろいろ考えられるかもしれないけど。ちょっと持ち帰らせてほしいね」
永徳の回答を聞き、腕を組んで唸っていた黒羽だったが。代替案が思いつかなかったらしく、不満そうな顔をしながらも頷いた。
「……あいわかった。しかし、もう残り時間も少ない。悪いが一両日中に検討結果を教えてくれまいか。天に昇る日はすでに決まっている。二週間後だ」