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第14話 川天狗の黒羽

 身支度が整うと、テーマパークに連れて行ってくれたときのように、永徳は佐和子に自分の手を握るように促した。今回も術を使って移動するらしい。男性の手を握ることに躊躇はあったが、握らねば移動はできない。遠慮がちに手を重ねると、永徳は佐和子に向かって微笑み、襖へ向かって駆け出した。


「走らないと移動できないんですか?」

「走らなくてもできるが、勢いがあった方がいいだろう」

「……そうですか」


 どうやら意味はないらしい。ひとりでに左右に開いた襖の先に飛び込むと、降り立った先は閑寂な森の中だった。


 こちらはかろうじて天気が保っている感じで、雨は降っていないようだが薄暗い。


「ここは……すごく自然が豊かなところですが……どこですか?」

「東京都の奥多摩。多摩川の上流の方だね」


 奥多摩といえば、都会のイメージが強い東京都内の豊かな自然地帯のひとつで、「日原鍾乳洞にっぱらしょうにゅうどう」「奥多摩湖」「御岳渓谷みたけけいこく」などが有名だ。だが、降り立ったのは森の奥地。観光客が訪れるような場所ではなく、山の起伏の険しい場所だった。清らかな水の流れる音や鳥のさえずり、風に揺れる木々の声のみが耳を支配し、人の声は聞こえない。あたりには豊かな自然が広がるばかりで、建物のようなものは見えず、唯一目の前にある人工的なものといえば、しめ縄の巻かれた、佐和子の胸の辺りまである大きな岩。


「あの、差出人の名前が見当たらなかったんですが、どなたからの問い合わせだったんでしょう」

「困るよねえ。ちゃんと名前を書いてもらわないと。あやかしたちからの取材依頼は、こういうクイズみたいな情報が不十分なものが多いんだ。読む相手のことなんか考えちゃいない。まあ、多摩川の川沿いを待ち合わせ場所に指定してきてるってことは、たぶん川天狗じゃないかな」

「川天狗……?」


 天狗は知っているが、川天狗という言葉に馴染みがない。佐和子が首を傾げていると、永徳はなにかに気づいたように空を指し示す。分厚い雲が折り重なるように広がる空に、大きなカラスの影があった。影はどんどんと下降を続け、クルクルと佐和子たちの頭上を旋回し、ゆっくりと地面を目指して降りてくる。


 近づくにつれ、それが翼の生えた人型のなにかであることが佐和子にもわかった。


 ——もしかして、あれが川天狗?


 土煙を起こしながら地面に着地したあやかしの姿を、食い入るような目で見つめる。


 一八〇センチは越えようかという大柄な山伏姿に、長鼻、朱塗りの天狗の面をつけている。黒々とした大きな翼は、相手を圧倒するような威厳を醸し出していた。


「よくぞ来てくださった、大魔王山本五郎左衛門殿。さすがにお越しが早い。我はこの地に住む川天狗の黒羽くろばね。貴殿を迎えに参った」


 地鳴りのように低いが、よく響く伸びのある声だ。


「俺は山本五郎左衛門ではない。父はすでにこの家業を引退していて、今は息子である俺が継いでいる。名は笹野屋永徳。以後よろしく頼む」


 口元に笑みは浮かべつつも、相手の様子を伺うような慎重さをにじませながら、永徳はそう答える。


「……なるほど。引退なさったか。それも世の流れよの。なにはともあれ、ご足労感謝する」


 編集部員以外のあやかしと彼が対峙しているところを見るのはこれがはじめてだったが、黒羽の態度を見るに、やはり永徳はあやかしの世界で一目置かれる存在ではあるらしい。


「して、その女は」

「彼女は俺の嫁……」

「あやかし瓦版編集部員の鳥海佐和子と申します」


 佐和子はかぶせ気味にそう名乗った。いつもの永徳の調子を考えると、「嫁候補兼編集部員」と紹介するだろうと思ったのだ。


「なるほど、女中の方であったか」

「女中ではない。社員だ」


 永徳の言葉には反応せず、黒羽は佐和子に近づいた。永徳が咄嗟に佐和子を背に隠したが、永徳の肩越し、覗き見るように顔を見られる。

 近くに立たれると、この黒羽の体格の良さがよくわかった。筋骨隆々で、首が太く、肌の色は浅黒い。山伏の服装も相まって「修行僧」のような印象を受ける。


「うむ、悪くない。人間の女だな? 佐和子、結婚はまだか」

「……はい?」


 初対面の天狗にそんなことを聞かれるとは思わず、佐和子は唖然とした。富士子といい、最近は人の結婚事情に土足で踏み込むのが流行りなのだろうか。


「悪いね、黒羽。彼女は俺の嫁候補なのだ」

「よ、嫁候補ではありません……」


 佐和子は反射的に永徳の言葉を否定する。

 あらぬ噂が広まるのは好ましくない。永徳が有名なあやかしの息子であれば尚更だ。


「本人は違うと言っているようだが」


 黒羽が笑い混じりにそう言うと、永徳はやれやれと言った様子でため息をつき、佐和子の方へ顔を向ける。


「鳥海さん、天狗はね、人間の女性を嫁に取るんだ。……それに天狗以外でも、あやかしには、人間の女を好んで攫うものも一定数いるからねえ……。それもあって嫁候補だとあちこちで紹介していたのに」

「えええっ! でも人間と恋愛するあやかしは少ないって」

「人間の女性を『獲物』として狙うあやかしは多いってことだよ」


 ——それならそうと、早く言ってください。


 そう抗議しようとしたが、天狗の面に凝視されているのもあって、言葉が声にならない。「黒羽、彼女を攫われては困る。仕事ができなくなってしまう。鳥海は我が編集部のスーパールーキーだからね。彼女がいなくなっては、君の依頼も受けることができない」


「そうか、それなら仕方がない。では本件が終わってから、婚姻の話については進めることにしよう」


 佐和子はもはやなにから突っ込んでいいのかわからなかった。永徳の「スーパールーキー」発言は、佐和子を攫われないための口上だというのはわかるのだが、実が伴っていないこともあって、なんだかむず痒い。黒羽の方は、一旦は納得をしたようだが、嫁取りについて諦めたわけではないようだ。


 とりあえず佐和子は、永徳の「嫁候補」発言については、今後は目を瞑ろうと思ったのだった。

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