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第10話 デートファッション

 出勤二日目。佐和子は前日よりもさらに早めに家を出て、笹野屋邸へ向かう。昨日ほど気持ちよく晴れてはいなかったが、寒さは少し緩んで、過ごしやすい気温になっていた。


 ——よかった。笹野屋さんはいないや。


 昨朝永徳が立っていたあたりを見てみたが、ほとんど車の止まっていない駐車場がそこにあるだけで、彼の姿はない。そのまま公園の目の前を左に曲れば、根付のおかげか、「笹野屋」と表札のかけられた屋敷がそこに見えた。


 庭を掃いていた米村に会釈し、玄関に上がり、職場の襖をそっと開いて中を覗き見る。ほとんどの社員が出勤前のようで、編集長である永徳と刹那の姿だけがそこにはあった。


「おはようございます……」


 遠慮がちに挨拶をすれば、永徳と目があった。刹那にはやはり、聞こえていないふりをされている。


「ああ、鳥海さん今日も早いねえ。あ、おつかいは済ませてくれたかい?」

「はい、ここに」


 佐和子はマイバックにぎっしり詰まった雑誌を永徳に見せた。すると彼はにこりと笑い、刹那の席のすぐ近くにある棚を指差した。


「資料はそこの本棚に入れておいて。社員が自由に読める資料スペースなんだ」

「わかりました」


 佐和子は刹那の様子を伺いながら、おそるおそる本棚の前まで進む。

 ——井川くんは昨日の夜刹那さんに会う予定だって言ってたけど。雑誌を渡せたのかな。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、雑誌を本棚に入れていく。五冊目を差し込んだあたりで、背後から視線を感じて振り返り、ギョッとした。


「うわっ! ちょっと、急に振り返るんじゃないわよ!」

「わああ! す……すみません!」


 刹那が佐和子の肩越しに、新たに差し込まれた雑誌の背表紙を見ていたのだ。突如背後に現れた日本髪の女性の首に佐和子は思わず飛び上がったが、ふと、井川との会話を思い出す。


 ——これは……うまくいけば、刹那さんとの会話の糸口になるかも……。


「あの、刹那さん……その……」

「なによ、なんか用? 忙しいのよね、あんたと違って。用件がないなら、さっさとそこをお退きなさい!」


 佐和子の眼前まで首を伸ばし、まるでカツアゲをする不良の如く鋭い眼光を向けてくる刹那に、佐和子はすくみあがり、キュッと唇を結ぶ。


 ——怖い……。


 給与はいいけれど、やっぱり病み上がりにこの職場を選んだのは間違いだったんじゃないだろうか。こんなに疎まれながら仕事をしていたら、またきっと気を病んでしまう。


 下向きな気持ちが胸に広がり、心が黒く染まる。一度味わった自尊心の消失は、心に深く根を張っており、少しでも嫌な事があれば佐和子を谷底に引き込もうとする。仕事を辞めてからこれまでも、現状から這いあがろうとして、小さな綻びをきっかけにふたたび自室に引きこもることがよくあった。


 しかし今日は。昨日の永徳の言葉が、落ち窪んだ心の奥で、唯一光を保っていた。


『これは君にしかできない仕事だ』


 まだ、仕事の「し」の字も始まっていない。人間というだけで自分を見てもらえず、せっかくかけてもらった期待に応えられないのは悔しい。歩み寄る努力をして、せめてなにか一つでも役に立ちたい。


 ——ええい、当たって砕けろだ。


「私、昨日。鶴見駅の駅ビルにある書店で、井川圭介くんという男の子に会ったんです」


 想定外の言葉だったのだろう。刹那は目を見開き、その場で固まる。


「あの、私初対面だったんですけど。デートに誘っている彼女が、なかなか首を縦に振ってくれないって、悩んでるんだって話を聞きまして……そのお相手が……あの、刹那さんて聞いて」

「圭介が、あんたに相談したって……?」

「えっと、あの、それで……」


 みるみるうちに顔を真っ赤にした刹那は、机を思い切り叩いたかと思うと、佐和子に向かって叫んだ。


「なんであんたなんかに相談するのよ! 腹立たしい!」


 そう言うと、刹那は勢いよく立ち上がり、襖の外へと出ていってしまった。

 怒気に押されてその場で尻餅をついてしまった佐和子は、しばし唖然としていたが。自分の情けなさに、涙が滲んだ。


 ——どうしよう。怒らせちゃった。話題の切り出し方が不味かったんだ。


 雑誌を抱えていた両手が震えている。これで完全に彼女との関係性にトドメを刺してしまった。指導係に見放されては、どうやったって仕事を続けられるはずがない。


 ——もうだめだ。ここではやっぱり働けない。


 手の甲で涙を拭いつつ、床に手をついて起きあがろうとすると、頭上から声をかけられた。


「鳥海さん」


 佐和子が顔を上げると、目の前には永徳が立っていた。サファイアを思わせる青い瞳が、優しく笑っている。彼は佐和子の腕を引っ張って、起こしてくれた。


「私、余計なことをしてしまいました……刹那さんの個人的なことに、首を突っ込んで。やっぱり、私……」


 俯いたまま、涙声でそう言葉を絞り出した佐和子に対し、優しく諭すように、永徳は言う。


「あやかしが人間に恋をする、って別にあり得ないことじゃないんだけど。まあ、よくあることではないんだ。彼女にとってもはじめての経験のようで。刹那なりに戸惑っているみたいなんだよね。ここのところ、彼女にしては元気がなかったし」


 知ったふうの永徳の話し口に、佐和子は顔を上げた。


「もしかして笹野屋さん、刹那さんの恋人のこと、ご存じなんですか……?」


 ——そういえば。


 昨日の去り際、「あやかしと人間の恋愛について、鳥海さんにアドバイスを貰いたい」と言っていた。おつかいと称して書店に向かうように言ったのも彼だったわけで。


 ——もしかして、笹野屋さん、私が刹那さんと打ち解けるきっかけを与えようとしているんじゃ。


「……笹野屋さん、昨日井川くんがあの書店に来るの、知ってたんですか?」

「俺の能力のひとつに、遠方の出来事を視ることのできる、千里眼というのがあってねえ。彼がちょうどやってくるのが見えたんだよ」

「やっぱり……」


 見守るような優しい目を佐和子に向けながら、永徳は言う。


「対立している相手と仲良くなるって、とっても難しいことだよね。スマートにやろうとしても、なかなかうまくいかないものだ。特に刹那みたいな相手だとね」

「はい……」

「不格好でいいから、思い切りぶつかってきなさい。きっとその方がうまくいく。刹那は三ツ池公園にいるよ。企画が煮詰まったときとか、よくそこで寝転がって頭の中を整理するらしい」

「い、行ってきます!」

「気をつけて」


 佐和子は襖を飛び出し、井川が話していた「例の場所」へと向かっていった。


「たぶん、井川くんが言ってたベンチだよね?」


 おそらく頭を整理するために向かったその場所で、刹那は井川に出くわしたのだ。まったく別の目的でその場にきていた二人が度々顔を合わせるうち、恋に落ちたということだろう。


「刹那さん!」

「……あんた! 追ってきたの? 鬱陶しい人間ね」


 イライラの煮詰まったような表情を向けられ、佐和子は怯む。しかしこのまま引き下がっては、せっかく永徳がくれたチャンスを無駄にしてしまう。佐和子は地に着いた足に力を込めながら、ゆっくりと刹那に語りかけた。


「あの、刹那さん。井川くんとのことで、もし悩んでいることがあるなら。独り言だと思って呟いてみませんか。ひとりで思い詰めているより、ずっとスッキリすると思うんです」


「……独り言」


 自分だってこれまでろくな恋愛をしてきていない。百戦錬磨の美女ならまだしも、相談相手としてはどう考えても不十分。刹那だってきっとそう自分のことを見ている。だったら、壁だと思って愚痴ってもらうのが一番いいと思ったのだ。


「私、存在感のなさなら自信があるんです」


 真面目な顔でそう言えば、刹那に鼻で笑われる。


「そんなものに自信を持ってどうするのよ」

「……はは。まあ、そうなんですけど」


 そう言ってしまったあと、佐和子は自分で情けなくなった。頑張っても足掻いても、咲くことのできない雑草のような自分。そういう存在なのだと改めて自分にラベルを貼ってしまった気分だった。


「まあ、いいわ」

「え」

「そこまで言うなら呟いてやるわよ、独り言」


 はあ、とため息をついた刹那は、自分が座っているベンチの横を指差した。座れと言っているらしい。佐和子がたじろぎながらも隣に座ると、刹那は池の方を向いたまま、話し始めた。


「……はじめは変な人だなと思ったのよ。ほとんど毎日、しかも夜に。ひとりでこのベンチに座ってぼーっとしてるの。泣いてるときもあったわ」


 相槌は打たず、佐和子は刹那と同じように池を見ていた。それが逆に良かったのか、刹那はだんだんと饒舌になっていく。


「自分の情けないところを、躊躇なくさらけ出して弱音を吐いたりするところがね。……可愛いなと思ったのよ。お付き合いしてほしいって言われたときはとても嬉しかったわ。だけどね」


 ふたたびため息をつき、刹那は眉間に皺を寄せた。


「デートしようって言われて、戸惑っちゃったのよ。せっかく好きな人と出かけるんだもの。綺麗な格好で出かけたいじゃない? でも相手は人間だから。きっとアタシの思う『綺麗』と、人間の思う『綺麗』は違うし。変な格好で行って、彼が恥ずかしい思いをさせるのはやだなって。圭介が服を買ってくれるって言うんだけど。あの人どうもセンスが良くなくて。それにデートの服を選ぶって女の楽しみでもあるのよ。相手のために、自分を最高に綺麗に見えるように着飾るっていう楽しみ。あんたにもわかるでしょ」


 独り言、だったはずなのだが。刹那は無意識なのか、佐和子に応答を求めてきた。それが嬉しくて、佐和子はじわりと心が温まるのを感じる。


「はい、とってもわかります……悩んでる時間が楽しいんですよね」

「そう! そうなのよ! わかってくれる? でもねえ、アドバイスしてくれる相手がいなくて。自分で人間の雑誌を見ようにも、なにが自分に合うのかさっぱりだし。そもそも買いに行くのも勇気がいるし……」

「刹那さん、おこがましい申し出とは思うんですが……」

「なによ」

「私が、刹那さんの好みを聞きながら、人間とのデートに合いそうな服を選ぶ、っていうのはいかがでしょうか。お買い物だって私が付き添えば、ひとりよりは買いに行きやすいでしょうし」

「……!」


 刹那の悩みを解決できるのは、人間、あやかしどちらの世界にも理解がある人間の女性。そしてそんな人物は、刹那の身近ではここにいる自分しかいない。


「で……でも……」

「刹那さん、井川くんと綺麗な格好でデートがしたいんですよね?」


 しぶる刹那にそう佐和子が念を押すと、彼女は不機嫌そうな顔で叫んだ。


「……まったくあんたは! 陰気な上にお節介なのね」


 刹那にそっぽを向かれてしまい、やっぱり差し出がましかっただろうかと俯く。 しかしそのあと出たひと言に、佐和子は頬を綻ばせた。


「まあ、どうしてもって言うなら……手伝わせてあげてもよくってよ」


 池のほうに顔を向けていた刹那の頬は、ほんのり赤く染まっている。どうやら素直にはお願いできないタイプのようだ。


「え……」

「あと! 刹那さん、ってなんか、おばさん扱いされてるみたいで嫌なのよね。アタシのことは刹那ちゃんとお呼びなさい。うちの組織はね、編集部員の間に上下関係はないのよ。だから敬語もなし!」

「え、あ、わかりました。……あ、わかった……」

「よろしい。とりあえず、編集室に戻りましょ。そろそろみんな出勤してくる頃よ」

「……はい!」


 あやかし瓦版の編集室に戻ると、すでにほとんどの社員が出社してきていた。刹那が佐和子と一緒に戻ったのを見て、永徳は両眉をあげたかと思うと、優しい微笑みを浮かべる。 


 佐和子がお礼を言おうと口を開くと、永徳は首を横に振り、そっと人差し指を唇に当て、満足げな顔をしていた。

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