隣の永徳はといえば、編集部員の猛反対にかけらも動揺する様子はなく、ヘラヘラと笑っている。
「まあまあ、刹那(せつな)、落ち着きなさい。鳥海さん、こちらはろくろ首の刹那。ちょっと気は強いが、仕事はできるし、自由きままなあやかしが多い中で、一番気質も真面目でね。君が入社してくれるなら、彼女に指導係を任せようと思っているんだ」
彼の目には状況が見えていないのだろうか。佐和子がなにか言う前に、刹那が怒鳴りだす。
「話聞いてました? 絶対に嫌ですよ、人間の指導係なんて! 今抱えている企画だけでも大変なのに、使えなさそうで陰気な小娘の相手なんか、まっぴらごめんです」
顔を紅潮させ、そのまま破裂しそうな勢いで怒る刹那を前に、佐和子は後退りをする。
「まあ、それはおいおい話すとしよう。とにかく、これが明るくて楽しい我が職場だ、鳥海さん」
「編集長!」
体をくるりと反転させ、自分に背を向けた永徳に向かって、話は終わってないとばかりに刹那はそう叫ぶ。
——どこが、「明るくて楽しい職場」なの……?
ギャアギャアと怒鳴り散らす刹那の存在などまるで見えないかのように、「諸条件の説明があるから」と爽やかに言い放ち、永徳は佐和子を廊下に引っ張り出す。玄関に続く廊下を先導する永徳に、佐和子は慌てて抗議をした。
「あの、どう考えても無理があるんじゃないでしょうか。あやかしの皆さんの中に混じって、私が仕事をするのは……」
あんなところで働くなんてとんでもない。
「なかなか賑やかで活気のある職場だろう?」
そう微笑む永徳に、佐和子は不満の色をあらわにする。
——ものは言いようにも程があるでしょ。なんとかうまく断って、早くこのあやかしの巣窟から逃げなきゃ。
今見たものはすべて夢だったと思いたいところだが、残念ながら佐和子は起きていて、歩いている。しかも先ほどの柚子茶のせいか、いつもより頭もシャッキリしているくらいだ。「あやかし瓦版編集部」は確実に目の前に存在していた。
こんな場所で働いていたら命がいくつあっても足りない。それに「人間」というだけであれだけ社員に嫌悪されるのだ。働く意欲が極限まで失われている人間が、あの中でうまくやっていけるはずがない。
しかし永徳はにっこりと笑うだけで、佐和子の反論には耳を貸すつもりはないようだった。玄関の刺繍画の前で立ち止まると、勝手に説明を始める。
「試用期間とかは特に設けていない。残業代あり、交通費あり、各種福利厚生完備、住み込み希望であれば居住費はタダ。部屋はいくらでも空いているからね。なお、給与は……」
永徳は佐和子の耳の高さまで顔を傾けたかと思うと、ボソッと金額を囁いた。
「えっ! そんなにですか?」
なんと基本給が、佐和子がもといた会社の二倍の金額だったのだ。
「で、でもどうしてそんなにお給料がいいんですか」
上手い話には裏があるはず。うしろ暗い事情があるのではないかと、佐和子は疑いの目を向ける。
「笹野屋家は都内に大きな土地を持っていてね、地代収入で潤っているのだよ。そこで得た利益をメディア事業の運営に使っているんだ。それにあやかし瓦版は、あやかし界のオンラインメディアの中でトップに位置するメディアだからね。編集記者の質は確保したい。だから給与が高いのだよ」
「これまでに人間を雇われたことはあるんですか?」
「人間の編集部員は個人的に欲しいと思っていて、雇おうとしたこともあったんだけどねえ……。まあ、なかなか難しくてね」
ここまで見聞きしてきたことを総合すると、きっとあやかし社員に受け入れられなかったか、職場を見た瞬間逃げられてしまったのだろう。
「どうだい、やるかい?」
爽やかな笑顔を向けられて、佐和子は腕を組み唸った。
給与面だけで見れば、失業中且つ、履歴書に大々的に書けるような実績も持っていない佐和子にとってはとんでもない優良求人だ。人間……いや、あやかし関係に難があるのは否めないが。
実家の部屋に引きこもってからの月日が積み重なるうち、生活費ばかりを食う佐和子に対して両親の視線も厳しくなってきている。アルバイトでもいいから、なにかしら仕事をしなければならないとは思っていたところだった。
永徳の態度を見るに、あやかし瓦版に関しては、佐和子が今「はい」と言えばそのまま採用される勢いである。
「悩んでいるくらいだったら、とりあえず働いてみるといい。嫌ならいつでも退職届は受け付ける。それでどうだい?」
いつでも辞めていいと言われて、入社のハードルが一気に下がる。一度出勤してみて、その場で辞退してもいいのであれば、断る理由はないように思われた。
「そ、それなら……」
「よし、じゃあ決まりだ。早速明日から来ておくれ。あ、就業時間は十時から十八時だよ。先ほど言った通り食事付きだから、お弁当などを持ってくる必要はないからね」
「……わかりました、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく頼むよ、新入社員兼嫁候補殿」
「お願いですから、嫁候補、というのは訂正しておいてください……。富士子さんのお誘いは断っているわけですから。でないと私、殺されてしまいそうです、刹那さんに」
そう念を押すと、永徳はびっくりしたような顔をしたあと、大口を開けて笑った。
「殺しはしないよ。ああ見えて殺生は好まないんだ、ここにいるあやかしは。大丈夫、はじめは難しくとも、そのうち君も馴染むさ」
永徳は宙に手をかざすと、なにもない空間から契約書を取り出す。驚く佐和子にそれを手渡し、「家で書いて明日持ってくるように」と彼は言った。
笹野屋邸の門扉の外に出るとき、またあの大島桜が目に入った。八重咲きの桜は風に揺られ、花びらを散らしている。佐和子がこの家を訪ねてきたときよりも、輝きが増したように見えたのは、単なる気のせいだろうか。