佐和子に失望した様子は微塵もなく、むしろ楽しそうな様子である。想像していたのとは真逆の相手の反応に、佐和子は鳩が豆鉄砲をくらったような顔になった。
「それがいい。いや、そうすべきだね。安心しなさい、うちは明るく楽しい良い職場だ。福利厚生も充実しているぞ」
「いや、ちょ、ちょっと、待ってください」
「そうと決まったら職場見学だ! 体調は大丈夫そうだね? うん、顔色も良くなった。さあ、ついておいで」
佐和子の返答など聞く気はないといったふうの永徳は、しっかりと佐和子の腕を掴み、屋敷の奥へ奥へと歩き出す。
「あの、業務内容も聞いてないのに、いきなり職場見学って。私、承諾してませんし」
慌ててそう反論してみるも、永徳の勢いは止まらない。
「ああ。人間相手に細かい説明から入ると、大方逃げられてしまうものでね。見てもらったほうが早いよ」
——説明を聞いた相手が逃げてしまうって。それってとんでもない職場なのでは。
長い廊下の突き当たり、そこにあったのは物々しい雰囲気を放つ大きな襖だった。年季の感じられる襖紙には、鬼や大蛇や火車などの魑魅魍魎の類が生き生きと描かれており、さながら地獄絵図のよう。
「開けるぞ」
永徳は襖の引手に両手をかけ、一気に開け放った。
「う、うそお……!」
目の前に広がった光景に、驚きのあまり佐和子は両手で口元を覆う。
襖の向こうに現れたのは、ろくろ首や河童など、ひと目見て人間と違うとわかる生き物たちが、ノートパソコンをカタカタと鳴らしながら仕事をしている、世にも奇妙な職場風景だったのだ。
あまりに現実離れした光景に、もはやどこから突っ込んでいいのかわからない。コスプレ好きの職場なんでしょ、と一蹴できればよかったのだが。ブラインドタッチでタイピングしつつ、同僚の席まで首を伸ばしている日本髪の女性に、その可能性を完全否定されてしまっている。どう見ても、あの伸縮自在の首は作り物ではない。
「こ、こ、こ、これは……あの、その」
「あやかし瓦版オンラインの編集部さ。あやかし向けのネットニュースサイトを作っているんだ。昔は紙で作っていたんだけどね。あやかしの世の中でもパソコンやスマートフォンが普及していて。思い切って完全オンラインに振り切ったんだ」
「あ、あ、あやかし……あの、もしかして、あなたも」
呼吸を止め、佐和子は永徳を見上げる。
「俺はね、半妖なんだ。父があやかしで、母は人間。もともとあやかし瓦版は、うちの父が明治に入ってから始めた仕事でね。俺が継いだのは平成に入って少しした頃かな」
淡々と説明をする永徳を、佐和子は改めて観察した。人間離れした美しさであるし、五十六という年齢が本当なのであれば、半妖だと言われた方が納得できる気もする。
「でも……あやかし向けのネットニュースなんて。公にされていたら人間世界でも話題になりそうなものですけど。私、初めて聞きましたよ」
佐和子が質問をしてきたことが嬉しかったのか、嬉々とした表情で永徳は答える。
「ああ、一般の人間にはね。見られないようにしているんだよ。妖術でね」
「編集長! お取り込み中すみません。少々確認がありまして。今月の編集長コラムなんですが、最終稿はいつ上がりそうですか?」
声をかけてきたのは、口元から鋭い牙をのぞかせる青白い肌の青年。金髪で彫りが深い顔立ちの彼は、見たままの印象でいうならば、おそらくヴァンパイア。彼は真っ赤な瞳をチラリとこちらに向け、ソワソワした様子を見せつつ、永徳の返答を待っている。
「うーん、あと二、三日待ってくれないかい。もうちょっと練りたいんだ」
「了解しました! あの……そちらのお方は」
「ああ、彼女はね。新入社員候補兼俺のお嫁さん候補だよ。鳥海さん、こちらはインターンのマイケル。見ての通りのヴァンパイアだね。安心して、ベジタリアンだから。噛んだりしないよ」
「編集長、違います。僕がハマってるのはマクロビオティックです」
永徳の言葉をマイケルは厳しい表情で否定した。おそらく間違えるのはこれが初回ではないのだろう。
「ああ、そう。それだ。俺にはその違いがよくわからんのだが」
それそれ、と指をさす永徳の仕草は、「おじさん」を彷彿とさせる。見た目は若くても、こういう細かいところに年齢は出るものだなと、佐和子は頭を小さく縦に振った。
ヴァンパイアのマイケルは佐和子をまじまじと見ると、挨拶もそこそこに疑問を口にする。
「編集長にガールフレンドがいらっしゃったとは知りませんでした。失礼ですが、鳥海さんはどんなあやかしでいらっしゃるんですか。自分、不勉強で、ぱっと見でわからず」
問われた永徳は屈託のない笑顔をマイケルに向けた。
「彼女は人間さ」
「に……人間!」
「人間」という言葉を聞いて、先ほどまでこちらに無関心だったあやかしたちが、一斉に佐和子を見た。異形の集団に射殺さんばかりの勢いで見つめられ、背筋が凍る。どうみても好意的な視線ではない。目の前にいるマイケルも口を押さえ、信じられないという表情を作っていた。
「……おや。なにか問題でもあったかな?」
意外そうな表情でそう言う永徳に対し、口を挟んできたのは、先ほどまで同僚と談笑していたろくろ首の女性だった。
「『なにか問題でも?』じゃありませんよ! なにを考えているんですか。あやかしに向けた記事を書いているうちの編集部に、人間を雇い入れる? バカ言わないでください。使えないに決まってるじゃないですか!」
『使えない』の一言に古傷を抉られつつも、永徳の勝手でここに連れてこられているということもあり、思わず反論が口をついて出そうになる。が、それよりも先に能天気な調子で永徳が口を開いた。
「いやいや、人間だからこそ書ける記事もあるはずだろう?」
「そんなものあるわけがないでしょう! それにねぇ、ご自身の立場をわかってます? 大魔王山本(さんもと)五郎左衛門(ごろうざえもん)の御子息なんですよ、編集長は。『嫁候補です』だなんて軽々しく口にするべきじゃありません! それにしかるべき力のあるあやかしを嫁に取るべきでしょうが! 人間との恋愛なんてうまくいきっこありません。さっさと野山にでも捨ててきてください!」
——大魔王? 山本……なんて? もしかして笹野屋さんて、有名なあやかしの息子さんなの……? 山本なんとかなんてあやかし、聞いたことないけど。
頭の中には疑問符がいっぱいだったが、佐和子が言葉を発していいような空気ではない。ろくろ首の女性は、いつの間にか長い首を佐和子の顔のすぐ近くまで伸ばしてきて、上から下まで検分するように眺めていた。今にもヘビが獲物を絞め殺すが如く、首を巻きつけられそうな状況に怯みながらも、佐和子はおそるおそる言葉を紡ぐ。
「あの、私、嫁候補でも新入社員候補でもなくて……」
誤解を解こうと、勇気を振り絞って声を上げたのだが。
「人間は黙りなさい! アタシは今編集長と話をしているの」
ろくろ首に目を血走らせながら怒鳴られて、佐和子はすくみ上がった。
——もう、早くこの場から離れたい。笹野屋さんに無理やり連れてこられただけなのに……。