「いえ、そもそもお断りしようとしていた話ですので……それに、あの、私が富士子さんから聞いたのは、五十代で、結婚歴のない、物書きをされている息子さんだと……」
「だから、それが俺だよ」
「え、えええ!」
驚きを隠すこともできず、佐和子は間抜けな叫び声を上げた。
「堅苦しいのもなんだから、縁側に行こうか。その方が緊張もほぐれるだろう」
先ほど見た日本庭園が一望できる場所に出て、一瞬景色に目を奪われた佐和子だったが。今起きている事態への混乱が強く、表情をこわばらせたまま、ただ黙っていた。
「俺の見た目が気になるかい。年齢とだいぶ違うじゃないかと」
「いや、まあ、若く見える方もいらっしゃいますし……」
佐和子にとっては信じ難い話だったのだが、永徳は自分の母親が連れてきた人間だと納得したらしい。
「まったくうちの母は」なんて言いながらも、なんだかそわそわした様子で、楽しげに会話を投げかけてくる。
「この見た目がなかなかネックでね。いい加減身を固めようと、結婚相談所などに登録しようと試みたこともあったんだが。本人確認で引っかかるのだよ。どう見ても五十代というのは嘘だろうと」
「でしょうね……」
落ち込みがちになってからは、人に会うことを避けていた。それが富士子と出会ったがために、人様のお宅に上がって、見知らぬ男と見合いをする羽目になっている。想定外のこと続きで、ドッと疲れが来ていた。そもそも、単に見合い話を断りに来ただけで、こんなに長居をするつもりもなかった。
「うわの空だな。顔色も悪い。これでは見合いも進まないなあ」
佐和子の浮かない様子に気づいたのか、永徳はこちらの顔を覗き込んでくる。
「ですから、その話は無かったことに。私、そろそろ帰らないと」
急に目の前にやってきた綺麗な顔に動揺し、咄嗟に二歩下がる。近くで見ても肌のキメが細かくて、これで五十代は詐欺だと思った。
「そうか。だけど、その顔色のまま帰すわけにはいかないね。途中で倒れられては敵わないし」
顎に手を当て、考えるような素振りをしたあと。
「そこの客間で待っていなさい」
そう言って、彼は奥へ引っ込んでしまった。一刻も早くこの場を離れたいと思っていた佐和子だったが、屋敷の主人に待っていろと言われては、勝手に帰ることもできない。しぶしぶ、もといた客間の座布団に、遠慮がちに正座をしたところで、ずきり、と頭に痛みが走る。
「イタタ……」
仕事を辞める少し前からずっと安眠できていない。逃げるようにアパートを引き払い、鶴見の実家に帰ってきて三ヶ月が経っていても、それは変わらぬまま。こめかみを押さえて深いため息をつくと、甘い柚子の香りが鼻をくすぐった。顔を上げ障子の方へ向くと、永徳が盆に乗せた茶を運んでくるところだった。美しい所作でちゃぶ台の前に座ると、彼は佐和子の前に湯気の立つ湯呑みを差し出す。
「疲れを取るお茶だ。飲んでいくといい」
「……ありがとうございます。柚子茶ですか?」
「効果の高い薬湯だと思って飲んでみなさい。きっと今晩はぐっすり眠れるはずだ」
自信ありげにそう言う永徳は、子どもにありもしない魔法の話をするような胡散臭さがある。
「ありがとうございます。では、いただきます……」
湯呑みを両手で包み、ゆっくりと中身を口に含む。まろやかな甘みが口の中いっぱいに広がり、柑橘系の香りが鼻を抜けると、不思議なことに先ほどまでの頭の痛みはすっかり消えてしまった。モヤのかかっていたようだった思考も、くっきりとしてきた気がする。
「このお茶……すごいですね。魔法みたいです」
「まあ、魔法みたいなものかもな」
クック、と笑う永徳の横顔は、障子を透ける日の光を帯びて、白磁のような輝きを放っている。この浮世離れした容姿の人が「魔法」だなんていうと、うっかり信じてしまいそうになる。
「さて、鳥海さんと言ったかな。これで少し頭がスッキリしただろう。まずはお互いのことをもっと知ろうじゃないか」
断ると言っているのに、永徳は見合いに乗り気な様子で。前のめりに佐和子の話を聞こうとする。
「いやあの……」
「君はどんな仕事をしているんだい? ずいぶん疲れているようだけど」
見合いの定番の話題ではあるのだが、この話を振られると大変気まずい。しかしお茶をいただいた分くらいは会話をしなければならないかと、佐和子は思い直し、気が進まないながらも永徳の質問に返答する。
「実は三ヶ月前に辞めていまして……今は働いてはいません」
「おや、そうなのかい。退職の理由を伺っても?」
喉に異物が詰まったような苦しさに襲われ、下を向く。お願いだからそれ以上掘り下げないでほしい。そう願ってみたものの、相手は興味津々といった様子で質問を重ねてくる。
「それだけしんどそうな様子を見るに、業務過多で体を壊したとか」
「まあ……そんな感じです」
「なぜそんなになるまで仕事を?」
さすが親子というだけあって、富士子と同じくグイグイと人の事情に入り込んでくる。観念した佐和子は、ため息をついて、重い口を開いた。
「……憧れていた部署に異動になって、張り切っていたんです」
新卒三年目、営業としてそれなりの成績を残していた佐和子は、もともと希望していたマーケティング部への異動を言い渡された。喜び勇んで部署の扉を叩いたものの、万年人手不足のマーケでは、丁寧な指導はしてもらえず。目まぐるしく降り注ぐ仕事をやっとやっとでこなしていた。だが。
「あるとき小さなプロジェクトを任されたんです。とある製品のプロモーション企画で。自分なりに頑張ったんですけど、大失敗に終わりまして」
膝の上で握られた手に力が籠る。吐き出し始めたら、止まらなかった。
「数百万の予算を無駄にしてしまって。もともと、とろいとか、融通が効かないとか、言われてはいたんですけど。プロジェクトの失敗が決定打になって、『使えない社員』の烙印を押されちゃったみたいで。大量の雑用を押し付けられるばかりになってしまって」
「ふむ」
「これまでの自分のすべてを否定された気がして。気づいたら、食事も、睡眠も取れなくなっていました。最終的に、会社に向かう電車に乗れなくなってしまって」
うしろ向きな返答で、さぞがっかりしただろう。霊魂といえど母親が気に入って連れてきた娘なら、もっとちゃんとしたお嬢さんだと思って期待していたかもしれない。
——なんで初対面の人に、こんなこと話してるんだろう。みっともない。
同期の社員と食事をしていても、みんなそれなりに今の部署で活躍しているようで、暗い顔をしているのは佐和子だけだった。
「で、今後はどうするんだ。どこかに再就職するんだろう?」
「……まあ、いつかは。とりあえずは療養中です」
話しながらどんどん暗さを増していった佐和子の声は、終わりにかけて尻窄みになっていた。すると突然、永徳が自分の膝を打つ。
「よし、いいことを思いついた!」
「え」
弾かれたように顔を上げれば、キラキラと眩しいオーラを振りまく永徳の顔が目に入る。
「リハビリ代わりに、うちの家業の手伝いをしないか」