一方的に押し付けられた縁談をなんとか回避しようと、家に帰って早々、メモに記された番号に何度か電話をかけてみた。だがしかし、相手は一度も電話に出ることはなく、聞こえるのは呼び出し音のみ。居留守を決め込んでいるのかと腹が立ったが、見合いを楽しみにしている老婦人の顔を思い出すと、なんとなくこのまま無視してしまうのは申し訳ない気がして。しぶしぶ佐和子は指定時刻に約束の場所へと来てしまった。
笹野屋富士子の自宅は、「三ツ池公園北門」というバス停から歩いてすぐの場所にあった。
——こんなお屋敷、ここにあったっけ?
指定された住所はバス停の名前にもある通り、三ツ池公園という大きな県立公園のすぐ近くだったのだが。そこにそびえていたのは歴史の感じられる大きな和風建築。この公園には数えきれないほど来ているので、こんな立派な屋敷が近くにあれば見逃すはずはないのだが。
不思議に思いながらも門の前に行けば、あの婦人の言葉通り「笹野屋」と表札がある。
「はい。どちら様でしょう」
電話には一切応答がなかったのに、こちらにはすぐに応答があった。だが、先日のご婦人の声ではない気がする。
——これだけ大きなお屋敷なら、家政婦さんを雇っているのかも。
「鳥海佐和子と申します。こちらの、ええと、『笹野屋富士子』さんと、昨日お会いしまして。ご自宅にお昼に伺うよう言われたんですが。富士子さんはご在宅でしょうか」
「お、奥様とのお約束ですか? 昨日? 少々お待ちください」
それだけ言うと、家政婦らしき女性は通話を切ってしまった。明らかに動揺した様子で、佐和子との約束については聞いていなかったのだろう。
——もしかして富士子さんは、私に言ったことをすっかり忘れてしまっているのかも。それか実はあれは、その場の冗談だったりして。いやいや、それだったらメモまで渡さないか。
そわそわしつつも手持ち無沙汰だったので、あたりを見回してみれば、この屋敷の中にも大島桜が咲いているらしい。屋敷の周りはぐるっと木製の高い塀で囲まれているが、豊かな桜の花を纏(まと)った枝が、ところどころ顔を出していた。
「鳥海様、お待たせいたしました。若様がお会いになるそうです。ただいま門をお開けします」
——若様。若様って、普段の生活で言う? どれだけ高貴なお家なのここは。
心の準備ができないままその場に立ち尽くしていれば、カチャリ、という音とともに、立派な門扉が左右に開く。
門の向こうに現れた風景に、佐和子は固唾を飲んだ。
個人宅とは思えない、優美な日本庭園が眼前に広がる。桜をはじめとした樹木や池、橋などが巧みに配置され、厳かで落ち着いた雰囲気を醸し出していた。外からも見えていた大島桜の大樹は感動的なまでに美しく整えられた出立で、来訪者を華やかに出迎えている。
「うわあ……」
「鳥海様、お初にお目にかかります。家政婦の米村(よねむら)と申します。私が若様の元までご案内いたします」
「えっ、あっ! は、はじめまして。どうぞよろしくお願いします」
すっかり庭園に見惚れている最中、唐突に視界の脇から現れた米村に驚き、素っ頓狂な声をあげてしまった。彼女は佐和子の反応を気にすることもなく、流れるような動作で屋敷の奥へと佐和子を案内する。
——うちのお母さんよりは、少し上くらいの歳かな。
米村は小豆色の和柄の割烹着を着ていて、佐和子よりも頭ひとつ分くらい背が小さい。彼女の小さな背中についていくと、程なくして広い玄関に到着した。正面に佇む額縁に収められた荘厳な玉龍の刺繍画に、この家の格の高さが垣間見える。
ピカピカに磨き上げられた
——若様、と言うから笹野屋さんの血筋の人なのだろうけど。富士子さんの旦那様は海外の人だったのかな?
街を歩けば道行く女性が何人も振り返るような容姿だと、佐和子は思った。
「笹野屋(ささのや)永徳(えいとく)と申します。母とお約束があったということですが、どういったご用件でしょう」
彼はどっかりとその場に座り、佐和子に返答を促す。つかみどころのない微笑みを讃え、青い瞳を興味深げにこちらを見ていた。
——母、ということは息子さんではあるみたいだけど。だいぶ若そうなところを見ると、歳の離れた次男の方、とか……?
緊張感に押されつつも、佐和子は言葉を絞り出す。
「……あ、ええと。昨日バスの中でお会いしたときに富士子さんに話しかけられまして。そのときに、ここにこの時間に来るように言われたんです。息子さんを私に紹介したい、とおっしゃいまして。あ、私、鳥海佐和子という者なんですが……」
自分で経緯を説明していて冷や汗をかいた。富士子がここにいない以上、これではどう考えても佐和子の方が不審者である。
「……なるほど、それで」
まるで佐和子を品定めするように見ながら、永徳は淡々と続ける。
「ここの住所のメモかなにかを渡されたのかな、母から」
「あ、はい。これです」
佐和子は慌ててカバンからメモ用紙を取り出し、永徳に手渡す。彼がメモに視線を落せば、長いまつ毛がより際立つ。まつ毛で顔に影ができる人なんてそうそういない。まるでフランス人形のようである。
「間違いない。母の字だね。まったく、最期に余計なことを」
淡くため息をつきながら、永徳は佐和子にメモを返す。
「最期にって、今、富士子さんはどちらに」
「母は二週間前に亡くなったよ」
「……ええ⁈」
なんでもないことのようにそう永徳に言われ、佐和子は戸惑いをあらわにする。
「きっと霊魂だったんだよ、母の。あの人はね、亡くなる前ずっと、俺が結婚していないのを気にしていてね。それで自分が旅立つ前に、母なりに気に入った娘に声をかけて、ここに連れてこようとしたんじゃないかね。でなきゃ、このメモの説明がつかない」
背中にじんわりと、嫌な汗が浮き上がってくる。
「いや、まさかそんな。だって足もあったし、話もできましたし……」
「事実、母は亡くなっているんだよ。そこに仏壇がある。遺影の写真を見てみたらいい」
立ち上がった永徳が、佐和子の左手側の障子窓を開け放つと、縁側を隔てた先の和室に大きな仏壇があるのが見えた。その仏壇の前にはテーブルが出されていて——佐和子がバスの中で出会った、「笹野屋富士子」の遺影とお骨が置かれていた。
大輪の菊の花に囲まれた上品な笑顔は、たしかに彼女で間違いない。
「そんな……」
思いもよらなかった展開に、佐和子は全身から力が抜けるのを感じる。
「で、どうする。母は俺との見合いを、と言っていたようだが?」
悪戯そうな笑みを浮かべた永徳を見て、佐和子は体をすくめた。