どうしてこんなことになったんだろう?
昨日から感じる視線や頭の中に囁くように聞こえる声は気のせいなのだろうか?
きっかけはわかっている。
あの家に行って、あのノートを持ち帰ってきたからだ。
わかっているがそうは思いたくない。
こんなことが現実にあってたまるかよ……。
昨日の夜。高津健也は友人の吉田友宏を誘って無人の家の前にいた。
「これが蛇餓魅の家か」
高津は無人の空き家を見上げながら言う。
高津は以前に昼間来たことはあった。
あのときは外から見ただけだったが、特段なにか感じるものはなかった。
しかし、夜来てみた今は違う。
夜の闇に浮かぶ家は、なんとも言えない気味悪さを感じる。
そして、なぜかこの周りだけ静かな気がした。
空気も昼間とは違う。
今からこの中へ入ると思うと、いかに巴のためとはいえ躊躇する自分がいた。
「高津さあ、なんで急にこの家に来ようとか言い出したんだよ?」
高津に聞いた吉田の声には、若干のめんどくさい感じが込められていた。
「ちょっと巴がこの家の噂が本当か知りたいって言うからさ。まあ、暇だしいいかなってな」
「巴?あのチューボーか」
吉田は高津から以前、高津の付き合いで後輩と遊んだときに面識があった。
そのときの印象は、飛び抜けて美少女だというものだった。
通っている高校にもこのレベルの女子はそういないが、どこか癇の強さを感じた。
美人は美人なのだが、巴の言動がどうにも吉田は好きになれなかった。
「あんな気の強いヤツがタイプかよ」
「なんだ?悪いかよ?」
「別にお前の好みだから関係ないけど、俺まで巻き込むなよ。なんでこんな場所に付き合わせるんだよ」
「えっ?おまえ怖いの?」
高津はからかうように言った。
「バーカ。怖いのはおまえだろ?だから俺を呼んだんじゃねーか」
「それは認める」
「なんか奢れよ。おまえは巴にアピールできるからいいけど、俺にはなんのメリットもねーんだから」
「わかったよ」
家の前でやり取りした後に、正面から家の写真を撮った。二、三枚撮り終えた高津はリュックを肩に担ぐと、吉田の前を歩いて家の裏側へまわった。
「たしかここらの塀が壊れていて入れるって聞いたんだよな」
高津は持ってきたライトで辺りを照らす。
「蚊とか虫がわんさかいるかと思ったけど、全然いねーな。さすが化け物屋敷」
吉田が半笑いで言った。
言われてみればそうだ。
わざわざ虫除けスプレーまでしてきたが、全然いない。
「これだな」
ようやく高津は塀が壊れた箇所を発見した。
中の方をライトで照らすと、庭らしく、雑草が伸び放題で腰の高さまでありそうだ。
その奥に家がある。
思っていたより敷地は広いようだ。
崩れた塀をまたいで侵入する。
表側は通りに面していて、まだ街灯の恩恵があったが、裏は本当に月明かりだけが頼りのようだ。
改めてライトを持ってきて良かったと思った。
「なあ、あれなに?」
後ろにいる吉田に言われて、高津も振り向く。
吉田が指す庭の一角を照らすと、そこに祠があった。
「なんだよこれ?」
「祠ってやつだ。おまえ知らねーの?」
「俺が言ってんのは、普通こんなもん家にねーだろってことだよ」
「たしかに。でも人それぞれだから、こういう家もあるんじゃね?」
話しながら祠のそばに行く。
石造りの祠は、ずっと放置されていたのだろう。風雨に晒され続けたせいか、苔むして黒く汚れていた。
「これも写真だな」
吉田にライトで照らしてもらい撮影した。
庭に面した窓は雨戸が閉まっていて、入れそうにない。
雨戸を壊してから窓ガラスを割るのも手間がかかりそうだ。
「正面にまわろう」
吉田に言うと、高津は壁伝いに玄関へまわった。
「これで開けるから、門のとこで人が来ないか見ててくれよ」
言いながらリュックからバールを取り出す高津。
「うっわー。そこまでやるか?引くわー」
茶化しながら吉田は門へ行くと、道路を見た。
高津がドアをこじ開けたのは5分後だった。
「おい。開いたぞ」
「すげーな。おまえ犯罪者じゃん」
「おまえは共犯な」
「なんでもいいよ。チャッチャと済ませようぜ」
ドアを開けると闇の中から冷んやりした空気と埃の臭いが外に向かって流れてきた。
吉田が後ろ手にドアを閉めたのを確認してから高津はライトを照らす。
「なあ、なんでこの家はこんな涼しいの?エアコンついてるのか?」
「そんなわけないだろ」
誰も住んでいない家なのは高津もわかっている。
だが、外の蒸し暑さにくらべて、あまりにも涼しいことに違和感を抱いた。
「どっか…… 二階とか窓開いてて、そっから風でも入ってんだろ」
もっともらしい理由を口にしたのは、自分を納得させるためだった。
剥がれている壁。埃が積もった畳。
散乱した生活の痕跡がある。
高津はライトで足下を照らしながら、まずは一階の部屋を見て回った。
「そういえば自殺した生徒って、俺らの先輩になるんだっけ?」
後ろを歩く吉田が話しかける。
「ああ。そう聞いたな」
「名前なんつったっけ?」
「荒木美咲」
「すげーな!即答じゃん!」
巴が強烈に興味を示したことで、高津はこの件を自分なりに情報収集した結果だ。
それにしても静かだと高津は思った。
普通なら外の通りを車が走る音くらい聞こえそうなものだ。
それが全く無い。
聞こえるのは自分たちの話し声と、歩く度に廊下が軋む音くらいだ。
「その自殺した先輩家族がいなくなってから誰も住んでないんだよな……取り壊すのかな?」
一番奥のリビングに到着した高津は写真を撮りながら独り言ちた。
もし売る気があるなら、管理会社もここまで放ったらかしにはしないだろう。
一階をあらかた探索した高津は二階へ行くことにした。
二階建ての家なら、子供部屋は二階にある。
自殺した女子高生が、まさに生きていた場所がそこにある。
この家の探索は二階からが本番なのだと思うと、怖さと期待が入混じり、テンションが上がってきた。
一階ときたら、拍子抜けするくらいの「ただの廃屋」だった。これでは巴にアピールできない。
階段を見上げると、上は真っ暗だった。
少し躊躇したが、上を照らしてみる。
上がりきった少し奥に白い壁だがあり、得体の知れないなにかが佇んでいるということはなかった。
内心ホッとすると、階段を上がり始めた。
階段を上がり右に行くと廊下に出た。
廊下は左に伸びており、廊下を挟んで部屋が二つ、突き当たりに一つ扉がある。
右側には奥行きがなく、窓がある。
この廊下に面した窓は雨戸が閉められていない。
高津は外から見えないように、壁際に寄りながら窓の外を見た。
ガラスが汚れているせいで、外はほとんど見えない。目を凝らすと、かろうじて下に正面の門が見えるくらいだった。
最初はあそこからこの家を見ていたわけだ。
この家の中から外を見るのははじめてだった。
噂では自殺した女子高生は、この窓際に立っていたらしい。
それも自分たちのような侵入者が窓際に来たときに、たまたま外を歩いていた人が見たのだろう。
怖い話なんていうのは、まあ、こんなもんなんだろうなと一人納得した。
「おい。部屋見てみよーぜ」
「おお」
吉田に言われて、窓から離れると、
手前二つの部屋にはこれといってなにも無かった。
いよいよ奥の部屋に入る。
部屋には木製の机とベッドのフレームだけがある。
机の上には汚れたノートが一冊。
おそらくここが自殺した女子高生の部屋だろう。
「なんだこりゃあ……」
ライトで周囲を照らした高津は絶句した。
壁のいたるところに「大呪」「蛇餓魅」と書いてある。
「やべーなこれ」
言いながら吉田が机の上にあるノートを手に取った。
その間、高津は巴に部屋の写真とコメントを送っている。
「おい。これ見てみろよ」
吉田に言われてノートを手に取る高津。
ノートに書いてある名前は「荒木美咲」。
「これって日記じゃねーか」
そこには、自殺した女子高生の日々が綴られていた。
ノートの表に書いてある名前も本人のものだし間違いない。
これはすごい戦利品だと思った。
どうして未だにこんなものが処分もされずにここに残っているのか?高津にとってはこの際どうでもいいことだった。
これで巴を喜ばせてやれるかもしれない。
自分の好感度も爆上げするかもしれない。
今の高津の頭の中にはそれしかなかった。
早速写真に撮り、巴に送る。
巴の反応もメッセージの上では上々だ。
その他は押し入れの中まで見て見たが、高津の興味を引くようなものはなかった。
二人で家を出ようとしたとき、高津は背中に凄まじい悪寒を感じた。
「うわっ!」
思わず声が出てライトと日記を落としてしまった。
「なんだよおまえ?どうかしたかよ?」
吉田が怪訝そうな顔で聞く。
「いや、ん、なんか後ろに」
「ああ?」
吉田は高津の背後をライトで照らした。
廊下があり、その奥には確かリビングがある。
そこには静寂と闇があるだけだった。
なにもいない。
しかし高津には闇の奥になにかがじっと自分たちを見ているような気がした。
「なに帰り際にビビってんだよ」
「そんなんじゃねーよ」
高津は落としたライトと日記を手に取ると玄関から出て行った。
高津は、その夜、家へ帰ると自室で日記を読み始めた。日記の筆者は、17歳の女子高生、荒木美咲だった。美咲の日記には、彼女の孤独な日々、そして、徐々に狂っていく様子が克明に綴られていた。
美咲は、学校でいじめられていた。家庭ではそんな美咲が心を寄せれる相手はいなかったらしい。彼女は、日記に、自分の苦しみや絶望を吐露していた。そして、日記の後半には、不可解な出来事が書き記されていた。美咲は、奇妙な影を見たり、耳元でささやき声を聞いたりしていたというのだ。
徐々に文体も支離滅裂になり、字も歪んできている。
「やべーなこれ……」
日記を読んでいてはじめて高津の心に恐怖が湧き出た。
しかしページをめくる手は止まらない。
日記からも魅入られたように目が離れない。
途中で誰かの視線を感じた。
「ん?」
しかしこの部屋には高津以外の人間はいない。
視線など感じるはずがない。
気のせいにして読んでいくと、ある日を境に「大呪」という言葉が出てくるようになった。
そして「蛇餓魅」という言葉。
「おお!これだよ!これを待ってたんだよ!」
興奮してくる自分がいる。
「蛇餓魅と一緒になった人が来た」「その人は前からこの家にいた」と、いう高津からしたらわけのわからないことが書いてある。
日記を読んでいると、美咲は「その人」にかなり傾倒している様子が書かれていた。
だが「その人」の名前もなにも一切書かれていない。
日記の最終ページには、美咲の自殺を暗示するような言葉「蛇餓魅の森へ行く」と、書かれていた。
間違いない。この後に美咲は蛇餓魅の森へ行って自殺したのだ。
高津は、日記を読み終えた後、ふいに激しい動悸と吐き気に襲われた。
「なんだよ…… ゲロっちまった」
高津の心中に、不当に美咲の死の真相を知ってしまったという、罪悪感など微塵もなかった。
めんどうくさそうに部屋の掃除をしていると、室温が異様に低いことに気がついた。
寒気すら覚える。
「なんだよこれ」文句を言いながらリモコンの室温を上げるが、一向に寒さが変わらない。
そのうちにエアコンからは耐え難い異臭が噴き出してきた。
まるでなにかが腐ったような臭いだ。
さらに吐きそうになった高津は「ふざけんなよ!」と、言って窓を開けた。
「わあああっ!!」
目の前には制服を着た女子の首吊り死体がゆらゆら揺れている。
高津は叫んだ後に仰け反って尻もちをついた。
ここは二階だ。いったいどこからぶら下がっているんだ?ゆらゆらと揺れる死体を見ながら不思議とそんな冷静なことを考えてしまった。
ゆっくりと揺れながら死体の向きがこちら側になろうとしている。
「やべえ…… これマジだ」
高津はうわごとの様に言うと、立ち上がって逃げようとしたが、腰が抜けてしまって立てない。
「わわっ……」
異様な冷気に部屋が満たされているにもかかわらず、全身から汗が噴き出てきた。
耳元で聞きなれない声が聞こえてくる。
ぼそぼそとなにを言っているのかは聞き取れないが、女の声ということだけはわかった。
恐怖が指先から背筋を伝ってくる。
首吊り死体が完全にこちらを向いたとき、「うわああああ――!!」と、あらん限りの悲鳴を上げた。
「健也!どうしたの!?」
部屋のドアを勢いよく明けて母親が入ってきた。
「えっ」
高津は我に返った。
部屋の中は普通の冷房が効いた温度で、エアコンからさっきまでの酷い異臭は噴いてこない。
それどころか窓は閉められていた。
確かに自分で開けたはずなのに閉まっている。
高津はなにがなんだかわからなくなった。
「どうしたのよ?大きな声出して。何時だと思ってるの?」
「わ、わりい…… ちょっと寝ぼけたみたい」
「もう大きな声出さないでね。こっちが驚くじゃない」
そう言って母親はドアを閉めた。
寝ぼけてなどいない。自分はあの日記を読んでいて、そうしたら急に寒くなってきて、異臭が漂い窓を開けたんだ。そうしたら……。
直前のことまでを反芻すると高津は机の上に置かれた日記に目をやった。
ページが開かれて置かれている。
やはり自分は日記を読んでいたのだ。これは間違いのない事実だと高津は確信して、日記を手に取った。
内容もそのまんまだ。
窓の方を見ると、思い切って近付いて開けてみた。
そこには見慣れた夜の風景があるだけだった。
隣の家の明かりも見える。
ふうっと安心したように息を吐くと、窓を閉めた。
翌日になり、高津はファーストフード店で巴に意気揚々と戦利品である日記を見せた。
巴の反応はなかなかよくて、高津も行った甲斐があると思った。
上機嫌の高津は、その後は友達と会い、カラオケに行った。
いつもはいる吉田の姿が見えないので、友達に聞くと電話に出ないのだという。
高津も電話してみたが、コール音が鳴るだけで、吉田が出るようなことはなかった。
一つ気になったのは、トイレに行ったりと高津が一人になったときに必ず視線を感じたことだ。
誰もいないのに、なぜか感じてしまう。
昨日の夜も日記を読んでいるときに感じた。
しかし高津は、視線をあの家や日記と結びつけようとは思わなかった。
帰宅した高津がリビングに行くと父親と母親が晩酌をしながらテレビを見ていた。
「ただいま」とだけ言うと、冷蔵庫に飲み物を取りに行く。
麦茶をコップに注いでいるときだった。ニュースの画面に目が釘付けになった。
吉田がバイク事故で死亡したというテロップが流れていたからだ。
詳細はわからないが、即死だったようで、吉田が事故にあったときは自分たちがカラオケにいた時間だ。
いくら電話をかけても出なかったはずだ。そのとき吉田は死んでいたのだから。
高津はすぐに友人たちに電話した。
これからお通夜や葬式があってといろいろ話したが、高津も友人たちも吉田が死んだという実感が全くわかない。
しばらく友人たちと話した高津はため息をついてベッドに腰掛けた。
気分が目いっぱい落ち込んでいる。
「なんなんだよいったい」
独り言つと机の上の日記に目が行った。
「まさかな…… あの家に行ったからなんてないよな」
高津がそうつぶやいたときに電話が鳴った。
「なんだこれ?番号がめちゃくちゃだ」
表示された電話番号は、目まぐるしく数字が入れ替わり、再生デッキのカウンターのようになっている。
こんなことははじめて見た。
とりあえず出てみると、電話の向こうからは轟々とした風の音が聞こえる。
「もしもし。誰?」
「俺だよ」
聞こえてきたのは吉田の声だった。
風が強くて聞き取りにくいが、吉田の声だということはわかる。
「なんだよおまえ!事故にあって死んだとかニュースでやってたから…… 良かったよ!生きてんじゃん!」
さっきまでの落ち込みが吹き飛んだ。
「死んだよ」
「えっ?なに言ってんの?おまえ生きてるじゃん」
「死んだんだよ…… おまえのせいだよ…… おまえがあんな家に俺を誘ったから」
吉田の声の後ろからは相変わらず風の音がしている。
「ふざけんなよ。それよりどこにいるんだよ?」
「おまえも連れて行く」
ふいに女の声が電話から聞こえた。
「えっ」
吉田と話していたはずだ。なんだいきなり?と、高津は思い、「だれ?吉田の友だち?」
「私の日記…… 読んだよね?」
高津はぞっとした。
この声は昨日の夜に耳元で聞こえた声だからだ。
「お、おまえ…… もしかして自殺した」
言いかけたときに天井の蛍光灯がふいにチカチカと点滅しだした。
部屋の中を冷気が満たし始める。
「おい!ふざけんなよ!」
高津が電話口に怒鳴ると、「うひひひひ、ふふふふ、はははは」と、複数の笑い声が返ってきた。
思わず高津は電話を切ってベッドの上に放り出した。
「うわあっ!!」
床には手足が逆方向に曲がり、まるで握りつぶされたように捩じれ、ぐちゃぐちゃになった吉田が転がっていた。
高津はもはや声すら出ない。
ただ、はあはあ、と大きく肩で呼吸をするくらいだ。
全身が発汗し、喉がからからに乾いて、いくら叫ぼうにも声が出てこない。
逃げないとと思っても体が動かない。
そして目は吉田の死体からはなれることができない。
必死に目を閉じようとしてもできず、逸らそうと思っても釘付けになったように動かない。
まるで誰かに強制されているように、友だちの死体を見続けるしかなかった。
すると、転がっていた吉田の顔がゆっくりとこちらを向く。
苦悶の表情が張り付いた顔は目や鼻、口から血が噴き出していた。
吉田の口が動くが、ごぼごぼと血が溢れてくるだけで言葉は出てこない。
高津はそれを、ただあわあわと口許を震わせながら見ているしかなかった。
やがて吉田の体は掻き消えるように高津の目の前からなくなった。
床には血のあとなんてなにもない。
蛍光灯も点滅はしていなく、ちゃんと点灯している。
エアコンからの風も適度な涼しさのものだった。
やはりあの家に行ったことが原因なのだ。
ここまできたらそう考えるしかない。
でも、それなら自分が真っ先に殺されるはずだ。
なんといっても自分は日記を持ち帰ってきたのだから。
それに比べたら吉田は、ただ自分に言われて付き合っただけだ。
「ちがう…… 絶対にちがう……ちがうんだ」
高津は自分にそう言い聞かせてベッドにもぐりこんだ。
耳にはいつまでも電話で聞いた吉田の言葉と、自殺した荒木美咲の声が残っていた。
あれが荒木美咲の声なのかと、高津はまどろむ意識の中で思った。
その夜はろくにねむることができなかった。
眠ってもすぐに目が覚めてしまう。
そんなことを繰り返しながら夜が明けた。
その夜は高津の身に、奇妙な出来事が起こり始めた。
眠りかけると美咲のささやき声が聞こえたり、驚いて部屋を見渡すと、影が高津の視界の隅をかすめるように動いた。
朝になることには高津の精神は不安定なものになっていた。
高津は強く思った。
「この異常な状態から解放されたい」と。
高津は学校を休み、日記を処分しようと考えた。
家族が出かけたら庭で燃やしてしまおう。
あの日記を持ってきたから呪われていると思考が停止した高津の頭では、それが一番いいとしか思えなかった。
父親と母親が仕事に出かけたのを見計らって、高津は庭で日記を燃やした。
「ざまあ見ろ。これでもう日記はない。俺に執着する理由もないんだ」
しかし気分は一向に晴れなかった。
自分の部屋に戻り、窓から差し込んでくる暑い日差しに目を細める。
誰もいない家は静まり返っていて、まるであの夜に入った「蛇餓魅が来た家」のようだ。
だが不気味な感じはしない。
高津はただ、ぼうっとしながら午後まで時間を潰した。
午後になり巴に電話をする。
話していて、日記を燃やしたことを告げた。
巴に会いたかったが、これから塾だというので電話を切った。
いつもなら巴の声を聞けばテンションが上がるはずなのに、今日は全く上がらない。
それどころか、後悔していた。
あんなビビったようなことを中途半端に言って、軽蔑されたんじゃないだろうか?
吉田が死んだことや首吊りを見たことは言わなかった。
それはもしかしたら、あの日記を手に取った巴まで呪われそうな不安があったからだ。
「なんでこうなっちまったんだ?」もう何度も口にした自問自答をすると、ベッドに横になった。
高津が目を覚ましたのは夜の七時だった。
窓の外はすっかり暗くなっている。
夜の闇が高津を気弱にさせたのか、高津は起き上がるとカーテンを閉めた。
するとふいに電話が鳴った。
表示されたのは巴の電話番号だ。
高津は、今日初めて気持ちが明るくなるのを感じた。
「はい」
いつもの調子で電話に出ると、電話口からはうなるような風の音が聞こえてきた。
瞬間、高津は背中にものすごい悪寒を感じた。
「私だよ。今からそこへ行く」
荒木美咲の声だった。
電話は切れた。
「な、なんだよ……今から来る?ふざけんなよなあ……!」
高津の中で怒りが爆発した。
たしかに不純な動機で家に入り込み、日記を持ち出した。
それが悪いことだとは理解しよう。
だが、それだけで殺されるのか?
死ぬほどの悪いことをしたのか?
吉田にいたっては自分に誘われて入っただけなのに、あんな悲惨な姿で死ななければならなかったのか?
理不尽だ。あまりにも理不尽すぎる。
このとき、高津の中では恐怖より怒りが勝った。
理不尽な祟りへの怒り。
ぺた…… ぺた……。
階段を上がってくる音が聞こえてきた。
「来た…… そうだ。あれはどこだっけ?たしかあったな」
高津は護身用のナイフを持っていたことを思い出した。
机の引き出しを順に開けていく。
「どこだ?どこだ?」
ぺた…… ぺた……。
高津が引き出しの中を漁っている間に足音はどんどん近付いてくる。
ナイフを探しながら高津は、なぜ一階から来るのか?と、考えたが、すぐに後回しにした。
今はそんなことはどうでもいい。
優先すべきなのはナイフだ。
「ハアハア……あった!あったぞ!」
高津は目を輝かせた。
すでに行きは荒く、脂汗が頬を伝っている。
高津はナイフの刃をだして手に持つと部屋の中を素早く見回してからドアの鍵を閉めた。
そしてドアの横に身を潜める。
「いい気になって、のこのこ入ってきたところをメッタ刺しにしてやる」
高津は唇の端を吊り上げた。
動悸は激しくなり、汗は止まらない。
かなりの興奮状態だが、高津は目を爛々と輝かせてドアを凝視していた。
ぺた……。
足音がドアの前で止まる。
「来たあ……」
高津はほくそ笑んだ。
自殺した?もう一度俺が殺してやる。
吉田の仇を討ってやる。
どうせ今までも理不尽なわけのわからない理由で人を殺してきたんだろう。
その報いだ。俺がきっちり殺してやる。
高津の怒りはもはや殺意に成り代わっていた。
「健也ぁぁ……」「けぇんやあぁあ……」
ドアの向こうからは吉田や聞いたこともない声が高津を呼ぶ。
その声はどんどん増えていった。
ドアノブが激しく回される。
「くそっ……何人いるんだ?」
鍵がかかって開かないのにイラついて、そのうちドアを打ち破るだろう。
そうしたら何人いようが必ず一人は殺ってやる。
高津が決意を固めて、ナイフを強く握りしめたとき部屋の電気が消えた。
風が窓ガラスをびりびりと揺らす。
机の引き出しやクローゼットが独りでに開いたり閉まったりしだした。
その間も、高津を呼ぶ声は続き、けたたましい笑い声とともに、今や耳をつんざくばかりの音量になっている。
「負けないぞ俺は……!」
すると、外の風がぴたりと止み、ドアの向こうからの呼び声も止んだ。
部屋は静まり返り、さっきまでの狂騒が嘘のようだ。
高津は息を呑んで、ドアの外に意識を集中した。
すると、クスクスクスと女の笑い声がする。
部屋の中だ。
「どこだ!!」
高津は怒鳴り、部屋を見回すが誰もいない。
声だけが聞こえてくる。
「やっぱり一緒…… 同じだ」
美咲の声だ。
高津は必死にあたりを見回す。
「必死な訴えを嘲笑う…… 私をいじめた奴等と同じ……あの人が言ったとおりだ」
声だけが高津の頭に直接響く。
「な、なに言ってんだよ?あの人ってなんだ?」
「日記を読んだだろう?蛇餓魅と一緒になった人だよ。私が住む前からあの家にいた人……素敵な人」
美咲と話していた高津の耳にカサカサと小さな音が部屋の隅から聞こえた。
今度は頭に直接とかではない。外から耳に入ってくる音だ。
いたるところから聞こえる。
「死んでも自分が悪かったとは気がつかない…… そういう奴は…… どんどん殺せばいい」
美咲の声を聞きながら高津が目を凝らしてあたりを見ると、窓から差し込む月明かりに照らされた床が波打つように蠢いていた。
ボタッと近くになにか落ちてきた。
カサカサという音が、ガサガサと大きく増えてくる。
上からも聞こえたので見上げると、天井が渦を巻いているように見えた。
「なにが起きてんだ?」
スマホのライトで部屋を照らして見る。
「うっ…… うあああああ!!」
高津の目に映ったのは壁や天井、床を埋めつくした無数のムカデだった。
白い壁紙が貼ってあった壁は、今やムカデに覆われ真っ黒になっている。
天井のムカデは渦を巻くように蠢いて塊となり、その塊にさらに集まり、大きな氷柱のように下へ伸びてきた。
あまりの光景に高津の殺意は吹き飛び、ドアから逃げようとした…… が、鍵をかけたため開かない。
「くそっ!」高津がドアのロックを外そうとしたとき、壁を覆っていたムカデが一斉に動き、白い壁が現れる。
「ぎゃあああああー!!」
天井のムカデも塊となり高津の上へ落ちてきた。
一瞬のうちに無数のムカデが高津をかき消すように襲いかかる。
小山のようになったムカデの塊から絶叫が響き、人間代の塊が飛び出した。
ムカデの牙が皮膚を裂き、肉をえぐる。
人間大のムカデの塊が悲鳴をあげながら部屋の中を七転八倒している様は、見るに堪えない凄惨な光景だった。
必死の思いで手を伸ばし、ドアを開けようとするが、喰いついたムカデと一緒に腕の肉がボロボロと落ちていく。
ムカデは体の中にも入ってきた。
やがて高津は動かなくなった。
しかし意識だけははっきりしている。耐え難い激痛を感じ続けている。
ムカデの隙間から高津が見たものは、静かに開く鍵をかけたはずのドア。
「なんで?鍵を掛けていたはずなのに…… あれ?」
部屋を覆い尽くしていたムカデが跡形もなく消えていた。
食い尽くされていた自分の体も傷一つない。
「ど、どういうこと?」
キイ……。
ドアがさらに開く。
高津は我に返った。ドアに鍵を掛けていてもなんの意味もなかった。
ドアの隙間には漆黒の闇が広がっている。
そして闇の奥からはうめき声や泣き声、笑い声などが聞こえてきた。
二人や三人ではない。尋常でない数の声が聞こえてくる。
歯がガチガチと音を鳴らした。
ドアの隙間に拡がる闇を見ていると震えが止まらない。
足下から這い上がる恐怖のせいで背筋が逸れていく。
ダメだ!怖がってはダメだ!さっきまでの殺意を取り戻さないと。
自分を必死に奮い起こして取り落としていたナイフを手に取ろうとしたとき、ごうっと突風が吹くような音とともに闇の奥から凄まじい勢いでなにかが迫ってきた。
目には見えないが、なにかが迫ってきた圧を感じた瞬間、全身を引き裂かれるような痛みが走る。
高津が悲鳴を上げたと同時に血飛沫が天井や壁を赤く染めた。
窓から差し込む月明かりが、血の池に横たわる無残に変わり果てた高津を照らしていた。