恐怖に震える綾香をなんとか力づけなければならない。
霊能力がある伊佐山君の叔父さんの話題を出して、もし、呪われているにしても専門家に相談すれば上手くいく。
そう言って励ました。
「もう少しだから。もう少しすれば変な霊もいなくなるよ」
最後に力強く言った。
「そ、そうだね」
綾香の顔に明るさが戻った。
対照的に私の内心は不安が大きくなってきた。
綾香の体にできた傷を見て「これは霊の仕業なのか?呪いのか?」という疑念が強くなってしまったからだ。
でも私は認めたくなかった。
そんなことがあるわけがない。
綾香の言葉に笑顔で相槌をうちながら自分に強く言い聞かせた。
「ありがとう瀬奈。あっ!なんか飲み物持ってくるね!ごめん、気が利かなくて」
「いいよ。そんな気にしないで」
「いいから。ちょっと待っててよ」
綾香が笑みを見せて部屋から出て行くと、伊佐山君から着信が来た。
「はい」
「今はどこ?」
「綾香の家だけど」
「叔父の家に行ってお札をもらってきたから。良かったらこれから持っていこうと思ったんだ」
「それ助かる!お願いしていい?」
「ああ。たしか国道の奥に入った洋食屋さんだよね」
「うん」
伊佐山君は15分くらいで着くと言って電話を切った。
これで綾香も気が休まるだろうと思ったとき、カーテンをふわっと持ち上げて部屋に風が吹き込んできた。
「綾香ったら、エアコン点けてて開けっ放しなんて」
窓を閉めて鍵をかけようとしたときだった。
「えっ」
私の後ろに今日自殺した血まみれの生徒が、ねじれた体で窓ガラスに映った。
「いやあっ!!」
振り向くとなにもいない。
「えっ…えっ…」
部屋の中を見回しても、改めて窓を見ても、変なものは見えなかった。
部屋の中の雰囲気も怪しいようなものは感じない。
「私までどうかしてるな……」
やれやれと頭をふる。
考えてみれば幽霊みたいなものを錯覚で見ても仕方のないことだ。
あんな無残な生徒の姿を見た後なのだから。
今でも瞼に焼き付いている。
「お待たせ~」
綾香がトレイに乗せたお茶を二つ持ってきた。
「どうかした?」
佇む私を見て綾香が首をかしげる。
「ああ、綾香。伊佐山君がこれから来るんだけどいいかな?」
「伊佐山君が?」
「うん。叔父さんの家からお札をもらってきてくれたんだって」
「ほんとに!?」
トレイをテーブルに置いた綾香の顔がパッと明るくなった。
「あと15分くらいで着くって」
明るくなった綾香の顔を見て、今見たことは言うべきではないと思った。
気のせいということもある。
いちいち口にすべきじゃない。
少し遅れて二十分後にやってきた伊佐山君は、お札だけではなく、綾香に朗報を持ってきてくれた。
来週頭に戻ってくるという話だった叔父さんが土曜の夜には帰ってくるようになった。
その理由を伊佐山君はこう説明した。
「実はこちらがお願いする前に叔父から電話が来て、来週頭のところを週末、土曜の夜には帰ると連絡があったんだ。思ったよりも向こうの用事がスムーズに終わったんだよ」
「そうなの!?私のこと見てもらえるのかな!?」
「ああ。話しておいたよ。もしも悪い霊と関りがあるなら除霊もするって言っていたよ。そうなると準備があるから早くて日曜日だろうって」
伊佐山君の柔らかな笑顔と口調に綾香の顔からは不安が微塵も感じられなかった。
良かった。
「それからこのお札を部屋の中に貼っておくといいよ。特に窓の側とか外に通じるところにね」
外に通じるところか。
そういえば「蛇餓魅」は空いている窓や扉から入ってくるって祖母が言っていたことを思い出した。
同時にさっき風が吹き込んできたときのことを思い出した。
あのときなにか入ってきた?だから自殺した生徒を見たのか?
いやいや。そんなことはない。
さっき自分で否定したばかりではないか。
自分の中に芽生えた、ありえないことへの不安を抑えつけた。
「もしすでに中に入っているときはどうなるの?」
「霊の力を弱める効果もあるらしいから大丈夫だとは思うよ」
綾香の問いに伊佐山君が答えた。
窓のところに二カ所、部屋の隅の四ケ所にお札を貼る。
「ありがとう!これで今日は安心して眠れそう!」
綾香はお礼を言うと手をパンと叩いた。
「そうだ!晩御飯まだでしょう?二人ともうちで食べて行ってよ!お父さんにご馳走してくれるよう言うからさ」
「そんな悪いよ。綾香」
「いいのいいの!ねっ!」
綾香の厚意に甘えて一階のお店で晩御飯をご馳走になった。
久しぶりに食べた綾香のお店のハンバーグは昔と変わらず美味しかった。
食事を終えて綾香のお店を後にしたのは九時を過ぎた頃だった。
伊佐山君が私を送ってくれるというので甘えることにした。
「今日は本当にありがとう。おかげさまで綾香はだいぶ安心してくれたみたい」
「それなら良かったよ」
そう言うと伊佐山君はバッグからお札を取り出すと私に差し出した。
「これ、部屋に貼るようにして。余ったら常に持っているようにしてくれれば」
「えっ、私も呪われているの?」
「さっきは怖がらせるのはマイナスなんで言わなかったけど、こっちで起きた事件を叔父に話したら、しばらくして向こうの予定をキャンセルして戻ると言ったんだ。誰かにそう助言されたらしい」
「えっ…… 誰に?」
「僕にはわからないけど、多分、叔父と同じ生業の人じゃないかな」
「じゃあ相当危ないってこと?」
「全てが霊の仕業ならね…… こればかりは叔父も直接対峙してみないことには明言できないと言っていたよ。だから僕にも、その日までは極力この件については不確かなことを口にしないようにと強く言っていたよ」
「そうなんだ…… 私はまだ半信半疑で、どう受け止めていいのか」
「いいんだ。そこは気にしないで」
「ちょっと聞いていいかな?もしも、万が一なんだけど、これが本当に麗の仕業…… 呪いだとしたらね、不思議に思っていることがあるの」
私は疑問に感じていることを伊佐山君に話した。
一つは私だけが無事なこと。
もう一つは友里や綾香から聞いた「蛇餓魅」の話し。
人さらいだったという男の家が、私たちが昔遊んでいた神社公園のあった土地だったこと。
噂では。その人さらいが「蛇餓魅」だというが、友里が見たのは子供だったということ。
そしてもう一つは、なぜその男がいた土地でなく隣の家が災いをもたらすのか?
聞き終わると伊佐山君は少し考えてから口を開いた。
「その辺を調べてみるよ。もしかして知れ渡っていることだけではない、知られていない事実があるのかもしれない」
「でも伊佐山君、仕事あるし」
「いいんだよ。乗り掛かった舟だ」
それを聞いて本当にありがたく、そして頼もしく思えた。
家の側で伊佐山君と別れた私は雲が流れる夜空を見上げて、こんなおぞましいことは早く解決して楽しい気分で伊佐山君と会いたいと思った。
家に帰ると玄関も居間の電気は点けっぱなしなのに祖母の姿がなかった。
廊下に出ると祖母の部屋から明かりが漏れている。
私は帰ってきたことを伝えようと部屋の前まで行ったときに祖母の話し声が聞こえてきた。
「……さん……どうか孫だけは……お願いします……さん」
孫?孫って私のこと?そうなると、私のことを一体誰と話しているのだろう?
「お願いします……拝みます」
祖母の口調誰かにお願い事をしているように聞こえた。
黙って聞いているのも気が引けたので、帰ってきたことを報せようと思い部屋の外から声をかける。
「おばあちゃん、ただいま」
言いながら襖を開けようとしたときだった。
「瀬奈!」
部屋の中から叱るような祖母の声が襖越しに聞こえたのでびくっとして手が止まった。
「開けてはダメ!」
どうしたというの?祖母の剣幕に躊躇していると、中から祖母が襖を開けた。
「おばあちゃん、どうしたのよ?」
「ああ……ちょっとうとうとしてたら寝惚けたのよ」
気まずいように笑う祖母に違和感を覚えた。
寝ぼけていて、あんな鋭い声が出るものだろうか?
「お客さん?おばあちゃん、誰かと話していたでしょう?」
「いや、違うの。寝言よ」
「それであんな剣幕になる?」
「本当なの。瀬奈が声をかけてくれたときも、まだ夢現でね。思わず大きな声を出しちゃったのよ」
「ふうん……」
開いた襖から部屋の奥を見るとたしかに誰もいない。
言われて見れば聞こえたのは祖母の声だけだった。
「それより瀬奈。話があるんだけどいい?」
「えっ、う、うん」
祖母の厳しい目つきに気圧されて私はうなずいた。
居間でテーブルをはさんで向かい合うと祖母から切り出してきた。
「瀬奈。あんた、最近になって空き家に入ったかい?」
「えっ……どうして?」
なぜ祖母がそんなことを聞くのだろう?
「いいから。入ったの?」
祖母の表情からは誤魔化しを許さない厳しさを感じた。
これは小さい頃に悪さをして問いただされたときと同じ顔だと思い出した。
私はありのままを正直に話した。
全てを聞いた祖母は深いため息をつくと頭を振った。
「なに?どうしたのよ?」
「いいから。あなたが気にすることはないから。私がお爺さんにもお祈りしておくから安心しなさい」
「ちょっと!なにを言ってるの?まさか、おばあちゃんまで呪いとか言い出すんじゃないでしょうね?」
確かに祖母には霊感があった。
だからと言って、いきなり超常的なものとして考えるなんて。
私の中でかすかに芽生えていた不安がどんどん大きくなる。
「三宅さんも亡くなったんでしょう?」
「それがあの家となにか関係があるの!?」
祖母は答えずにお守りを一つテーブルの上に置いた。
「これを持ってなさい」
「これって、お祖母ちゃんがいつも持っているお守りじゃない」
「中にお爺さんの遺骨が入っているから。今までは私が持っていたけど、今日からあなたが持ちなさい。いい?片時も手放したらダメだよ。常に身に着けていなさい」
そう言って私の手を持つとお守りを握らせた。
「とにかく瀬奈だけは連れて行かせないから。連れて行かないように一生懸命お願いするから」
「だ、誰にお願いするのよ?もしかして「蛇餓魅」?これがおばあちゃんの言っていた「蛇餓魅」なの?」
私が聞くと祖母は首を振った。
「もう考えたらいけない。忘れなさい。頭から追い出しなさい。やってくるから。頼むから」
祖母は私の手を取ると、拝むように目を閉じて訴えるように言った。
「わかった……」
祖母の様子はただ事ではなかった。
やはりこれは霊、悪霊の……私たちから見たら化け物の仕業なのだろうか?
私の中で得体のしれないものに対する恐怖が、水を張った水槽に垂らした墨汁の様に、最初は小さな点、それが瞬く間に広がり、生き物のように水の中を這いまわり、濁し、漆黒の触手を伸ばして蝕んでいくように広がっていった。