週があけた月曜日の昼近く。会社にいる雅人に友里からLINEがきた。
内容はいつもの他愛もないものだった。
雅人は返事を打つと昼食を買いに外へ出る。
同僚とコンビニで弁当を買ってきて自分のデスクで食べながら、ふと友里のことを考えた。
付き合って一年になるが、最近の友里の言葉の端々に結婚を意識させるような気がしてならない。
結婚の適齢期とかそうしたものを考えたことはなかったが、友里はそういうことを考える時期なのだろうか?
そう思うとなんとなくプレッシャーを感じる。
自分はまだ結婚というもの、家族を持つということをリアルに考えたことはない。
これは友里と結婚したくないということではなく、将来選択しなくてはいけない現実として考えたことがないのだ。
「俺も考えないとな……」ぼんやりと思った。
「最近どうよ?彼女と」
隣で弁当を食べ終わった同僚が聞いてきた。
「ああ。変わらずかな」
「彼女いくつだっけ?」
「二十六だったかな」
「じゃあそろそろ結婚とか考えるころだな。俺もそうだったし」
同僚は友里より年上の彼女がいて一昨年に結婚した。
「ふうん……どうよ?結婚してなにか変わるか?」
「いろいろ変わるよ。独身に戻りたいぜ」
同僚は笑いながら言った。
この男の昼食はいつも愛妻弁当だ。
独身の雅人はそれを羨ましく思ったりもするが、本人は独身に戻りたいとは意外だった。
しかし家庭の愚痴めいたことはこの男の口から聞いたことがないから、半分は照れ隠しみたいなものだろうと雅人は推察した。
「今度聞かせてくれよ」
「ああ。おまえ考えてるの?」
「はっきりとじゃないけどな」
こういうときに同僚に既婚者がいるのは助かると思った。
上司に相談というのは気疲れするし面倒くさい。
「ちょっとタバコ吸ってくるわ」
「おお」
そういえば同僚も結婚してタバコをやめていた。
「一人で好きに金を使える独身とはそういうとこが違ってくるのか…… そういうのはめんどくせえな」
そう思いながら廊下に出ると、喫煙室の前にトイレへ寄った。
会社のトイレはセンサーで照明が点くので、人がいないときは真っ暗だ。
それに人がいても一定時間じっとしていたら消灯してしまう。
最初は個室にいてしばらくしてから消灯するので「えっ」となったが、今では慣れてきた。
それでもトイレに入ってから点灯するまでのわずかな間の暗闇は、たまに薄気味悪く感じる。
夜遅くまで残業があり、自分しか残っていなときは臆病が頭をもたげるものだ。
雅人が入口にくるとトイレの中は暗い影を落としている。
昼休みが終わる前はいつも人がいるものだが、今日は珍しく誰もいない。
トイレの中に入ると天井の照明がパッと点いた。
廊下の方もいつもより静かな気もするが、特に気にもとめずに小便器の前に立ったときだった。
会社のトイレは小便器三つが個室二つと向かい合わせになっている。
手前の個室、ちょうど雅人の真後ろの個室の扉が十センチほど開いていた。
用を足しながらなにげに後ろを見た雅人は首をかしげた。
となりの個室の扉は無人のときは内側に開いている。
ここに誰もいないのは照明が点いていないことから明らかだ。
扉の建付けでも悪いんだろう。
そう片付けて前を向いたときに、背後からなにかを感じた雅人は振り向いた。
振り向いた先には扉がわずかに開いた無人の個室。
その薄暗い隙間を見た途端に思い出した。
夜中に夢で見たものを。
今まで忘れていた、夢と自分で思っていたことを、恐怖と一緒に身体中が思い出した。
「いやいや、ま、待てよ。あ、あれは夢だろう……夢だったはずだ」
どもりながら自分に言い聞かせると、個室を見ないように前を向く。
どこからともなく腐臭が漂い、鼻腔を刺激した。
「うえっ……」
口と鼻を押さえる雅人。
身体中から汗が噴き出し、心拍数は跳ね上がり、足元から震えだした。
まだ用足しは終わりそうにない。
しかし、夜中の夢を思い出したらこんなとこにはいたくない。
こうしているうちにも、あの女が隙間に立っている気がした。
土色の腐った素足、血を滴らせた髪、体から這い出でるウジ虫。
しかし、あの恐ろしい顔だけは幸いに思い出せない。
夢では女が顔を上げた瞬間、雅人は絶叫して目が覚めた。
雅人はあれが今、自分の後ろにいると思うと気がおかしくなりそうになる。
そして間違いなくいる!!
雅人はそう感じていた。
「ひいっ……!!」
無理矢理に用足しを終えるとトイレから出ようとした。
その瞬間、ふっと体が楽になった。
さっきまで感じた恐怖が無い。
腐臭もなく、個室のドアは普通に開いていた。
「あれ……?」
さっきまでの空気が嘘のようで、廊下からもいつもと変わらない人の声が聞こえてくる。
「なにビビってんだよ……ハハッ……」
雅人は自嘲すると洗面台で手を洗った。
「えっ」
手を洗っている洗面台にぽたぽたと真っ白いウジ虫が落ちてきた。
雅人は上を見上げた瞬間、悲鳴すら上げることができなかった。