「綾香、あなた……これ」
私が言葉に詰まると綾香はTシャツの裾を降ろした。
「朝起きたらできてたの……怖い夢を見た気がするけど、なんなのかは思い出せない……でも友里のを見たら気のせいとかじゃないんじゃないかって」
蝉の声だけがやたら大きくて、日差しがアスファルトに照り返す熱気のせいで日陰にいても汗が流れてきた。
「だからって友里みたいな幽霊に遭遇はしてないし……」
綾香は一旦区切ってから私に聞いてきた。
「それに瀬奈はなんともないんでしょう?」
「うん」 私の体にはこんな傷跡はできていない。
「私と同じように瀬奈もあの家に入って、同じように声まで聞いた。でもなんともない……怖いけど普通でいられるのはそれが理由」
国道からタクシーがウインカーを出しながら入ってきた。
「最悪お祓いでもすれば友里だって大丈夫でしょ」 綾香は笑って言った。
「そうだよね。きっと大丈夫!」 私は笑みを返すと、目の前に止まったタクシーに二人で乗り込んだ。
「私のことは友里に言わないでおこう」
「うん。余計に怖がるからね」 二人で決めた後に運転手に行き先を告げた。
お守りを渡したら友里はとても喜んだ。 その様子を見たら私も綾香も気が楽になった。
家に戻った私は出かける準備をした。
「おばあちゃん、今日は夕飯、外で済ませてくるから」「そう。伊佐山君と?」
「えっ、どうしてわかったの」
「なんとなくね」祖母はニッコリとした。
昔から祖母は勘が鋭いところがある。何度嘘を見破られたことか。
外から帰ってきた私は、まず汗を流したいのでシャワーを浴びようと思い浴室へ行った。壁にあるスイッチを点けると蛍光灯が一瞬明かりを灯したかと思うとちかちかと点滅し始めた。
「球切れ?昨日まではなんでもなかったのにな……」
ガスに点火してからシャワーをひねると熱いお湯が勢いよく出てきた。
家も古ければお風呂も古い。私の給料ではとてもリフォームなんてできないけど、いつかは新品のお風呂を祖母にプレゼントしたい。
頭を洗った後にボディーシャンプーを泡立てて体を洗う間に、あの家のことを考えた。
たしかに私も一番最初に行ったときは、外から見ていただけで不気味なものを感じた。
でも二度目に行ったときは、友里や綾香もいたし友里の彼氏もいた。
なにより生徒が中にいるかもしれないという状況が後押しして不気味さを上回った。
ただ、あの声……あれを綾香も聞いていたなんて。
それに綾香の話しだと生徒の一人も聞いているっぽい。
今言われて見れば、綾香の言うように女の人と子供が話すような感じだったかも。
子供……友里が見たという子供の幽霊を思い出した。
でも……まさかね。そんなこと。
頭の隅に芽生えた不安を打ち消すように頭を振ったときだった。
「ん?なんだろう?臭い……」なんだか異臭が鼻をついた。
下水が逆流して臭くなることはたまにある。でもその臭いとは違った感じの、なんというか、なにかが腐ったような臭いだ。窓を少し開けてから体の泡を流していると人の気配がした。
風呂場の外、磨りガラスの向こうに人影が見える。
祖母が洗面所に来たのだろうと思った。
しかし、体を洗い終わっても人影は佇んだままで微動だにしない。
「おばあちゃん……どうしたの?」と、声をかけると「瀬奈、ちょっと入っていいかい?」と、祖母の声がした。
そのとき足下から頭のてっぺんまでぞわぞわとした不快感と悪寒が走った。
これは祖母じゃない。理屈でなく直感でそう思った。
では、祖母の声で返してきた磨りガラスの向こうにいるのは誰か?
言い知れぬ恐怖が私から言葉を奪った。
「違ったかな」
磨りガラスの向こうから聞いたこともない女の声がして、「瀬奈。開けてよ」と、今度は友里の声で話しかけてきた。
「ねえ、瀬奈」次は綾香の声。
腐臭はいよいよ強くなり、突風が音を立てて家を揺らすと、風呂場の戸までガタガタと揺れ始めた。
摺りガラスの向こうの人影は手を伸ばし戸に手をかける。
「きゃあああー!」恐怖のあまり私は悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。
「瀬奈!瀬奈!」
遠くから祖母の声が聞こえる。
頬を軽く叩かれた感触がして目を開けた。
「瀬奈!大丈夫?」
目の前にはびしょ濡れになった祖母が心配そうな顔をして私を抱きかかえていた。
「おばあちゃん……ば、化け物!」
私は祖母を守るように抱くと、風呂場の外を見た。
「あれ……?」
戸が開けられ、洗面所と洗濯機があるだけで誰もいない。
「ちょっと瀬奈!どうしたの?」
祖母が困惑した顔を私に向ける。
「いや、さっき変な影が……」
そうだ。さっき閉めた戸の磨りガラスの向こうに祖母ではない「なにか」がいた……はずだ。
「誰もいないよ。やけに遅いから声をかけても返事がないし、開けたらあなたが座り込んで気絶してるから……一体どうしたの?」
「私、気絶してたの……?」
改めて周囲を気にしてもあの異常な腐臭もない。
外も明るい日差しが降り注いでいる。
「まったく……昼からお酒でも飲んでるの?」
「そんなことないって!」言い返してから自分が裸だったことに気が付いた。
「ごめん……」恥ずかしいさで顔が熱くなる。
浴室から出ると二階の部屋に上がった。 窓が少し開いていて、入り込む風がふわりとカーテンを揺らしている。
「あれ?冷房つけたから窓閉めたはずなのに……」 我ながらおっちょこちょいだな。
準備が終わった私は下に降りると仏壇の前に座っている祖母に声をかけた。
「もうすぐ夕飯時だからね。おじいさんにお供えしてたんだよ」 仏壇にある祖父の位牌の前には、線香が焚かれてお茶碗が供えてあった。
「帰るときは電話しなさい」 「大丈夫。そんな遅くはならないから。明日は学校だし」 「いいから」
「ふうん……わかった。じゃあ行ってくるね」
家を出るとまだ日は出ているが暑さは若干和らいでいて、ヒグラシの鳴き声が夏の風情を感じさせた。
それにしても、なんで祖母が急に過保護なことを言い出すのかわからなかった。 もしかして風呂場での取り乱し様を見て、私の頭でも心配してるのだろうか?
私も私だ。
あんな話をしてた後だから私もその気になって、あんな錯覚をしてしまったのだろうか? 歩く道すがら自戒を込めて反省した。
伊佐山君との待ち合わせ場所は海水浴場の真ん前にあるリゾートホテルのロビーだった。
私が到着したのは5分前。これでも急いだつもりだったのにギリギリだ……。
ホテルに入りオーシャンビューのロビーに行くと窓際のソファーに座っていた伊佐山君が手を上げた。「こんばんは」
「やあ。こんばんは」
笑顔で挨拶した後に伊佐山君は私を見て若干戸惑いを見せた。
「どうしたの?」
「いや、なんかこの前と違うなって」
今日の私は本当に久しぶりのデートなので服もメイクもこの前とは変えていて良かったと思った。
伊佐山君がエスコートしてくれたのは最上階の10階にあるレストランだった。
都会では10階といってもなんてことのない高さだけど、ここらでは抜きんでて高い建物だった。
このホテルより高いのは山しかない。
私たちは窓際のテーブルに着いた。
「まだ日が高いから、この時間帯でも十分景色が見れるんだよ」
「ほんと……絶景だね」
西日を反射して光る海が視界いっぱいに広がっていた。
どこまでも広がる海に、沖に向かう漁船がいくつか見える。
食前酒が運ばれてきて乾杯すると、伊佐山君がこのホテルのことを話し出した。
ここは私が転校して間もなくできたらしい。
「そういえば工事してたよね」まだいた頃のことを思い出す。
「ああ。このホテルのレストランは美味しいってここらでも評判なんだよ」
「そうなの?」
「夏休みのシーズン以外はこうして宿泊客以外でも利用できるんだ」
「じゃあ夏休みに入ったらここには来れないわけね」
「そういうことだね」
「なら堪能しておかないと」「どうぞ。お好きなだけ召し上がれ」
伊佐山君が冗談めかして言うと私は笑った。
運ばれてくる料理はたしかにみんな美味しいので自然とお酒も進んでしまう。
日が沈み、薄闇に包まれる頃には話しはだいぶ弾んでいた。
楽しく会話している雰囲気が壊れるか心配だったけど、私は例のことを切り出した。
「ねえ、伊佐山君。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「なんだろう?俺が相談に乗れるといいけど」
「昨日話したときに、あの家に行ったって言ったじゃない。例の空き家」
「桂木さん、なにかあたの?」
伊佐山君の表情から和やかさが消えた。
「ううん。私じゃないの」
私は友里と綾香の話をした。特に友里が怯えてしまって仕方がないことを。
「でね、もし迷惑でなければ伊佐山君の叔父さんを紹介してほしいの」
「そういうことか……」
伊佐山君は深刻な顔をして口に手をやった。なにかを思案しているようなので黙っていると、ふいに伊佐山君は私に聞いてきた。
「ほんとうに桂木さんはなんともないの?」
「ええ。私は別に」
「ほんとうに?」
「なんか気になるかな……?」「いや、一応聞いておきたくて」
「私の場合は変な夢見たくらい……あとは」出がけのお風呂での錯覚のことを話した。
「うーん……」伊佐山君は腕を組んで天井を仰ぐ。
「ねえ、どうしたの?なにかあるなら言って」
「えっ!そうなの?全然知らなかった!っていうか、この前はそういうのないって」
「自慢できるようなものでもないし、誰かに言ったところで興味本位で見られるだけだしね。それに気味悪がられると嫌だったから」
苦笑いしながら前髪をくしゃっとした。
「じゃあ、私にも変な幽霊がついてるっていうの?」
「いや。それは感じない。ただ、陰な気を感じたから」「陰な気?」
「なんていうのかな……淀みっていうか、ちょっと上手くは言えないけど……でも桂木さんには悪いものが憑りついているようには感じない」
「良かった」私は内心胸をなでおろした。
でもそうなると気になることが出てくる。それは本当に友里と綾香のことは幽霊の仕業なのかということ。
「じゃあ、友里と綾香の件は本当に幽霊の仕業なの?」
「それは見て見ないことにはなんとも言えないよ」
伊佐山君が言うには、幽霊というわけではなく空き家とか人が住んでいた場所には、
そこにいた人の日々の思いが蓄積しているらしい。
言ってみればお香の匂いのように、そこを訪れた人の身に纏わりついてしまうこともある。
私から感じたのはそういう類だと思うと言った。
友里と綾香については見て見ないことには何とも言えないけど、 とにかく二人が過剰に
心配していることを告げると、伊佐山君は今晩にでも叔父と連絡を取ってみると約束して
くれた。
「ありがとう伊佐山君……友里も綾香も安心するよ」
「まだなにもしてないよ」伊佐山君は私のお礼にはにかんで笑った。
コースを食べ終わって一息した私たちはホテルのレストランを後にした。
「伊佐山君はまだ時間とか大丈夫?」
「ああ。平気だけど」
「良かったら私たちがこの前行ったお店があるんだけど行ってみない?まだ時間も早いし。今度は私がご馳走するから」
時間は七時を少し過ぎた頃だった。
「それは悪いよ」
「だって、相談にも乗ってもらったし。お礼と思ってよ」「いや、お礼とか考えなくていいから。でも桂木さんとはもう少し一緒にいたいかな」
「またあ、上手いなあほんとに」さりげない言葉に頬が上気する。
「とにかく行こう!」
私は伊佐山君に言うと、彼と並んで歩きながら、友里たちと行った居酒屋へ向かった。
お店に着くと早速、友里と綾香にLINEを送って伊佐山君が叔父さんに話してくれることを伝える。
その間に伊佐山君は店の外に出て叔父さんに電話してくれた。
「叔父は今、こっちにいないんだけど来週頭には戻ってくるよ。すぐに会えるように時間を作るって」
「そうなんだ。ありがとう!」
「その前に俺に二人を見るように厳しく言われたけどね」「ごめんね~感謝してます!」
私が拝むようにお礼を言うと伊佐山君は笑った。
そのことを友里と綾香に知らせると、すぐに感謝のメッセージが送られてきた。
「ほら!みんな喜んでる!」
スマホの画面を伊佐山君に見せるとニコッとした。
「桂木さんの役にたてて良かったよ」
「そう言われると嬉しくなっちゃうじゃない」
自分の顔がアルコールのせいではなく熱くなるのを感ると、思わず手で顔を仰いでしまう。
そんな私を見て伊佐山君は優しく微笑んだ。その笑顔がまた良いことこの上ない。
今まで忘れていたかのような「好き」という新鮮な感覚。
その後は幽霊の話をすることもなく、和やかにお酒を飲んで過ごした。
友里と綾香の件もこれで良くなると思った。
そう思うと肩の荷が降りたような気持になって、伊佐山君との時間を楽しく過ごすことができた。