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42 スプートニク

 駅までは何も考えないで走った。電車の中で、僕は「スプートニク」という単語が持つ意味を調べた。ロシア語で「付随するもの」。それが転じて、衛星になったが、他の意味もあった。「旅の同伴者」「人生の伴侶」だ。


 ――スプートニクが回る


 僕は震える手で歌詞が印刷された紙をリュックサックから取り出し、最初から読んだ。サビ前の箇所。


 ――タバコを渡して、吸わせた時から


 あの日のセブンスターのことだ。なぜ僕は気付かなかった。


 ――それぞれが信じるものを守れたら、きっと二人は寄り添えるから


 ここまで言ってくれていたんじゃないか。


「櫻井さん! 瑠偉です! 開けて下さい!」


 こんな風にインターホンに呼びかけたのは、童貞を売ったあの日以来だった。


「……気分悪いねん」

「直接言いたいことあるんです! ちょっとでいいからお願いします!」

「んっ……」


 エレベーターに飛び込み、十五階のボタンを押し、呼吸を整えた。


「櫻井さん……!」


 出迎えてくれた櫻井さんからはお酒の匂いがした。気分が悪いだなんて絶対に嘘だ。僕はずかずかと玄関に入ってドアを閉めた。


「あんな回りくどいことせんとって下さい! 僕のこと本気ならそう言うてくれたらいいでしょ!」

「えっ……」


 僕は歌詞の一部を引用した。


「何が、言いたいことが言えるようになったかな、ですか! 全く聞いてませんけど!」

「……歌詞渡した時点で気付けや!」

「すみませんねぇ鈍感な田舎もんなんで! ハッキリ口で言うてくれなわからんのです! 僕から先に言いますね! 好きなんで付き合って下さい!」


 強引に櫻井さんを抱き寄せてキスをした。


「っは……瑠偉くんっ……」

「返事、聞かせて下さい」


 櫻井さんは下を向いてもじもじしはじめた。


「いや……俺なんて何の取り柄もない、大学も六年かかっとるアホやし……」

「そんなんわかってます! でも好きなんです!」

「アホは否定してくれへんの?」

「そこじゃないでしょ今は! 僕……僕……櫻井さんはどうせ本気になってくれへんやろって思ってて、諦めようと思ってて。実際どうなんですか!」

「んっ……俺……瑠偉くんのものになりたい」


 僕は強く強く櫻井さんを抱き締めた。


「櫻井さん……好き……」

「痛い痛い痛い」

「あっ、すんません」


 身体を離して見つめ合った。


「ほんまに俺でええの?」

「櫻井さんがいいんです」

「ほなさぁ……下の名前で呼んでや、瑠偉」

「渚……さん……」

「もっかい」

「渚さん」


 渚さんはきゅっと唇を結び、ポロポロと涙をこぼし始めた。


「渚さん……泣かんといて下さいよ……」

「せやけど……歌詞で気付いてくれへんかったし……もうあかんと思ってたぁ……前日も怒らせてもたし……」

「あれは……僕も悪かったです。すんません」


 僕たちはソファに移動した。


「もう……いつから僕のことちゃんと想っててくれたんですか?」

「文化祭の時かな……ステージの上の瑠偉、めちゃくちゃカッコよくて……その夜瑠偉を独り占めできたんが幸せで……夜が明けへんかったらええのにって思ってた」

「僕も同じこと、考えてました」


 渚さんは袖でぐしぐしと涙をぬぐった。


「俺、誰かと本気で付き合ったことないんよ。だから、瑠偉のこと幸せにできるんかわからへん。自信ない」

「僕も自信ないですよ。ゆっくりでいいじゃないですか。とりあえず……今夜は一緒に居ましょう? クリスマス・イブですし」


 そっと唇を重ねた。


「……すんません。ムードないこと言いますけど、お腹すきました」

「ああ……せやな。家にあるもんでええんやったらちゃっちゃと作るけど」

「渚さんの作るもんやったら何でもええっすよ」


 作ってくれたのはうどんだった。


「クリスマス感ゼロやな。コンビニでケーキでも買いに行くか?」

「いえ……今夜はもう一歩も外に出たくないです」


 食べ終わり、僕はセブンスターを吸った。心の中で、これからはこれを吸おうと決めた。


「渚さん。童貞下さいよ」

「ええんやな?」

「二万払えとは言わんといて下さいね」

「童貞に値段つけるもんとちゃうなぁ」

「まあ、そのおかげでこうなったわけですけど」


 思えばおかしな始まり方だ。僕はお金目当てで渚さんとした。それが、今では立派な恋人だ。


「……力抜きやぁ。ちゃんと息吐いて」

「はい……」


 渚さんは、ガラス細工を扱うかのように慎重にしてくれた。弱音は吐かなかった。渚さんを満足させてあげたかったから。


「瑠偉。ありがとうなぁ」


 ぴったりと肌を合わせて、しばらく何も話さずじっとしていた。そのうちに、とあることを思い出した。


「……僕、打ち上げ飛び出してきたんでした。大城さんと澄さんに報告せんと」

「ほな写真撮ろうやぁ」

「えっ……このままでですか。首とか肩とかに色々」

「ええやん、ええやん。スマホどこや」


 渚さんと写真を撮った。


「事後丸わかりですね」

「送信っと」


 大城さんからは「おめでとう」、澄さんからは「了解しました」という返事がきた。


「あの二人に言われてやっと気付いたんです、僕……」

「感謝せななぁ。でも、もう冬休みか。次四人で会うんは年明けになるかな……」

「もう、渚さんが打ち上げドタキャンしたからですよ?」

「だって……完全に振られたと思っとってんもん……」


 渚さんはおそらく……めんどくさい人だ。まだ知らないこと。まだ理解できないこと。沢山ある。一つずつでいいから受け入れられるようになりたい。スプートニクとなった二人なのだから。


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