──友理奈の告白から数日。
優斗と陸が本来育つべき家を取り替えて育ったことが、週刊誌を中心に報じられた。
ただし大輔と友理奈の不倫の事実は、伏せられたままだ。
これまで広まっていた大輔像は、家父長制が強い旧家でいびられ続けた本家筋の従兄妻を、家庭内で唯一庇っていた優しい男だ。しかしこの報道を機にその印象は一変し、家系を維持する道具として子どもをすり替える鬼畜として広まった。
しかし、取材した記者が友理奈と大輔との関係を知らないとも思えない。
恐らく稲本家が被害者として搾取されてきたのだと印象づけた方が、世間的におもしろいと考えたのだろう。当然優斗はこの報道に反論したが、世間が不倫の事実を知れば今よりもさらに生活が脅かされることになると友理奈から忠告され、口を噤むほかなかった。
その結果が、稲本家から出した、三科家全員分の葬式での賑わいだ。
葬儀代は、優斗が相続した三科家の資産から支払った。
列席したのは集落の人間が多かったが、地域から出た政治家まで弔問に訪れ、三科家の地域権力を目の当たりにさせた。
ただし野次馬の弔問が一番厄介だったと言っていい。例に挙げるなら、かつての同級生だ、同じ学校に通ったなどというような、数十年付き合いのなかった自称関係者だ。
故人を悼み優斗を労うどころか、事件の概要を聞き出すために列席したような振る舞いに、陸の父親──正確には優斗の実父が激怒し、彼らを追い出したことも、記憶に新しい。
もちろん、ほんの何人かは正しく彼らと交友した人物として、優斗を心から労ってくれた。特に大輔のことを、気が弱いが本当に優しい人間だったと語ってくれた数人とは、個人的な連絡先の交換まで行ったほどだ。
そして、確信する。
恐らく友理奈の語った過去は、歪められている。
陸の日記の中にも、大輔が友理奈を恐れているような仕草を見せていたと書かれていた。
陸の苗字を聞いただけで怯えた大輔が、子どもの交換を持ちかけるとは思えない。
「……おばさんの欲しがりグセって、本当にもう、ないのかな」
全員の火葬を終えた夜、優斗は陸の部屋だった一室で呟いていた。
陸の父は現在、稲本家から離れている。
友理奈が断りもなく三科家と子どもを交換し、それを十五年隠し続けていた事実を受け入れられないのだろう。我が子と信じていた陸を亡くし、陸の友人だった優斗こそが実子だと言われて、納得できるわけもない。優斗は、それこそが正常な反応だと思えた。
我が子を呆気なく手放し、さらに我が子同然に可愛がっていたはずの陸を亡くしても平然としている友理奈が、おかしいのだ。離婚するかもしれないと笑っていたが、笑える神経も理解できなかった。
それにやはり、違和感がある。
他人の持ち物、人間関係、実績まで横取りしていたと話した人物が、果たして子どもだけを何不自由ない生活に送り込んで、満足するだろうか。
本来なら、友理奈こそがそのポジションに収まりたいと思うのではないか。
そんな疑問ばかりが頭をよぎっていく。
──ともあれ、優斗に本当のところなど分かるはずもない。
「陸」
陸の遺した日記に触れる。
「俺と仲良くなれば、おばさんに褒めてもらえると思ったのかなぁ。俺との関係が全部嘘だったとは思わないけど──きっとおばさんのことだって、関係してたよな。……陸は、自分がお母さんに大事にしてもらえてないって、いつから気付いてたんだろう」
言いながら、優斗は顔を歪めた。唇を噛み、俯く。見えるのは自分の足先ばかりだ。
自分の足、だけのはずだった。
「っ!?」
──優斗に向き合うように、汚れた素足が見える。
泥だらけと言うほどではない。けれど痩せていて小さく、幸の薄い足だった。
全身が強張って、その足の正体を、足の持ち主を直視することもできない。
前を向いて、直視するのはナニか。賢人を始め、三科家の人間が死の直前に目にしていたと思しき座敷わらし、豊なのか。それともほかの、ほかのナニカの足なのか。
せめてそれを確認しなければと思いながらも、視線は頑(かたく)なに上がらず、冷や汗と荒い呼吸ばかりが排出されていく。
不甲斐ない自分に心中思いきり罵倒を浴びせる中で、優斗ははたと思い立った。
「……君が豊なら、俺もやっぱり、三科家の一員ってことなのか?」
天啓にも似た気付きだった。もしこの足の持ち主が真実、豊であるのなら。
やはり優斗は三科家の人間だったということになる。
それに気付き、優斗は泣き出しそうに頬を緩めた。
「だったら、いいなぁ。豊が連れて行くんならきっとみんなと──父さんや母さんと同じところに行けるもんなぁ」
少しだけ深呼吸し、ゆっくりと視線を上げていく。足の甲から足首、すね、そして膝。
しかしそれ以上は、眼球も首も、動かすことができなくなっていた。
「え、なんっ、なんで?」
見るなと、厳命されているような感覚だった。
しかもその足は部屋の外へと歩き出し、明らかに優斗を待って立ち止まる。
「……なんだよ。俺に、なにか用なのか」
視線を上げられないまま部屋を出て廊下を抜け、階段を静かに降りていく。
向かっているのはどうやら、本来稲本夫妻の寝室として使われていた和室だ。そこには陸の骨壺が安置された、真新しい仏壇が置かれている。
なんとなく近付きづらくて、なかなか足を踏み入れることさえできない場所だ。だから優斗が心の中の陸に話しかけるのは、いつもあの日記を前にしたときだけだった。
ドアを前に、足が止まる。そしてそのまま、空気中に溶けるように掻き消えた。
思わず声を上げそうになった瞬間、鼓膜を揺らさないまま、声がした。
──いつか、助けてあげて
意味がわからず、中空を見上げる。しかし当然そこには、もう汚れた足の痕跡すら残ってはいなかった。
助けてあげてとは、誰の話だ。豊のことではないのか。
理解が及ばないまま立ち尽くした優斗の鼓膜を、今度こそ話し声が揺らした。
和室の中で、友理奈が誰かに話しかけている。──否、恐らく陸の位牌に向かってだ。
ほんの少しだけ、優斗は安堵した。ああは言っても、やはり十年以上親子として結んだ絆があるのだろう。優斗には言えずとも、位牌を前にしてなら言える言葉もあるのかもしれないと思えた。
ならば助けるべきは、愛する息子を亡くした友理奈なのか。
そろりと扉に耳を宛がう。
「生きてたときから、本当に陸はいい子だったね。お母さんを大事にしてくれて、聞き分けもよくて……お母さん、陸が大好きだった」
まるで本人を前にしているかのような声色だ。
にこやかで優しく、笑顔で話しかけているのが扉越しでも伝わってくる。
やはりそうだ、友理奈は友理奈なりにきちんと陸を可愛がっていたのだと、優斗がその場を離れようとしたときだった。
「──だからね陸。お母さん、次はこのブランドのバッグが欲しいなぁ」
耳を疑った。
再度扉に貼り付き、耳を澄ませる。
「この間、お母さんを取材に来た人が持っててね、物凄く素敵だったの! でもその人はなんていうか、おばさん体型だし、お化粧も野暮ったくて……きっとお母さんが持った方が似合うと思うのよ」
笑っている友理奈の言葉を理解できず、優斗はふらついた足で近くの壁に寄りかかった。
まさか陸に物をねだっている? 位牌に向けて? ブランド物のバッグを?
神社でゲームソフトを願う人間はいるだろう。ただそれは、相手が神だからだ。
人間の、しかも身近な相手の、位牌にするような行為じゃない。
「一昨日は陸、お母さんが行きたいって言ったレストランの食事券をプレゼントしてくれたでしょう? 昨日お母さんこっそりね、お買い物ついでに遠出して食事してきたの! 物凄くおいしかったわぁ! 陸は本当にいい子ね」
優斗の表情は、はっきりと恐怖で硬直していた。友理奈の行動が理解できたからだ。
友理奈は自身を、無類の欲しがりだと自負していた。だからこそ望んだのだ。
三科家が有していた、座敷わらしを。
だが三科家そのものに憑いている座敷わらしを、赤の他人である友理奈が使役することなどできるわけがない。きっと半狂乱になって、その事実に怒り狂っただろう。むしろそのまま、座敷わらしなどおとぎ話だと、理屈をつけて諦めてくれたならよかった。
ただ、友理奈はそうしなかった。
「座敷わらしの持ち物だったっていう変な筆入れは、祀ったところで何の役にも立たなかったけど──三科家のしきたりを聞いていてよかったわぁ」
恍惚とした声が、扉の向こうから漏れてくる。
「家族に不幸があったとき、火葬するまでに飲食すると別の親族も死ぬだなんて。眉唾だと思っていたけど──本当でよかったわ。陸は自分が三科家の人間だなんて知らないから、いつか三科で不幸があっても、絶対に食事はとるものね。そうしたら確実に連鎖は起こる。きっと……陸はお母さんより先に死んじゃうだろうなって思ってた。陸は座敷わらしの子孫だもの。あなたも座敷わらしになれるんじゃないかって思ったの」
含み笑いで紡がれる言葉が、粘菌のように扉のすき間から這い出ているように思えた。
この恍惚は、形容し難いまでの強欲だ。ビタビタと這いずり、知覚外からターゲットを取り囲んで、やがて飲みこんでしまう。わなわなと震えた唇と手足の原因が、怒りなのか、恐怖なのかすら判別できず、優斗は壁に背中を預けたまま天を仰いだ。
「陸がお母さんを大好きなまま、お母さんを想ったまま逝ってくれてよかったわ。陸の名前はね、リクエストのリク。お母さんのリクエストに、なんでも答えてくれるいい子になるようにってつけたのよ。だからね陸、今度はあのバッグをお母さんに──」
最後まで聞くこともできず、優斗はその場から逃げ出した。もはや足音に気を配れるほどの余裕もなくトイレに駆けこんだ優斗は、その直後、盛大に嘔吐する。
何度も迫り上がるものを吐き出し、やがて吐くものがなくなっても、優斗は便器を抱えて嘔吐(えづ)き続けた。苦しさで落ちる涙を拭うこともできず、脳の隅で、豊の言葉を思い出す。
いつか、助けてあげて。
これは──陸のことだ。
ひどい意味を込めて名付けられた友人。名付けから呪いをかけられていた陸。だとしたら豊のように別の名前を与えても、きっと陸は解放されないのだろう。
それが無性に腹立たしかった。
「助けてあげてって、どうしたらいいんだよ……! もう俺には父さんも母さんも、いろんなことを教えてくれる賢人さんだっていないんだぞ!! そんな俺が、どうやってあんな人から陸を助けられるって……!!」
背後で床板をスリッパが滑る音がした。
「優斗くん、大丈夫? さっき和室の前に来たかしら」
にこやかな声だ。けれど今はもう、耳にするだけで粘つくように響く。
友理奈が背後に立っただけで、優斗の涙は蛇口を閉めたように止まってしまう。
振り返った優斗の表情は、苦笑いだった。
「すみません、体調が悪いみたいで……。薬をもらおうと思って部屋の前まで行ったんですけど、我慢できなくて吐いちゃったんです」
「大変、大丈夫? 服は汚れてない? なにか悪いものでも食べさせちゃったかしら」
「全部吐いたんで、もう大丈夫です。うがいしたら、陸の部屋に行きますね」
「そう? 分かりやすい場所に薬を出しておくけど、遠慮しないでね。あなたは名実ともに、稲本の家の子なんだから。あの部屋も陸のものじゃなくて、あなたのものなのよ」
満面の笑顔に、また喉奥に苦いものを感じたが、優斗はそれを飲みこんで、引き攣った笑顔だけを見せた。叫び、罵倒し、この家から飛び出したいとも思ったが──優斗の相続した三科家の財産は、保護者であるという名目で友理奈が管理している。優斗が出奔したとしても、それを素直に優斗に返すとは思えなかった。
その財産すら座敷わらし、豊の犠牲の下に形成されたと考えれば複雑な思いだったが、ただの中学生である優斗が生きていくためには、例えいくらか掠め取られたとしても、丸ごと投げ出すわけにはいかない。
なにより、これからの優斗に必要なものも相続されている。
「本宅にはまだ入る気になれないけど……今度、親戚が住んでいた別宅に行ってきてもいいですか? 貴重な本がたくさんあるから、せめてあそこだけでも整理してあげたくて」
別宅にある賢人の蔵書は、座敷わらしに特化している。陸を救う手立てがあるとしたら、むしろあの場所にしか望みはないはずだと思えた。
「ええ、もちろん! あなたを育ててくれた家族の家だもの」
まだ幼さの残る背をさすりながら洗面に誘導する友理奈の表情は、ひどく粘ついた笑みを浮かべていた。
「毎週でも通えばいいわ。高校に上がってバイクに乗るようになれば、雨の日も雪の日も通えるもの。ただ──事故にだけは、遭わないようにしなくちゃねぇ」
にたついた声色が鼓膜を震わせた瞬間、すとんとなにかが腑に落ちた。
友理奈はやはり、優斗のことも愛してはいない。遺産を目当てに、遠からず命は狙われるだろう。恐らくは事故として。
もしかしたらそれは、友理奈の座敷わらし──陸によるものかもしれない。それはあまりにも残酷で、真実味のある予感だった。