やがて笑い疲れたように息を吐いた大おじさんは、唇を歪めてもう一度俺を見る。
「いやぁ、あまりに小気味よくてなぁ、うちの連中は揃いも揃って気が弱いのか、なかなか反論なんてしてこんのだ。弁当くらい安いもんだ。なんなら仕出しを頼んでやろう」
「あ、いえそこまでは」
「ははは、そうか! そこまではいらんか!」
大声で笑う大おじさんに、さすがの俺もだんだん居心地悪くなってきた。三科家一番の権力者に気に入られたのは運がいいのかもしれないが、俺はすでにこの人が苦手だ。
そんな人からこれから二週間、ずっとこの感じで絡まれるのはちょっと辛い。
なにより優斗の友人である俺が大おじさんに気に入られたのは、男性陣にとって面白くないのかもしれない。俺と優斗に対する視線が、痛いほど尖っているのを肌で感じた。
「……なんかごめん、優斗」
呟くと、なぐさめるみたいに優斗の手が俺の膝を叩いた。
お客さん扱いの俺と違って、優斗はずっとこの家族と過ごすわけだ。だからきっと面倒なこともあるはずなのに、優斗の優しさには頭が下がる。
そんな俺の心情を察したのか、優斗がわざとらしいほど音を立てて手を合わせた。
「うまかった、ごちそうさまでした! 俺は一度部屋に戻るけど、陸はどうする?」
合図のようなウインクに、当然、全力で乗っかった。
「俺も一緒に行くよ。ごちそうさまでした」
「じゃあ俺の部屋で少し休んで、山はそれからにしよう。大おじさん、それでもいい?」
「ああいいとも。二人の準備が整うまでに、弁当も準備させよう」
頭を下げてから席を立った優斗に続いて、俺も立ち上がる。大人たちはまだ談笑中だ。
「優斗──墓石のある山に行くのに、どれくらいかかる?」
「車だと十分かからないから、一時間くらい歩けばつくよ。キャンプ場予定の場所は、そこから二十分くらい登った場所だ。だべりながら行けば気になんないって」
確かに、二人で喋っていればいつだって時間はあっという間にすぎていく。それを考えれば、確かに優斗の言う通りかもしれない。
なによりこの家にいるよりも、外のほうがずっと楽しいかもしれないと考えたときだ。
──ってきた……
「え?」
妙にはっきりと、耳元で囁く声が聞こえた。女とも男とも分からない、掠れた声だ。
まるで鼓膜を猫の舌で舐められたみたいに、ザラザラした感触があった。
「え、優斗?」
「うん?」
振り返れば、優斗がパチパチと瞬いて俺を見た。やっぱり優斗の声じゃない。
空耳? 蚊か蠅が飛んだ音でも聞き間違えたのか? だけどはっきりと人の声だった。
暑いのに首筋だけが寒い。指先で触らなくても、そこが鳥肌になっているのが分かる。
「陸?」
「あ……いや、大丈夫。なんか虫が飛んだ気がしただけ」
あまり変なことを言って気を遣わせるのも悪い。もしかしたら虫が首回りを這ってたのかもしれない。考えるだけで気味が悪いけど、その感覚を冷たさと勘違いしたんだろう。
さっきの声も、食卓の声が聞こえただけだろう。とにかく、全部気のせいだ。
そうだ、あまり思い返すのも──今はやめよう。
「さっき優斗がゲームで作った島、もうちょい作り込んでさ。明日の対戦に使おうぜ」
「お、そうしよ! じゃあ隠れやすそうな岩山とか作っときたいなー。三十分くらいしたら出発するから、サクサク作ろう! 陸はその間も、日記書くだろ?」
「うん。人が読めるような字じゃないけどな」
山に行かされることになったのは仕方ないから、少しでも楽しいことを考えたい。
さっきの気味悪い空耳のことも、忘れよう。そう思って、俺は優斗に手を引かれるまま、離れの玄関に手をかけた。
□ ■ □
弁当の準備ができたと言われた俺たちは、大きな弁当箱、デカいスポーツドリンクのボトルをリュックに詰め、シャベルを持って出発した。
川沿いをいろんな話やくだらない遊びをしながら歩いてみると、長い道のりも短く感じる。途中で小銭を拾ったり、釣り人さんからアイスをもらったりと嬉しい収穫があったからかもしれない。優斗からは、やっぱり陸は運がいいんだななんて言ってもらえた。
絵に描いたような青春の夏休みっぽさだ。
問題は、その山の麓に着いてからだった。
「──目的の山って、ここ?」
登山道も整備された、きれいな山だった。ぐるっと大きく曲がった砂利道の側に、登山口だと分かる杭が突き立っている。それほど高い山でもなさそうだし、キャンプ場にすれば手軽に使える人気スポットになりそうだ。
ただ、なぜか登りたくなかった。
なにかが笑顔で手招きしている気がする。それも、きっとよくないものだ。優しい顔を見せているけど、内心になにか隠してる。きれいなのに、奥の方が妙にドス黒い。
すねの毛がじわじわと立ち上がる感覚がした。
「ここを……登るのか」
「どうした? 陸、まさか怖かったりする?」
「そ、んなわけないだろ! こんな真っ昼間に怖がるようなやついるわけないじゃん!」
「お、おお。そうだよなぁ」
強く言い返してしまったけど、あんな言い方をするつもりはなかった。
もう一度、登山口を見る。
とてもじゃないけど──行きたくない。適当な理由で三科家に帰って、そのまま墓のことなんて忘れたフリで通したいとも思う。
だけど、そんなことはきっと無理だ。逃げ帰るような真似をしたら、またあの大おじさんにからかい半分でいじられるに決まってる。それはものすごく癪だった。
刺すような日差しの中、氷みたいに冷えた手を握りしめる。
「さっさと埋めて、さっさと帰るぞ! 陰気な作業があるから気分が落ちるんだ!」
自分を奮い立たせるためにわざと大声で叫ぶと、杭の内側へと足を踏み出す。
すると急に、さっきまでの不安が消え失せた。
「……あれ?」
目の前がすっと晴れたような感じだ。なにをあんなに怯えていたのか、自分で理解できない。空気が澱んでいるわけでもなく、むしろ風が吹いていて気持ちいい。目をパチパチと瞬いてまわりを見回す俺に、優斗が戸惑った様子で声をかけてきた。
「大丈夫、か? お前……」
「え? ああ、ごめん。もう平気」
「ちょっと様子、変だぞ? なんなら明日にして、今日はもう」
「いやマジでもう大丈夫。普段と違うからかなぁ、なんかテンションおかしくなってんのかもしんない。ほら、早く行こうって!」
「ちょっ、おい、転ぶってばぁ!!」
優斗の手を掴んで坂道を走り出す。砂利に足をとられる感覚も楽しくて、妙に笑いが止まらなかった。
暑さで頭がどうかしていたのかもしれない。土に埋もれかけた丸太の階段もひょいひょい登り、二十分くらいかかると言われていた道をあっという間に駆け上がっていた。
おかげで俺に引っぱられていた優斗は、かなりきつい息切れを起こしていたくらいだ。
ハイテンションだった俺にも、目的地に着いてから疲れが一気に押し寄せてた。シャベルを地面に突き立てたあと、ペットボトルの中身を半分飲み下し、ようやく周囲を見回す。
そこは、気持ちいい草原だった。
確かに雑草は伸びてるけど、風の強さを楽しませてくれる雰囲気だ。まわりを見てみると、この付近だけ木の生育状況が悪いらしい。生えていてもずいぶんと細くて頼りないし、夏なのに葉もほとんど茂っていない。ソロキャンプくらいならいつでも始められそうだ。
日当たりがいいのに、なぜかすごく涼しいのも、この季節にはありがたかった。
これなら別に業者なんて入れなくても──と思った俺の目に、はっきりと違和感のある場所が映る。
「──うわ」
ポツンと建つ、カビと苔だらけの墓石だ。