スーツの男は特定の界隈では多少知られたピアニストだったのかもしれない。
帰ってから彼はさっそく、ネットに今日の演奏があがっていないかを調べた。あれこれ検索をかけて、やっとあのスーツの背中をみつけた。『神演奏(街角ピアノ)』というタイトルで、鍵盤を動く指まで映っているが、顔はまったく写っていない。あの時きこえてきたカイ、という名前も載っていなかった。
彼は「カイ」と検索窓に入れ、ピアノとかバンドとか、思いつく言葉を組み合わせてさらに調べた。やがて「Kai」というキーボディストのいる「QUUS」というバンドがみつかった。
クワス、と読むらしい。ライブで生ピアノをよく使っているようだ。曲の途中に長いピアノソロが入るのが特徴で、動画サイトにはアルバムがあがっていた。といっても動く映像はなく、アルバムジャケットをバックに曲が流れるだけだ。
さらに調べると、QUUSはボーカル以外のメンバーは全員覆面だったとわかった。アルバムジャケットにはボーカルの顔と並んで他のメンバーがつけていた仮面が写っている。アルバムをリリースしたころはライブも頻繁にやっていたようだが、だいたい三年前で途切れていた。事実上の活動休止らしい。
わかったのはそこまでだ。スーツのピアニストがQUUSの「カイ」かどうかはたしかめようがなかったが、そうなのかもしれないと彼は思った。動画サイトにあげられたアルバムの中には歌が入らないピアノ演奏だけの曲もあった。錯覚かもしれないが、その演奏は街角ピアノの音に似ているような気がした。
週末のあいだずっと、彼はQUUSの曲を聴きつづけ、日曜の夜にはスマホにダウンロードしたくなってアルバムの配信データを買った。これまでは通勤のあいだに音楽を聴こうなんて考えたこともなかったのに、月曜からはヘッドホンでくりかえし曲を聴き、ピアノの曲は何度もリピートした。すると頭の中で、街角ピアノの鍵盤を動く指とQUUSの音楽がリンクして、聴けば聴くほど好きになった。もっとも、あのスーツのピアニストがQUUSの「Kai」だとはかぎらない。
それでもQUUSのピアノは彼にこれまでにない高揚をあたえた。音楽を好きになるって、こういうことなんだろうか。
次に彼がスーツの男の演奏に出会ったのは、やはり金曜日の夜だった。きっとこの日は仕事が早く終わるとか、都合がいいのだろう。ピアノを囲む人の輪に入っていると「先週もいたよね」とささやく声がきこえてきた。「すごく上手い」「カッコいいね」とか。彼は自分が褒められたように嬉しくなった。この日は先週の女性はみかけなかったが、彼は演奏の途中で革ジャンの男がやってきて、ベンチに座るのをみた。
その次の金曜日もスーツの男は来た。またその次の金曜日も。その様子は動画サイトに何度か投稿され、SNSでも流れた。そのころになると彼は毎日のようにネットで男の演奏を探すようになっていたし、QUUSの「Kai」について書かれた文章もくりかえし読み、アルバムを聴きこんだ。QUUSの数少ないライブ映像やPVに一瞬うつるKaiの手――白黒の鍵盤を自在に駆け回る手と、街角ピアノのピアニストの手をみくらべて、やっぱりKaiだと思ったり、いや、これは自分の思い込みかもしれない、と思い直したりした。
スーツのピアニストはいつも七時ごろピアノの前にあらわれ、十分から二十分、長いときは三十分くらい演奏して帰っていく。最後はいつも革ジャンの男と一緒にいるのに彼は気づいていた。もしQUUSのKaiだとしたら、革ジャンの男もバンド仲間なのだろうか?
彼は革ジャンの男にもこっそり注目するようになった。革ジャンはあきらかにスーツのピアニストが演奏を終えるのを待っていたし、ピアニストは革ジャンがいるのに気がついたとたん、早めに演奏を切り上げてしまうように思えた。そのことに気づいたとき、彼は自分でも思いがけないような気持ちをおぼえた――悔しい、と思ったのだ。彼はもっとピアノを聴きたいのに、革ジャンが来たからやめるなんて。
ふたりはいったいどんな関係なのだろう。
彼はだんだん不思議に思うようになった。友達、それとも家族。服装や雰囲気がちがいすぎて、仕事つながりとも考えにくい。革ジャンの男は他の見物人とちがって、演奏がおわっても拍手もしなかった。ただベンチに座って、弾く男を待っているのだ。
それにはなんとなくもやもやさせられたが、とにかく彼は金曜日の夜はショッピングセンターの吹き抜けに通った。
蒸し暑い季節がくると、ピアニストはスーツを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくって演奏するようになった。彼はすっかりその音に慣れて、曲のレパートリーやアレンジの特徴にも詳しくなっていた。
そんなある金曜日のことだ。ピアニストの音が変わった。
少なくとも彼はそう思った。その日は珍しく、ピアニストは係員が「もう終わりです」というまで演奏を続けていた。いつものように見物人はたくさんいたし、終わった時は拍手も起きたがずっとピアニストの音を聴きこんでいた彼にはどうも、いつもの輝きに欠けるような気がした。
ピアニストはいつも楽譜なしで弾き、同じメロディ、同じ曲でも毎回ちがう演奏をする。ふたつの曲を別のメロディでつなぐこともするし、同じメロディを少しずつ変えながら弾くこともあって、そのたびに吹き抜けには新しい音楽が喜ばしげに響きわたる。でも今日の演奏はちがった。彼は首をかしげ、体調でも悪いのかと思いながらあたりをみまわし、ふいにいつもとちがうことに気づいた。
革ジャンの男――季節が変わって、そのころはもう革ジャンではなかったが――がベンチにいないのだ。
彼は見物人が散ってもまだぐずぐずと柵に持たれてピアニストを見ていた。ピアニストは革ジャンがいないのを知っているようだった。街角ピアノの看板を下げている係員と何か言葉を交わすと、鞄を持ってさっさと歩きだした。
翌週の金曜日、いつものようにショッピングセンターに入ると、別のピアノの音がきこえた。
一瞬で「別のピアノ」と思ったことに彼は自分でも呆れたが、まったくちがう音だったのだ。それでも吹き抜けに行ってみると、髪をばっちりセットした長身の若い男がピアノを弾いていた。周囲にはいつもよりたくさんの人だかりができていた。彼は隙間から背伸びをしてピアノをのぞき、スマホや小さな機械をセットしたスタンドが横に立てられているのをみた。録画しているのだ。あとでネットにあげるつもりなのだろう。
彼はすこし離れたベンチに座って演奏を聴いた。うまいと思ったが、あのピアニストの演奏ほど惹きつけられなかった。今日はあの人は来ないのだろうかと思った時、目の前にかの人がいるのに気づいた。ワイシャツの背中だけでピアニストに気づいたことを彼は不思議にも思わなかった。何しろ今日まで何度も何度もみてきたのだから。
きっと演奏が終わるのを待っているのだろう。だが、今の演奏者はいつまでも終わろうとしないし、聴衆も減らない。彼の前に立ったピアニストの肩が下がり、首が小さく振られた。そのまま出口へ向かっていく。
思わずあとを追いたくなって、彼は腰をあげかけた――が、思いとどまった。向こうは自分のことなんか知らないのだ。それでもまだ気になって、彼はしばらくベンチで迷った。ついに立ち上がって出口へ行ったが、ピアニストはもういなかった。