彼には音楽の趣味なんてない。
最近流行ってる曲もよくわからない。ショッピングセンターなんかで、どこかで聞いたような歌が流れていることには気がつく。配信サービスのヒットチャートらしいが、どの音楽にも特段惹かれたことはない。なんとなく見ているアニメの主題歌はいつのまにか耳が覚えている。でも、どの歌手やグループが好きかといわれても、答えられない。
それなのにあのピアノを彼はずっと覚えていた。
帰り道で毎日のようにあのショッピングセンターに立ち寄るようになったのは、またあのピアノを聴きたかったからだ。だが同じ音にはなかなか出会えなかった。
いったん気にし始めると、街角ピアノの音は彼の耳によく聞こえるようになった。子供が数人集まって鳴らしていることもあれば、楽譜をもちこんで弾いている人もいた。ひとりではなく、二人同時に弾いている場合もあった。でもあのスーツの男のような音を鳴らす人間は誰もいなかった。
もう二度と聞けないのか、と思いはじめたころだ。彼はまたあの音を耳にした。金曜日の夜七時だった。
彼がふらふらと吹き抜けにやってきたとき、スーツの男がピアノの椅子に座った。楽譜もなしで、両手を鍵盤にのせる。もしかして、と思ったとたん、またあの音が響いた。
音楽がはじまったとたん人が集まってくる。同じピアノの演奏でも、魅力的だとわかると人だかりは大きくなる。今日の彼はその一番前、ピアノの斜め横にいた。この位置からは鍵盤の上を飛ぶように動く指がよくみえた。彼はほとんど前かがみの姿勢で音に耳を傾け、上がり下がりする白黒の鍵盤をみつめ、さらに弾き手に視線をうつした。スーツの男はかすかな笑みを浮かべていた。とても楽しそうだ。
あんな風に弾けたら気持ちがいいにちがいない。
なんとなく左右を見渡すと、見物人の中にスマホを掲げている人が何人か目についた。録画しているようだ。演奏はどのくらい続いたのか。最後の和音が消え、スーツの男が両手を鍵盤から離すと、この前と同じようにまた大きな拍手が生まれる。前の時と同じように男は周囲の人をさっとみて、照れたような笑みを浮かべた。
立ち去りがたい気分で彼はまだ男とピアノをみていた。と、ふわっとしたスカートの女性が前に出て、男に話しかけた。
「久しぶりに聴きました! すごくよかったです。ありがとうございます。あの、演奏をネットにあげてもいいですか……? 顔は出ないように撮りましたから……」
「いいですよ」
男の声は彼にもきこえた。すこししゃがれている。
「カイさんのピアノ、好きだったんですよ。バンド、もうやらないですか?」
女性がつづけていった。男は困ったように目尻を下げた。
「今はサラリーマンだから」
「また聴きたいです」
「うん。ここは通り道だからね。ネットにあげるのはいいけど、名前出すのはやめてくれるかな」
「わかりました!」
そうか。この人はやはりちゃんと音楽をやっている人なのだ。彼は納得してその場を離れようとしたものの、名残惜しい気分でまたふりむいた。いつのまにか革ジャンの男がスーツの男のそばにいる。ピアニストはさっきの女性が話しかけたときとはまったくちがう、手放しの笑顔を浮かべていた。友達なのだろう。彼は羨ましいような、妬ましいような気分になりながら、その場を離れた。