寄り道せずに帰るべく渡ろうと思っていた信号が、目の前で赤になった。
考えを変える理由なんてそれだけで十分だ。というわけで彼は道を曲がり、足の向くままに歩きはじめる。前方に歩行者デッキへ上がるエスカレーターがあらわれると、自然にそっちへ足が向く。このデッキは複数のショッピングセンターと駅をつないでいる。今は金曜日の午後七時。明日は休みだ。毎週のことだが、開放されて嬉しい気分になる。
恐竜の鳴く声がきこえ、彼は上を見上げる。巨大な画面で映画の予告が流れていた。このショッピングセンターは他よりも古かった。最上階にシネコンがあるほかはこれといった特徴もなく、数年前に開業した他の建物より店舗の数も少ない。二度ほど映画を見に行ったことはあるが、彼にはあまり魅力のない建物だった。
でも今日はなぜか、足が向いたのだ。
扉をあけっぱなしの建物に彼は入っていく。歩行者デッキは二階に通じていた。コーヒーショップ、ぬいぐるみとキャラクターグッズ、古着屋、婦人服、化粧品のショップが吹き抜けを囲んでいる。エスカレーターがあったので、彼はなんとなく乗って、三階へ行った。他の店の何倍かの面積を100円ショップが占め、ストレッチ、マッサージ、美容室、吹き抜けの向こう側にみえる看板は子供向けの英会話教室だ。とくに面白いものはない。もう一階上に行くか、それとも引き返すか。そう思った時だった。
突然、彼の周囲に音楽があふれた。
ピアノの音だ。吹き抜けの下から天井に跳ね返って、彼の上に降るように鳴り響く。スピーカーから響く音じゃない、ほんものの楽器の音だ。
音の滝、という言葉が彼の頭にうかぶ。いま流れている曲は彼も知っている。有名なアニメ映画のメロディだ。でも、こんなに華やかな響きをもつものだったのか。
彼は引き寄せられるように吹き抜けに近寄り、柵から顔を突き出すようにして音がくる方向をみた。二階の中央で誰かがピアノを弾いている。周囲に人だかりができていた。彼は急いで下りのエスカレーターに乗った。いったい何の演奏だろう?
曲が変わった。今度も彼が知っているアニメ映画の曲だ。でも、こんな曲だっただろうか? 彼はたしかに耳できいている。でもなぜか、この音楽は目に見えるような気がするのだ。なめらかで、時々きらきら光って、重なりあう色みたいに感じる。
二階の中央のピアノは人に取り囲まれている。弾いているのはグレーのスーツを着た男だった。彼は人のあいだからピアノの横に立つ看板をみた。「街角ピアノです。みなさんでお弾きください」と書いてある。誰でも自由に弾けるピアノらしい。ということはこのスーツの男も、彼と同じ通りがかりなのか。
彼の前にいた人が横にずれたので、白黒の鍵盤を行き来する手がよく見えるようになった。両肩がリズムをとるように動き、革靴がペダルを何度も踏む。指は鍵盤の上で踊っているようにみえ、彼の足も自然と前に出た。タララララララララ、と音階が上がっていき、叩きつけるような長い和音が何度か繰り返されて、音楽は終わった。
ピアノを囲む人々から拍手が湧き、彼も思い切り手を叩いていた。ピアノを弾いていたスーツの男は肩をすぼめるようにして立ち上がり、照れくさそうな笑みをちらりと浮かべて、首を回してうしろをみた。つられて彼もそっちに目をむけると、すこし離れたベンチに座っていた革ジャンの男が立ち上がるのがみえた。
もう演奏はおわりだと知って、周囲に集まった人々は散りはじめていた。彼の足も自然に外に向かったが、さっきのピアノの余韻はまだ彼の耳に鳴り響いていた。後ろ髪を引かれるような気持ちでふりむくと、スーツと革ジャンが仲良く並んで話しているのがみえた。