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 今年の梅雨は長引き、しとしと雨と重くたれこめた曇り空が交互に続いた。それでもだんだん雨が少なくなって、そうすると屋上に来る人も増えてくる。爽やかな晴れ間がのぞいたある日、ガーデンショップの中を通って会社へ戻ろうとしていたとき、あの男に会った。


「あ」

 珍しく男は彼の顔を正面から見て、驚いたような、しまったとでもいうような、奇妙な表情になった。

「どうも」

 彼は反射的にそういったが、いいながら妙な挨拶だな、と思った。なにが「どうも」なんだろう。

「……どうも」

 男はオウム返しにそういったが、何かほかに伝えたいことでもあるような顔つきだった。彼は不思議に思ったが、そのまま仕事に戻った。


 その日の退勤時間に、男が妙な顔をしていた理由がわかった。エレベーターホールに出た時、これまた顔しか知らない同僚の女性が男に話しかけているのが聞こえてきたのだ。

「今日で終わりなんですね。知りませんでしたよ」

 男は途惑ったような表情を浮かべた。

「ええ、そうなんです」


 そういうことか、と彼は思った。よくあることだ。もう屋上で顔をみることもないのだろう。そういえば、あの小説は買ったのだろうか。なぜかそんなことを気にしながらエレベーターに乗り、隅の方に押しやられて、ふと気がつくと彼の前に立っているのはあの男だった。


 エレベーターから降りた人はビールの栓でも抜いたかのように急ぎ足でビルの外へと流れ出ていく。彼は遅れた最後の一滴だ。横に気配を感じ、みるとあの男がいた。


「今日で終わりなんですか」と彼はいう。「聞こえちゃって」

「そうなんです」と男は答えた。外は晴れていた。

「こっちですか?」と男がいう。

 うなずいてそのまま横に並んで歩いた。地下へ降り、長い地下道の脇に設置された「動く歩道」に彼が乗ると、男も乗った。


「動く歩道って変な言葉ですよね」と男がいった。

「僕はけっこう歩きますよ」と彼はこたえた。

「歩く歩道はもっと変だ」男はいう。「この歩道を作る前は、ここにホームレスがたくさんいたんですよね」

 唐突な話題に彼は途惑った。

「そうなんですか」

「ずっと前らしいです。工事でホームレスがいなくなって、ここで寝れなくなって、歩きやすくなった」


 ホームレスならまだ駅の中に何人かいる。駅の外、地上の歩道の脇にもいる。それは知っていたが、彼はホームレスのことなどこれまで気にしたことはなかった。それでも何となく、歩きやすいだけでいいのだろうかと思った。そう思いながら口は勝手に動いて、ずっとひそかに気にしていたことをたずねた。


「あの小説、買ったんですか」

「え?」

 男はびっくりしたような顔をして、ついで合点がいったらしい。

「あ、ああ……結局買ってないんです。なんとなくタイミングを逃して」

「僕はもう読みおわったから、貸しましょうか」


 どうしてそんなことをいったのか彼自身にもわからなかった。男はまた驚いた表情になった。

「それは――でも、今日で終わりだから」

「……そうですね」

 当然だ。彼はすこし後悔した。もっと早くいいだせばよかったのだ。


 動く歩道の出口は半地下の広場につながっている。広場と名がついてはいるが、何本もの私鉄とJRと地下鉄の改札をつなぐだだっぴろい通路にすぎない。広場という名の通路。通路の上には高速道路が丸く渦を巻いていて、地下からは出口の部分から少しだけ空がみえる。


「ここ、もとは本当に広場だったらしいです」

 彼の心を読んだように男がいった。

「高速ができる前は。もう下からは見えないけど、高速の出口の近くに噴水があるんですよ」

「噴水?」

 彼はオウム返しにたずねた。男はうなずいた。

「デパートの上に行くと見えるんです。隠れている噴水が」


 彼は思わず足をとめて上を見上げた。男も足を止めた。ここには灰色と薄茶の天井、それに標識があるだけだ。

「屋上に行きませんか」

 思わず彼はそういっている。

「屋上?」

「その秘密の噴水をみたい」


 足元と天井に雑踏が反響し、最初は男のわずかにひらいた唇だけがみえた。次に唇の両端と目じりがゆるむ。男はふうっと笑った。小さな声が聞こえてきた。

「いいですよ。みせてあげます」



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