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 しばらく隣の部屋の男を見かけなかった。

 街はクリスマスムードというより大晦日に向かって走っているような気がする。ところが彼の仕事は一段落して、今週は二回も定時で帰ってしまった。


 ライブハウスの前はあいかわらず人が溜まっているが、一階のガラス張りのスペースに隣の部屋の男はおらず、長い黒髪を垂らした女性が立っている。彼はちらりと見ただけで通りすぎる。男とかわしていたちょっとした世間話がないからといって、特段寂しいとは思わなかった。とはいえ、手帖の余白を埋めていた落書きが消えてしまったような感じで、生活がまた白くスカスカしたような印象はある。


 定時で帰れる日が続いたので、彼はやっと橋のそばのローストビーフ丼の店へ入ることができた。客のほとんどは彼よりも若い私服で、大学生のようだった。時間のせいか曜日のせいか、それともこれが毎日のことなのか。味は悪くなかったが、何度も来なくてもいいと彼は思った。


 アパートの部屋はあいかわらず寒い。

 地の底から冷えた空気がしのびよるようで、エアコンの暖房は上の方へ溜まるばかりだし、だからといって二階が暖かくなるわけでもない。寒い寒いと思っているうちに風邪をひいてしまったようで、熱こそ出なかったが、彼は鼻水と咳に悩まされることになってしまった。


 いいかげん引越を考えるときなのかもしれなかった。立地や安さから何年も住みついてしまったが、引越費用に困るほど金がないわけでもなく、一年中ほとんど日の差さない路地裏で部屋が寒いと悩んでいるのもおかしな話だ。

 年が明けたら本気で引越し先を探すか、いっそマンションを買うことを考えてもいいのかもしれない。そういえば年末の忘年会で会う予定の友達はリノベーションずみの中古マンションを買ったといっていた。


 最近は毎晩、風呂上がりにホットカーペットの上で毛布にくるまってゲームをしたり本を読むうちに寝落ちしそうになる。それでも翌日仕事だと思うとストッパーが働くのか、真夜中を過ぎた頃にはっと目が覚めて、あわてて歯を磨き、布団で眠るのだ。


 その晩も同じ調子でいつの間にか寝落ちしていて、彼は毛布の影で夢を見ていた。ローストビーフ丼の店を出て、路地を歩いて戻ってくると上から猫が降ってくる。はっと彼は思い至る。最近猫の数が減っている。あの店で出しているローストビーフは、じつは…


 猫は彼をじっとみつめている。つぶらな眸は揺らぎもしない。突然彼はその猫がぬいぐるみなのに気づく。路地の電柱の影では生きているかのように見えたが、勘違いだったのだ。ぬいぐるみなら触るのは簡単で、彼は猫を抱きかかえてアパートへ戻る。毛布の中に猫がいれば暖かいにちがいないと思ったのだ。たしかに腕の中の猫(のぬいぐるみ)は暖かく、抱いていると気持ちがいい。この部屋に住み続けるにはこうやって猫(のぬいぐるみ)を集めなくてはならないのではないか? そう思ったとたん、腕の中の猫(のぬいぐるみ)が生きているかのようにむずむずと動きだす。彼は猫を押さえつけようとするが、遠くからドンドンと響く太鼓のような音にさえぎられてうまく体が動かない。ドンドンという音はもっと大きくなり――


 はっと目が覚めた。誰かがドアを激しく叩いている。外から目覚まし時計のような、警報のような音が鳴っている。


「火事だ! 火事です!」


 彼は飛び起きた。玄関で誰かが叫んでいる。あわてて三和土に降りてドアを開けると隣の部屋の男が立っていた。スウェットの上にセーターを着ただけの彼と違い、長いコートを着て帽子をかぶり、まるで今戻ってきたばかりといった様子だ。

「隣が燃えてる!」と男が大声でいった。「ここも燃えるかも。逃げないと!」


 消防車のサイレンが聞こえていた。彼は男の顔を見上げ、男の向こうから流れてくる異臭のまじった冷気を嗅いだ。あわてて家の中にとってかえす。脱いだまま床に転がっていた靴下を片方はき、通勤用の鞄にスマホを押しこんで玄関に取って返し、もう片方の靴下をはく。


「急いで!」と隣の部屋の男がいった。

 彼は男に続いて路地を走った。電柱の脇をぬけて舗装された道に出る。ライブハウスの前あたりに消防車が止まったところだった。近所の住人だろう、人がわらわらと群がっている。と、ぱっと路地の奥が明るくなった。あたりは焦げ臭いような、煙たい空気でいっぱいだ。


「どこが燃えてるの」

「奥のアパートらしいよ」

「ここあいだが詰まってるからね。燃えうつる前に消せるといいけど」


 周囲の人の話し声を聞きながら彼はぼんやり立ち、そしてくしゃみをした。

「燃えるかも」

 唐突に隣の部屋の男の声が頭の上から降ってくる。

「え?」

「俺が鍵を開けた時、もうやばい感じだったんですよ。うちも燃えるかも……」

「それって……」

「賠償とか出るんでしたっけ? あーでも機材関係はな……」


 男は首をふり、データはよそだからまあ、とかなんとかぼやいた。彼は通勤用の鞄を持ったまま鼻をすすった。最低限の貴重品は鞄に入っているとはいえ、コートを着て出ればよかったと後悔した。


「入りませんか」

 男がライブハウスを指さしていった。

「え?」

「寒いでしょ。消えてもどうなるかわからないし、立って待ってても仕方ないし、暖房、入れられるんで」


 男は道路から見えない建物の影へすたすたと歩いていく。彼はすこしだけためらった。結局騒がしい周囲の緊迫感と煙たい空気の中にいるのが嫌で、ついていった。男があけたガラス戸の中は狭いオフィスだった。一歩中に入ったとたんエアコンから暖かい風が吹きつけてくる。蛍光灯が青白くあたりを照らした。男は窓のブラインドを下げ、それからテレビのリモコンを操作した。


「ニュースにはならないですよね――そうなったら大ごとだ」

 それでもニュース番組でチャンネルを止めたまま、男は彼の方をちらっとみて「コーヒー、飲みますか」とたずねた。

「あ――ええ。すみません」


 コーヒーはインスタントで、煙のような焦げ臭い味がした。

 啜りながら彼はぼんやり考えた。隣の建物から出た火だとはいえ、もしアパートが延焼したら今晩、そして明日からどうすればいいのだろう。たとえ全部燃えなかったとしても消防車が出ているのだ。濡れてぐちゃぐちゃになるかもしれない。

 結局引越しの潮時なのだろうか、と彼は思った。次に住むのはどこがいいだろう。職場の近くがいいか。もっと遠くがいいか。


「しばらく見なかったけど、どこか行ってたんですか?」

 ふと思いついて彼はたずねた。男はなぜか驚いたような顔をして彼を見た。

「ああ、うん。ツアーに出てて。バックバンドで鍵盤弾いてたんで。さっき帰ったばかりなんで」

「起こしてくれなかったら俺はそのまま寝てましたよ」

「窓から電気が見えたんで、いるのかなと思ったんです」


 遠くから別のサイレンが聞こえてきた。これは救急車だ。ピーポーピーポー。

「川のサイレン、聞いたことあります?」

 唐突に男がたずねた。彼はめんくらった。

「川?」

「洪水の時かな、水位が上がると鳴るらしいんですよ」

「ああ――いや、ないです」

「俺もないです」男はぽつりといった。「消防車のサイレン、一瞬それかと思いました」


 彼はコーヒーを啜った。暖房が効いているせいかまだ熱かった。すこし考えてたずねた。

「消防車と似てるんですかね。川の警報」

「どうなんですかね。俺はこの事務所を使って結構長いんですが、まだ聞いたことがないです」

「もしアパートが燃えたらどうなるんでしょう」

「さあ。大家に連絡して――当面はここで寝るかな。奥に仮眠とるとこがあるんで……」


 いいかけて、男ははっとしたように彼をみた。

「どうするんですか?」

 彼は首を振った。

「さあ。とりあえずウイークリーマンションでも借りるか――カプセルホテルとか」

「もし必要なら」すばやく男はいった。「ここで寝てってください。ソファもあるんで」

 彼はぼんやりと否定とも肯定ともつかない調子で首をふる。

「どうも。様子をみますよ」


 なんとなくふたりとも黙ってしまい、テレビのニュースだけが響いていた。老人ホームの話題が流れている。車椅子に座った白髪頭を眺めながら深く考えもせず彼はつぶやく。

「独身の男って一番早死するらしいですね」

「そうなんですか?」男が聞き返した。

 彼は自嘲気味に笑った。

「仕事以外に趣味もなかったりして、人付き合いも下手で、孤独になるから」

 男はいやいや、と首をふった。

「ひどいな」

「いや、ほんとに。もし俺があのまま部屋で寝てたら、そのまま煙で死んでしまうまでみつけてもらえなかったかもしれないです」

「だったら声をかけてよかった」と男はいったが、ふとさぐるような眼つきで彼をみた。

「実はちょっと……迷ったんです。ほら、変な話しちゃったから。前に」


 変な話? 例のグッズや彼女――いや、彼氏の話か。彼は首をふった。


「変じゃないですよ。ぜんぜん」

「そうですか?」

 今度は男が自嘲気味に笑った。

 彼は男の顔をちらっとみて眼をそらし、繰り返した。


「変じゃないです。その――あの彼……とはどうなったんですか? 丸くおさまった?」

 男は頭をかいた。

「いや。別れました」

「ありゃりゃ。クリスマス前に」

「俺が悪人なんで、しかたないです」


 彼はまた男へ視線をむけた。男は唇をゆがめるようにして苦い笑いをうかべている。

「ほんとに悪人なら、俺のこともほっといたんじゃないですか?」と彼はいう。

「そうかなあ」と男はいった。疑わし気な響きだった。


 彼はカップを傾けた。溶け残ったインスタントコーヒーが底で黒いしみを作っていて、まるで焦げ跡のようにみえた。


「きっとそうですよ」

「そうだといいけど」

「ええ」彼はうなずいた。「大丈夫ですよ」



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