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 その夜はなぜかめったにないくらいぐっすり眠り、翌日起きるともう昼を回ったころだった。もっと早く起きるつもりだったのに、休みとなるとこのざまだ。自嘲しながら歯を磨いているとドアチャイムが鳴った。

 寝起きだったのもあって、彼はろくに確認もせずドアをあけた。


「はい?」

「隣の者です。あの――」


 戸口にライブハウスの男――実は隣の部屋の住人だと昨夜わかった男――が立っていた。彼はびっくりして歯ブラシを落としそうになった。


「えっと?」

「あの――昨日俺、ご迷惑おかけしましたよね?」男はそう口にしたあとあわてたように首を振った。「いや、ていうかご迷惑かけてすみませんでした。うっすら覚えてるんです」

「はあ。まあ」

 彼は右手の歯ブラシをみおろした。「ちょっと待ってください」


 洗面台で口をゆすいで玄関に戻ってくると、ライブハウスの男は猫背気味の姿勢で居心地悪そうに立っている。

「ほんと、すみませんでした。ふつうは部屋を間違えるなんてないんです。昨日はちょっと飲みすぎてて」

「その……こっちも勝手に開けてしまいましたけど……その、鍵があったから」

「いやほんと、申し訳ない。なんか、ひきずられたのはなんとなく覚えているんです。俺、他になにか失礼なことしてませんか? 大丈夫でした?」


 彼は男の腕に眼をやった。昨夜これが自分の首の回りにまきついて、男の顔がすぐ近くにあったことを思い出した。今はヒゲもきれいに剃られて、酒臭くもない。


「いや――吐いたりとかなかったんで、別に」彼は首をふった。

「いいですよ」

「お詫びというか、これ、よかったら」

 男は手に持った紙袋をさしだした。彼は反射的に受け取って中をのぞいた。ピンクとオレンジの包装紙に水色のリボンがかかっている。


「貰い物で申し訳ないんですけど、ちょうどうちにあったので」

「はあ。どうも」

「ずっと隣同士ですけど、こんなんではじめてまともに話すとか、ほんとすいませんでした」

「あのライブハウスの人ですよね。俺が隣の部屋って前から知ってました?」

「ええ、夜よく通るじゃないですか。何度か挨拶――してたつもりでしたけど」

 彼はきまり悪くなった。


「すいません、近眼なんで。気づいてなかったかも」

「いやいや、気にしないでください。俺が謝りにきたんで」


 なんとなく顔を見合わせ、ふたり同時に曖昧に笑った。彼は紙袋をもちあげると「じゃあ、どうも」といった。

「どうも。すいませんでした」

 そういって男はドアを閉めた。すぐに隣のドアが開く音が聞こえ、静かになった。


 可愛らしい包装紙の中身はマドレーヌやクッキーの詰め合わせだった。ライブハウスの男の外見にはそぐわない――が、貰い物といっていたか。彼はありがたくマドレーヌをかじった。蜂蜜の甘い香りがした。


 それから彼は時々ライブハウスの男と話をするようになった。

 週に二度くらいは、彼がアパートへ帰りつくころあいに男はライブハウス一階のガラス張りのスペースにいるのだ。眼が合うと挨拶をして――なんとなくの会釈ではなく「どうも」とか「こんばんは」とか声を交わしたりもする――男が外にいるときは、ちょっとした世間話をすることもある。


 お詫びにもらったものに似た菓子を「差し入れもらったけど、食べきれないから」といってくれたこともあった。

「え、いいんですか?」と彼が聞くと「減らないんですよ。配るところもないし、期限切れでよく捨てたりするから、もったいなくて」という。


 そう聞くと断るのもなんだかもったいない気がして、それを何度か繰り返すうちに彼は男から菓子をもらうことに慣れてしまった。たしか昔の人も書いていたはずだ。良い人とは物をくれる人だと。吉田兼好だったか。


 男はたしかにミュージシャンだったが、主な仕事は作曲やアレンジなのだといった。最近はアニメの楽曲を手掛けることが多く、アイドルグループのプロデュースもするという。ライブハウスの持ち主は他にいて、男はこの建物に事務所を借りた縁で手伝っているということだった。


 とはいえ彼が通りかかった時に男がいても、毎回話をするわけではなかった。若い女たちがよく男のまわりにいたからだ。一度彼がまだ早い時間に帰宅した日、長めの立ち話をしたことがあった。かつてバンドでメジャーデビューしたこともあったらしく、そのころからのファンもまだいるのだと聞いたのはその時のことだ。


「たいして売れなかったし、今はそのバンド、ほとんど活動してませんけどね。まだあるけど」

 そういった男はなぜか恥ずかしそうだった。

「メジャーデビューしたっていっても、ああいうのはなんていうか……黒歴史なんですよ。売れ線のそれっぽい音楽やってればいいっていうだけで。コネを作るためにデビューしたようなもので」

「そんなもんですか」

「そんなもんです」


 男は彼がぶら下げているコンビニの袋をみた。

「それ、晩飯ですか」

「早く帰れたんでローストビーフ食べようと思ったんですが」と彼は答える。「行列が長すぎてあきらめました。そしたら面倒になって、コンビニでいいかって」

「あそこ、いつも並んでますね」

「並ばなくて入れる日ってあるんですか?」

「俺は一度だけ入ったことがあります」

「美味いですか?」

「まあ。それなりに」


 一度会話のきっかけができると、男と会うたびに話すようになった。話の中身はたいしたことではないが、もともと彼は内気な性格でもないし、会社や友達づきあいの際も特段無口なわけでもない。

 しかし男からちょっとした「差し入れ」をもらっても、彼自身は男に何を持って行ったこともないし、ライブハウスの客になろうとも思わない。それでも遠慮や引け目を感じないのはどうしてだったのか。


 そうこうするうちに肌寒くなり、秋が深くなって、駅前や居酒屋の店先でイルミネーションが目立つようになった。彼の仕事が残業続きなのはいつもと変わらないが、クリスマス用のLEDを眺めるとうすら寒さを感じてしまうのはなぜだろう。忘年会の予定は決まりつつあるが、クリスマスは今年も何の予定もない。


 ある晩遅くライブハウスの前を通ると、男はシャッターを降ろしているところだった。ふりむいて彼に「どうも。遅いですね」という。

「寒くなりましたね」と彼はいった。

「今年は冬が早いのかな」と男がいう。


 実際寒かった。彼が背広の上に着た薄いコートではそろそろ足りない。彼がアパートの方へ行こうとすると、男が「あ、これ。また貰い物ですけど」と紙袋を押しつけてくる。


「あ、なんかいつもすいません」

「いえ。差し入れはやめてくれってよくいうんですが」


 紙袋はいつもよりすこし重たかったが、彼は気にせずアパートへ帰った。ライブハウスの男が隣の部屋にいつ帰っているのか彼にわかったためしはなかった。男は自分の部屋の壁に吸音材を貼って簡易防音にしているのだ。


 寝る前に思い出し、男にもらった紙袋をあけた。四角い箱が入っている。菓子だと思いこんでフタを開けたが、あらわれたのはレインボーに塗り分けられたプラスチックだった。5個、ずらりと並んでいる。真ん中がやわらかい曲線にくびれた筒形で、上面にシールが貼ってあり、下面には空気抜きらしい小さな穴があいている。


 彼は眉をひそめ、側面のロゴをみつめた。ネットでみかけたことのあるアダルトグッズの商標だった。ものすごく有名なやつだ。使おうと思ったこともない彼ですら知っているもの。


 まさか、これもファンの差し入れなのだろうか。

 男はこれとまったく知らずに彼に渡したのか。それともほかのものと間違えたのか。それとも――?


 彼は小さく折りたたまれた説明書を広げた。これで1セット、使い捨て――とわかったとたん、妙な動悸が襲ってきた。不快ではなかったが面白くもなかった。恥ずかしいというのも違う。なんだかきまり悪い、というくらいが正解だ。どうしよう?


 彼はしばらく考えた。しかし返すのも変な話だし、男が悪意を持ってこれを渡してきたとも思いにくい。だいたい男はただの隣人なのだ。


 そしてこれがファンからのプレゼント――こういうものを渡すとはどういう意図のプレゼントなのだろう?――にしろ、間違えて彼にくれてしまったにしろ、彼の方から男に何かいっても、それは恥をかかせてしまうだけかもしれない。


 今日のところはとりあえず忘れてしまおう。そう彼は思った。虹色のプラスチックを箱に戻し、紙袋に入れて空いた棚に押しこんだ。それから歯を磨きはじめた。



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