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 猛暑の季節のどこかの時点で、斜面の除草に飼われていたヤギは二頭ともいなくなってしまった。三カ月ほどでよそに移動するらしい。草は刈りこまれたように短くなって、手入れされていない街路樹や花壇との対比が目立っていたが、そこにも少し前に草刈りが入って、歩道の風景は散髪を終えたように急にすっきりした。歩くと昼間の強い日射しに焼かれた草の匂いがただよってくる。最近は熱帯夜や突然の雨もなくなって、朝と夜はすこし涼しい。


 彼は自分の腕をパシリとはたきながら歩く。すこし涼しくなったとたん、知らぬ間に蚊に刺されるようになった。あまりにも暑い気候では、人だけでなく虫も活動が鈍くなるらしい。涼しくなったとたん、外を徘徊しはじめる。


 空は晴れて、月が出ている。赤みがかった星がひとつだけ、月と反対の方向に光っている。あれも惑星だろうかと彼は思う。赤いから火星? 火星はたしか、地球に接近するのが数年おきではなかったか。今年がそうなのだろうか。

 彼はふらふらと歩いて公園の奥の階段を上る。

 段を踏むたびにスニーカーの底で音が鳴る。背後で遠く電車の音が聞こえ、彼の靴底の音はかき消される。階段を上りきったところで、街灯のそば、歩道わきのベンチの方を向く。


 今日も誰もいなかった。ふりむいて、自分の背後に城か要塞のようにそびえるマンションを見上げる。七階、七〇七といったか。他の住戸に光があるのに、そのあたりはぽっかりと黒い穴か、欠けた歯のようにみえる。

 失敗したな、ふとそう思った。


 何に失敗したと感じているのかは自分にもわからなかった。あの男に出会わなくなって二週間以上たっていた。もしかするとこの街からいなくなったのかもしれない。売って引っ越す、そんな話をしていたはずだ。


 真夏、テレビで花火の中継を見た夜のあとも、男には何度か会った。

 ひょっとして、そのときに失敗したのかもしれない。触れなければよかったのかもしれない。

 だがもう遅い。


 猫のように、と彼はいった。テレビ画面の花火を見ながら、すぐ隣に座った男に。そして猫のように、男は姿を見せなくなってしまったのかもしれない。


 最後に会ったのは彼の部屋のソファの上だった。あのときは電話やメールの交換をする必要も感じなかったのに、今の空っぽな手触りはなんだろう。


 彼はベンチに座った。昨日も今日もただ座っていた。ここでひとりでビールを飲む度胸はなかったが、彼の生活に困ることは何もなかった。規則正しい生活の中に紛れこんだ不規則なパターンが消えてしまっただけだ。困りはしないが変わったことはある。たとえばビールを飲む積極的な理由がなくなったということ。それでも彼は買い置きを冷蔵庫に入れて、新しい銘柄が入るとそれも買った。季節の変化に敏感なビールメーカーは頻繁に限定醸造の新作を出荷するのだ。


 唐突に、視界の隅を何かがすり抜けていったような気がした。彼はふりむき、左右をみまわした。植えこみの影からのそっと生き物の影があらわれる。猫だった。同じ猫だろうか。だとしたらもうかなり成長している。

 あの男がしていたように呼んでみようか、と一瞬考えたが、彼は結局何もせず、ただ猫を注視した。野生動物の眼をみるのはいけないのだったか、とふと思う。でもこの猫は野生といえるんだろうか。去勢されているのに。


 猫は彼をみつめてヒゲをゆらし、するりと身をひるがえして植えこみに消えた。階段をおりてアパートに帰るとき、後ろで猫の鳴き声を聞いたような気がした。





 日曜の昼間の公園はベビーカーを押す親子連れや犬と散歩する人でにぎわっている。平日の同じ時間は死んだように静かで、まるでマンションの広告に嵌めこまれた背景のようだが、週末は真逆になる。それはそれで嘘くさい。家族連れも犬連れも、ドラマのエキストラのようだと彼は思う。たぶん芝生がむやみに鮮やかな緑で、空も異常なくらい澄んだ青だからだろう。


 白亜の城か砦のようなマンションのエントランスは、階段のてっぺんから歩道をたどった先に開けている。近づいていくと、アスファルトの車道が斜面をゆるく曲がって、エントランスの前まで続いているのがわかる。引越業者のようなコンテナトラックと、小さめのダンプのようなトラックが並んで止まっていた。


 ここまで散歩の足をのばしたのは、彼にとってはただの気まぐれだった。公園の偽物じみた鮮やかな風景がすこし嫌だったからかもしれない。だからトラックの横に見覚えのあるうしろ姿をみつけたときは、おやっと思った。


 男がふりむいた。休日らしい、チノパンにカジュアルなシャツというスタイルだ。

「よう」

 彼をみて手をあげた。


 一瞬どうしようかと迷ったが、彼はまっすぐ歩いていった。公園からつながる歩道は左右に柱が立ち、瓦をずらして重ねたような凝ったデザインの屋根がついている。凝りすぎて飾りなのか、本当に雨避けや日よけになるのか、よくわからない。


「引っ越すんですか」

「いや」

 つい昨夜別れたばかりのように、男はあっさりいった。彼の内心の動揺など気づいてもいないような雰囲気だ。

「業者がいるっていっただろう」

「業者?」

「ゴミ屋敷専門の。昨日で片づけて、今日掃除してもらってる。もう終わる」


 売るつもりなのだろうかと思ったが、彼はたずねなかった。と、どこかで音楽が鳴り、男はポケットからスマホを取り出して二言三言喋った。

「終わったらしい。来る?」

 あまりにも自然にそう男がいったので、彼はぽかんと口をあけていた。

「いいんですか?」

「ああ。もうゴミもないし」


 七階からの眺めは階段の上からの眺めとは全然ちがった。男のマンションは3LDKで、だだっ広いリビングの窓には何もかかっていなかった。ガラス越しの光はひたすら明るい。


「臭いがすごくてさ。カーテンは全部捨ててもらった」と男がいう。

「きれいですね」

「クリーニングを入れたからな。壁紙も一部張り替えたし」

「モデルルームみたいだ」

「もう俺の物しか置いてないから。壊れて持っていかれなかったものも、捨てたし」

「ここ、売るんですか?」

「決めてない。どっちみちひとりには広すぎる。またゴミ屋敷になったら笑える」


 男はいいながらリビングを歩いて、東側の窓のそばに立って、外を指さした。

「あっちに花火が見えるんだ。秋にね」

「ここでビールを飲みながら花火を見るのは、たしかに良さそうですよね」

 彼は男の横に立ち、何の気もなくそういった。深く考えた言葉ではなかった。

「特等席じゃないですか」

「ふだんの夜景は何もないけどな。駅のまわりが光っているくらいだ。まあ、秋の花火くらいまでは……」


 男は何かいいかけてやめた。黙りこんだ男の雰囲気にのまれて彼も黙った。気まずくはないが、なんだか滑稽な気がした。三十代の男がふたり、モデルルームじみたマンションで黙って突っ立っているのだ。それでも男はなにもいわず、彼はついにたずねた。

「どうしました?」


 男は彼をちらっとみて顔をそらした。照れたように口をゆがめて笑い、うつむきながらひたいを指でつつく。

「あのソファがここにあったらちょうどいいと――思ったんだ」

「俺の?」

「そう」


 彼は男をまじまじとみて、それから急激に照れくさくなり、顔をそらした。

「また今度来いよ」

 男は彼の真横でボソッといった。

「ソファは持ってこれませんよ」

「ビールでいい」

「ちがう銘柄で」

「そうだな」


 眼下の緑の林の上をカラスが飛んでいく。知らない鳥が群れになってもっと遠くの空を飛び去った。ふたりでそのまましばらく、空をみていた。



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