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 スギの花粉の飛散が終わると今度はヒノキが来るらしい。その次は……なんだったか。一年中花粉だらけだ。

 幸い彼のくしゃみは一過性で、春が終わった今は何事もない。


 夜の散歩をするにはちょうどいい季節になった。彼は規則正しく生活し、働いている。つまり、毎日午前やや遅めの時間に起き、家で納期のスケジュールに沿って仕事をして、途中で一、二回、外に食事に出るかコンビニやスーパーで買い物をして、書店に寄り、家に帰ってまた仕事をする。一段落すればドラマやアニメを見て、ゲームをして、読書をして、丑三つ時に寝る。数日に一度はジムに行くし、夕食の買い物ついでに、公園を散歩する。


 最近、規則正しい生活の合間に不規則なパターンがまぎれこんでいる。公園のゆるく曲がった小道の先で突然出くわす生き物のような不規則さだ。刈ったばかりの草から立ちのぼる青い匂い、フェンスにつかまっている小さなカマキリ、飛び立つカラス。そこにいることは知っていても、いつ出会うかは予想できないもの。


 今日も会えるのかわからないまま階段を上る。

 ベンチにあの男が座っている。彼は黒い影を男の足元に見る。

「にゃ?」

 ベンチから地面の方に頭を下げ、猫に向かって男がいった。


 猫の鳴きまねをしているつもりなのは一応わかる。しかし鳴きまねとして成立していないレベルだと彼は思う。それでも猫は逃げなかった。大人しく男の指に触られている。


「見た?」

 男が顔をあげた。

「ほら、触れるようになった」

 とたんに猫はフウッと男の指から顔を背け、体をひるがえした。

「ええ? 待てよ」

 男の声にかまわず、さっと走り去ってしまう。

「なんだ。成功したのに」

 残念そうな声だった。


「俺のせいかも」

 彼はその場で立ったままいった。

「昔から猫運が悪いので」

 男はベンチの上で姿勢を正した。

「猫運だって?」

「懐かないんですよ。ガサツなんですかね。足音が大きいせいかも」

「ああ、そういうこと」

 男はうなずいた。

「だから階段を来るのがわかるのか」

「わかるんですか」

「うん。聞こえるよ。リズムがある」


 男は指でベンチをポンポンと叩く。リズムがあるといわれても、これだけではよくわからないと彼は思う。そのことをつっこもうとした時はもう、男は横に置いたコンビニの袋を鳴らしてビールの缶を取り出している。


「ほら」

「いいですよ」

「なんで?」

「俺も持ってます」

 彼も手に下げたスーパーの袋からビールを取り出した。

「最近、もらってばかりだから」

「変な気をつかうね」


 男がいった。そりゃ使うだろうと彼は思ったが、口には出さなかった。自分もベンチに座る。持ってきたビールのプルタブを開けようとすると、男は横からぬっと手を出して「交換しよう」という。


「同じ銘柄ですよ」

「なんだ。でも交換しよう」

「じゃあ今度は別のを買ってきます」

 と彼はいう。


 だいたいこんな調子だった。春の日の夕方、なんとなく男とここでビールを飲んでから、その後も時々ここで男とビールを飲んでいる。男は彼がこの階段を上る時間に必ずいるわけではない――と思うのだが、けっこうな割合で遭遇しているような気がする。


 男の横でビールを飲みながら、ふたりでぽつぽつと、いつもとりとめのない話をした。ネット配信の海外ドラマの話や、駅前に新しくオープンした店のこと。若いカラスが学生の自転車、それもカゴだけピンポイントで狙って来ること。


 彼はビールを一缶飲むだけだが、男はたぶんもっと飲んでいる。どうみても彼より年上だが、それほど離れているとも思えない。ただ、定職を持たない学生からストレートに今のような暮らし方になった彼と男はまったく雰囲気がちがう。サラリーマンらしいとでもいうのか、男の落ち着きぶりは彼には時々羨ましかった。


 しかし男の眼のしたはいつもくぼんでいて、くたびれた顔をしている。ひょっとしたら、落ち着いて見えるのは男がいつも疲れた顔をしているせいかもしれない。


 男の横顔をうっかり長くみつめたとき、何度か強烈に、そのくぼんだ眼のしたに触れたい誘惑が襲ってきたことがあった。彼はその衝動を押し殺すが、男が猫に触ろうとするのだって、彼と似たような衝動にかられているのかもしれないと思うときもある。


 夜中に階段を上っても、このベンチに男がいない日がある。

 そんなとき彼は、最初に会った日に男が指をさして教えたマンションの七階の部屋を見た。その部屋の窓はいつも暗かった。あのマンションに住んでいるのは家族連ればかりだと彼は思っていたが、男の家族はあそこにいるのだろうか。


「猫、また触らせてくれるかな」と男がいった。

「大丈夫ですよ」

 彼は安請け合いした。それは当たって、次に階段の上で男に会ったときも猫は来て、男はその背中を撫でていた。ワイシャツの袖口からのぞく男の手首はがっしりしているのに、長い指は繊細な印象で、ひるがえった手のひらは白かった。


 初夏から夏にかけて、そんな風になんとなく、彼は何度も男と階段の上のベンチでビールを飲んだ。空梅雨があっという間に過ぎ、植えこみの間に雑草が茂るようになった。夕方から夜にかけてならまだ耐えられないほどの暑さではないが、時間の問題だろう。梅雨がようやく明ける時節なのに、昼間の太陽が熱く照りつけた日はとっくに真夏の気温まで上がった。他の土地では猛暑日を記録したとニュースに出た。

 外気に触れるだけで喉が渇く季節になると、ビールはもっと美味くなる。


「ヤギがいましたね」

 一気に半分近くのビールを飲み干して、彼はいった。

「ヤギ?」

「駐車場の斜面ですよ。除草のためにヤギをレンタルしてるらしいです」

「歩道の脇にいたあの白いの?」

「何ヶ月か放しておくらしいですよ。二頭」

「ヒツジかと思った」

「ヤギです。アゴヒゲあったし」

「アゴヒゲがあるのか。ヒツジは?」

「ヒツジは…アゴヒゲはないんじゃないですかね。ヒツジもヒゲはあるでしょうけど。猫もヒゲがあるし」

「人間もあるもんな」

 男は自分の顎を撫でる。


「どうして二頭もいるんだ」

「さあ。一頭じゃ寂しいんじゃないですか」

「ヤギのくせにか」

「ヤギだって寂しいときは寂しいですよ。たぶん」


 男がどこまで本気で話しているのか彼にはいつもよくわからない。どのみちたいした話はしていない。


 ここ数日、空は雲ひとつなく晴れていた。昼間彼が外出した時は、真っ青な空、公園の緑と林、畑を背景にそびえるマンションの列がまるでドラマのセットのようで、めまいがするような非現実感を覚えたものだ。

 ベンチにも昼間の熱が残っている。空気はすこし蒸して、風もなく、日が落ちてもまだムッと熱い。美味いビールもすぐにぬるくなる。


「あの――がさ…」


 男は人気海外ドラマの話をはじめた。つい一昨日だったか、新シーズンの配信が始まっている。男はどんな風に生活しているのか何も話さないが、ひとり暮らしなのだろうと最近の彼は見当をつけていた。だから夜のこんな時間にベンチでビールを飲んでいるのだ。


「最近暑いですよね」

 唐突に彼はいう。

「ん? そうだな。エアコン掃除しないと」

「そこからなんですか?」

「フィルターが目詰まりしたままでさ」

「俺の家に来ませんか。エアコン効きますよ。ドラマの続き、見ましょう」


 男はきょとんとした表情をした。それから落ち着かない様子で手のひらを何度か揉むように動かした。ひたいを指でつつくのが男の癖のようだった。照れ隠しのようにも感じた。

「いいね」そう男はいった。



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