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 その日はひさしぶりに早めに会社を出た。

 もうすっかり顔なじみになった守衛が、ろくに身分証もみないで挨拶する。男は軽く頭を下げて通る。真夏になって、営業職でもないから、上着なし、ネクタイなしの半袖シャツでも問題がないのはありがたい。


 線路沿いを一駅ぶん、歩いて行こうとして、ふと景色がいつもとちがっているような気がした。線路の上にひらけた夕暮れ色のほの紅い空をみつめて、何がちがうのだろうかと男は考えた。しばらくしてやっと、違和感の意味がわかった。線路ぞいの土手に建っていた古い商店が何軒か、取り壊されているのだ。

 いったんなくなってしまうと、あそこにどんな店があったのか、もう思い出せなかった。空地は意外に狭くて、その向こう側に、これまで隠されていた賃貸住宅の壁があらわになっている。壁はコンクリート打ちっぱなしで、すこし古いがしゃれたデザインだった。


「あの空き地、ここからみえるあそこな。マンションが建つらしい」


 夜になってこの話をすると、ベッドにねそべったまま、エアコンの効いた部屋の窓を指さして、ひょろ長い手足の男がそういった。


「どうしてこんなに建物ばっかりたつのかね」

「国道沿いにもそんなところ、なかったっけ」

「誰が買うのかな」

「さあ」


 社員寮住まいに慣れてしまうと、賃貸も、自分で買う、というのも、どちらもぴんとこなかった。ものを集める趣味もないから、独身寮でも困らないのだ。もっとも最近はすこし不便を感じているかもしれない。この部屋にたびたび来ているせいだ。


「タバコ吸ってくる」

 床からTシャツを拾ってかぶりながら、ひょろ長い手足の男がいう。


 彼はヘビースモーカーではないが時々吸うのだと、今ではよく知っていた。銘柄はいつもメンソールのライト。けっして寮の室内では吸わなかった。吸うときは屋上の洗濯もの干し場へ行く。


「一緒に行く?」と、起き上がって男はたずねる。

「来たい?」

「来てほしい?」


 夜中の屋上はがらんとしている。むっとした空気がつつんで、たちまちじんわりと汗が出てきた。

「サウナだよな。外なのに」

 ひょろ長い手足の男は、フェンスのすぐそばでライターをかちかちいわせながら、文句をいう。

「夏だから暑いよ」

「最近の夏は暑すぎだ」


 藍色の空に丸い月がのぼっているが、雲もほの白く流れていて、月はそのあいだで追いかけあうように、見えたり、隠れたりしていた。

「あそこの空き地」と、隣の男が指さした。

「あそこにマンションが建つらしい」

「ずっと空き地だったっけ?」

「いや、畑だった」


 隣の男がくわえるタバコに火がついて、暗い中でオレンジ色のホタルのようにすうっと光った。

「建物できたら、すぐわからなくなってしまうだろうな。前が何だったかなんて」

「そうかな」

「そんなもんでしょ」


 雲が切れて、月がぱっと明るく照らした。

「きれいだな」

 そういうと「何が?」と長い足を組みながら、隣の男が聞き返した。

「月が」そう答えた。もう一度いってみた。

「月がきれいですね」

 隣で男が軽く笑ったような気がした。

 笑いながら「そうですね」とささやく声が聞こえた。横をむくと、またホタルのようにタバコの火がすうっと光った。


「タバコっておいしい?」ふと思いついてたずねた。

「ん。どうだろう」

 隣で男はすこし考えたようだった。

「たまに吸いたくなる。こういうときに」

「こういうときって?」

「だから、こういうとき」

「月がきれいなとき?」

「そう」


 男はまたふっと笑った。みると長い手足を折り曲げるようにして、こちらにふわりとかがんできた。

「月がきれいなときね」


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