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 生ビールのジョッキを傾けながら「最近、忙しい?」とたずねられる。


 眼の前の男は、ひょろ長い手足を折り曲げるようにして畳に座っている。壁の上の方からテレビの音が聞こえる。スーパー銭湯の食事処は、フロントのすぐ奥にあるひらけた空間で、自動券売機で注文して取りに行く方式だ。混んでいる時間は料理が出てくるのがかなり遅い。それでも生ビールと、ナッツとサラミを盛り合わせたおつまみセットなら、ほぼ一瞬で登場する。


「すこしね」と男はこたえる。

「回数券買ったのにもったいない」

「あれって有効期限あったっけ」

「一年は大丈夫だけど」

「だったら問題ないよ」

「ぼくがつまらん」


 ひょろ長い手足の男がさらりとそんなことをいうので、男は一瞬緊張し、それを隠すように笑った。

「ここで漫画、読んでるんだろ」


 おつまみセットひとつに生ビールふたつ。料理ができあがるまでしばらくそれで時間をつぶす。梅雨もそろそろ終わりで、すっかり蒸し暑くなったし、風呂あがりでさらに熱いから、男はシャツのボタンをふたつ外していた。

 長い手足の男はTシャツをさらりと着ただけで、ジョッキを握る指のむこうで、上腕の筋肉がもりあがっている。手足はひょろ長いのに、首は太めで肩も厚いのが羨ましい。製造メーカー勤務だが営業職で、私服でしか会ったことがないが、仕事ではスーツだという。たぶんスーツも似合うのだろう。


 なで肩の自分にはどうもスーツは似合わない気がする。だがそんなことは、眼のまえの男とは話さない。


「寮住まいで漫画ふやしてもな、しょうもないし」と眼のまえの男はいう。

「そういえばあの漫画、おもしろかった」

「どれ」

「何でも食べるやつ」

「犬以外?」

「そう」


 料理ができたと知らせるブザーがうるさく鳴る。ふたりで並んでカウンターまで取りに行く。ひょろ長い手足の男は揚げ物にソースをたっぷりかけるのが習慣らしい。おたがい、定食のトレイを持って戻ってくる。もし畳敷きでなければ、それにビールがなければ、食事処はどこか社員食堂に似ていなくもない。


 このスーパー銭湯以外の場所で、ひょろ長い手足の男をみかけることはなかった。一度スーパーでみたのは本当にたまの偶然だったのだろう。でもここではよく会っている、といっていいのかもしれない。岩盤浴では仕切りをはさんでねそべって、他に客がいないときは小声で話をしたりもする。露天で一緒になったこともある。ひょろ長い手足の男の背中は案の定締まっていて、腰から尻の線を不自然に注視しないよう、男は努力しなければならなかった。


 仕事の話はほとんどしないが、たがいの寮については時々話した。ひょろ長い手足の男の寮は、洗濯ものを屋上に干すらしい。取り違えで喧嘩になったことがあるという。


「つまらんことでも、気にする人は気にするね。嫌なら外に干さなきゃいいのに」

「こっちは乾燥機だから関係ないな」


 生ビールをおかわりし、定食を食べて、ひょろ長い手足の男はアイスクリームを食べたい、という。外に出てふたりで近くのコンビニへ入った。並んで歩きながら、隣の男はチョコモナカアイスを割る。

「いらん?」

「いい?」


 火照ったからだにビールをいれて、ぼうっと気持ちいいところに、甘いアイスを齧っていると、なかなかこの世はいいものだ、と思えた。


「モナカは皮がパリッとしすぎないのがいいな」と隣で男がいう。

「パリッとした方がよくない?」と聞き返す。

「そうか? ぼくはすこし湿っているくらいがいい」


 隣の男のイントネーションにはいろいろな地方のものが混ざっているようだった。最初に会ったのが春先で、それからかなり長くたつけれど、彼がどこの出身なのか、ついぞはっきりしない。


 坂道をのぼり、歩いていく前方に、月がのぼっている。


 隣を歩くひょろ長い手足の男は、一緒に並んでいるとき、いつもわざと歩幅を短くしているのではないだろうか。ふたりで銭湯から歩いて帰るたび、男はそう思うのだが、たずねるのもおかしな気がして、口に出したことはない。


「月がきれいですね、ていうらしい」と、隣で男がいう。

「何が?」

「面と向かって好きです、っていえないときに。昔の人は大変だったね」

「それ聞いたことあるけど、ほんとかな」


 ふわっとシャンプーが香った。

「そう?」

 と、隣で男がいう。

「深読みのしすぎだったらと思うと、やだね」

「まあ、好きっていうんだったら、これだけじゃないでしょ」

「もっとなにかいうってこと?」

「もっとなにかするってこと」


 隣で歩く男の顔をみるには、少し見上げるようにしなければならない。眼が合って、どちらからともなく外した。道をくだっていつもの別れ道が近づいたとき、隣の男が「もう少し話す?」とたずねた。

「どこで?」

「ぼくの部屋」隣の男がいう。

「部外者入っていいの」

「ワンルームマンションみたいなもんだから」


 川沿いを歩いていくと、狭い水面に月が反射していた。丸く白く光っている。きれいだった。踏切を囲むフェンス沿いにはもう夏の草がびっしり生えている。




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