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 駅から少し離れた場所に新築の部屋を借りた。わざわざ銭湯に行かなくても、きれいな風呂に入れるようになった。銭湯ほどでなくても広いし、面倒がない。

 しばらくしてまた引っ越した。また、前よりも少し広い部屋にした。


 何年もふたりで暮らすうちに持ち物が増え、新しい部屋もくたびれてくる。ガス台の汚れやこすってもこすっても生えてくるカビに苛立ってきたころ、川沿いに建つ新しいマンションの広告をみて、悪くないかもしれない、と思った。


「そんなの買ったら、引っ越せなくなるぜ」と隣で広告を眺めていた男が言った。

「ほら、ローンとか」

「貯金があるだろう」

「引っ越したくなったらどうするよ」

「もう引っ越さなくてもいいんじゃないか」

「風呂掃除をどうするかでもめるかもしれない」

「だったらボーリングに行けばいい」


 何年も、ゴミ捨ての当番を忘れたとか、つまらないことでたまに喧嘩をした。喧嘩をしたあとはどちらからともなく、ボーリングに行こうか、と言う。


 この日は喧嘩したわけではなかったが、それから二人で川沿いを歩いて、ボーリングへ行った。

 ここ数年、ボーリング場は見るからに古く、汚くなっていた。平日は閑散として、休日は団体客で混んでいる場合もあるが、経営状態が良いようには見えない。

 その日は会社や町内の集まりらしい集団でやかましかった。ふたりで何ゲームか投げて、ベンチに座ってみたものの、落ちつかない。

「下の風呂に行こうか」と隣の男が言った。


 地下の銭湯も設備はもうずいぶん古びていた。客もほとんど見えず、ボイラーが大きな音を立て、見るからに修理が必要な箇所もなおざりにされている。サウナだけは改装して、少しましになっていた。マッサージの受付に座っているのは若い男になっている。


「マンション、いいと思う」洗い場で髪を泡だらけにしながら隣の男が言う。

「買うなら、共同名義にして……」と言いかけると「面倒なことはやめた方がいいんじゃないか」と泡の下から言われた。


「いや、こういうことはちゃんとしないと」

「ちゃんとって、さ……」隣の男が吹き出した。「どうちゃんとするの」

 たずねられて虚をつかれた。ちゃんとするとはどういうことだろう。あわてて考える。

「遺言書くとか? 養子縁組とか?」

「遺言とかやめろよ。辛気臭い」

「じゃあとりあえず結婚してみよう」言葉は気軽に口をついて出た。

「ますますどうやってだよ」と隣の男が頭から湯をかぶる。


 飛んできたしぶきをぬぐいながら、思いつくままに「だいたい俺、結婚ってどうするのか、そもそも知らないな」と言った。


「職場の女の子はゼクシィ買って、さりげなく部屋に置いて彼氏に見せるらしいよ」と隣の男。「大変だよなあ」

「でも結婚するには結婚式をしなくても別にいいんだろう」

「逆に世間には、結婚式だけやってる人もいたりするのかね」

「そんなに結婚式したい?」

「いや、したくない」


 二人で思わず顔を見合わせ、どちらからともなく爆笑した。マッサージの若い男が驚いた顔でこちらを見るのがわかる。


「人前で誓いの言葉とか、言わなくちゃいけないんだろ」

「嫌だそれ。かんべん」

「なんでだよ」

「恥ずかしいから」

「そういう恥ずかしいことを言わせる儀式が結婚式なんだろ」

「うわあ。どうしたらそんなことができるんだ」

「とりあえずここで言ってみるというのはどうだ」

「なんで? ここで?」

「いやほら、風呂だし、雑談ってことで」

「家の風呂でやれよ」

「家の風呂で言ってみたい?」

「もっと言いたくない」


 また笑って、湯舟につかって、風呂を出た。自販機で牛乳を買って椅子に座る。隣の男はフルーツ牛乳を買っている。

 牛乳の蓋の青いビニールをむきながら「いいからちょっと、考えてみて」と言ってみた。

「何を?」

「誓いの言葉」

「まだ言う?」

「うん」


 隣の男も牛乳のビニールをむいている。フルーツ牛乳のビニールはオレンジ色だった。ふたりとも黙って牛乳を飲んでいた。しばらくして隣から「こういうのはどう」と言うのが聞こえた。


「誓いの言葉?」

「ずっと隣に座っています、っていうの」

 隣の男をみると真顔だった。それがすぐに崩れて、照れくさそうに笑った。

「いいね」と言って、つぶやいてみた。


「ずっと隣に座っています」

「わかりました」


 そう隣の男が言った。


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