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八月・星見たち

 今日も暑い日で、部屋でくたばっているぼくのかわりに瀬川が素麺を茹でている。この男はぼくよりずっとでかいくせに夏の暑さに強いらしい。ぼくが汗びっしょりでぐったりしている横で涼しい顔をしているのが以前から不思議だったし、いまも不思議だ。


 古い木造の家はコンロをつけて換気扇をまわすと台所が蒸し風呂みたいになる。そんななか素麺を茹でるなんて考えただけで億劫だが、瀬川は平気な顔をして、今は茹で上がった素麺を流しでじゃあじゃあ洗っているところだ。やたらと楽しそうな顔がなにかに似ていると思ったら、三軒隣の家の庭で水遊びをしている子供の顔だった。庭先のビニールプールで遊べる子供は楽しそうでいい、とつい何日か前に思ったのだが、素麺を洗うだけでも楽しい男がここにいるのなら、ぼくも考えをあらためねばならない。


「できましたよ」


 藍色のうつわ──結婚式の引き出物か何かで貰って以来眠っていたもの──が食卓の真ん中に置かれた。真っ白の素麺が氷の下で渦を巻いている。瀬川がめんつゆを薄めているのでぼくは薬味と箸を用意した──といっても、刻んで冷蔵庫にしまっていた葱を小皿に盛っただけである。


「うん、最高」

 瀬川はずずっと素麺を啜った。

「おれはもう素麺茹でのプロになりました」

「なんだよそれ」

「ほら、最初は紙外すの忘れたりしてたでしょう」

「ああ、あれ」


 あのときは面白かった。瀬川が「あっ」なんて叫ぶから何か起きたのかと思ったら、熱湯に束ねたままの素麺を投入してしまったという。瀬川はでかい背中をまるめて箸で鍋をいじり、なんとか拘束釜茹で素麺を自由の身にした。しかし面白かった、なんてそのままいうのは人間としてどうかと思ったので、ぼくはうなずくだけにする。


 瀬川は素麺をめんつゆに浸け、箸をとめた。

「そういえば素麺を束ねる紙って、なんて呼ぶんですかね」

 考えたこともなかった。

「えっと……紐? 結束テープ? 風情がないな」

「なんだろう」瀬川はスマホを取り上げると検索をはじめた。この男は行動が速い。

「素麺を束ねる紙っと……あ、帯だ。帯ですよ。メーカーのホームページに書いてある」

「なるほど」


 いわれてみれば納得である。瀬川は「帯かあ」といいながら箸をとり、ずずっと麺を啜る。藍色の器いっぱいに盛られていた素麺はいつのまにか半分以下になっている。


「食べるのあっという間ですよね」

 瀬川がいった。ついさっきまでうつわいっぱいに渦を巻いていた素麺は、いまは氷水の海でうねっている。

「足りないならおかわりを茹でようか?」

「足りますよ」

 瀬川はうつわをのぞきこむ。


「天の川みたいですよね」

「天の川?」


 ぼくも素麺をのぞきこむ。藍色のうつわが夜空で、素麺が天の川、散っている氷が星ということか。無理がないか。そういえば旧暦の七夕はいまごろだったような気がする。

「ちょっと苦しくないか?」

「すぐに喰っちゃいますしね」


 瀬川は真面目な顔で箸をのばし「天の川が素麺だったら七夕も楽だったのに」といった。

「なんだよそれ」

「喰っちまえばいいじゃないですか。年に一度を待たなくてもいい。銀河素麺流し大会って面白くないですか? 織姫と彦星が流れてくる素麺食べて、無事完食したら出会える」

「それじゃ銀河大食い大会だ」

 ぼくは吹き出しそうになる。面白いのは瀬川自身なのだが、本人は気づいていない。





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