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四月・最後の男

「じゃあな。おれ帰る」

「あ、ぼくも」

「次は忘年会かな?」

 金石と田浦が立って玄関の方へ行った。ぼくは座ったままふりかえり「ああ、また」と手を振る。


「おれもそろそろ帰るか」

 渡辺もそういったが、座ったまま伸びをしただけだ。学生時代の渡辺は人呼んで「最後の男」だった。教室にあらわれるのも、レポートを出すのも、サークル費を払うのも、飲み屋を出るのも、全部最後。


 大学で同じサークルだった連中とはいまだに続いている──といっても、年に一度誰かの家で飲み会をするとか、その程度だ。学部や院の卒業直後は宅飲みといえば朝までだらだらしていたものだが、今はそんなこともなくなり、午後にはじめて夜に終わる。家族持ちが増えると集まる家も限定されるようになり、今年はここか渡辺の家の二択になった。渡辺も結婚しているが子供がいない。


「あーあ、休みに何しよう」と渡辺がいった。

「予定ない?」

「ないわけじゃないけど、こう……ぱっとしたものがない」

「ぱっとしたもの」

 ぼくは繰り返す。渡辺の話はいつもぼんやりしている。定量的な話がない。

「なんか、もやもやしててさ」

 渡辺は座卓の上の空き缶を持ち上げて元に戻した。


「おれの会社、五月決算なんだけどさ、昨日いろいろ出たわけよ。来期の目標とか、人事とか」

「うん」

 ぼくは何となくうなずくが、会社勤めをしたことがないから、こういう話はいまひとつ実感が持てないのが正直なところだ。

「一応昇進したんだけどさ。リーダー職になったわけ」

「そりゃよかったな」

「まあ、よかったんだけど……でもさ、おれ実質的にずっとリーダーだったわけよ。何年も。だから本当はずっと前に昇進してよかったし、いまさらリーダー職じゃあ、次に上がるのいつかなあとか、考えちゃってさ。嫁さんにこの話したら、じゃあ転職しようってはっきりいわれて、半年後内定目標でゴールデンウイークから転職活動だとはっぱかけられて」

「いい奥さんだな」ぼくは感心した。「計画的だ。おまえより仕事できそう」

 渡辺は困ったような表情になって頭をかいた。

「たしかに、いつもすこし負けてる感じがあるな」

「で、転職するの」

「うーん。どうかなあ。そっちの連休は?」

「急に話をふるなよ。ぼくは」

 そういったときピンポンが鳴った。ぼくは立ち上がりながら「締切がいくつかある。けっこう忙しい」とつづける。


 渡辺がぼくの後ろで「サラリーマンじゃないのも大変だよな」というのが聞こえたので「おまえは昇進があるだけましだろ」といって三和土におりた。ガラス戸に映った影をみただけで誰が来たのかわかった。


「瀬川君」

 あらわれた瀬川はぼくをろくに見ずにひょいと頭をかがめ──通れないこともないのに、癖でかがめてしまうらしい──一歩中に入ってから、やっとこっちをみていった。

「あ、お客さんですか?」

「ああ。もう帰るけど」

 渡辺が慌ただしく立ち上がる音がして、玄関にやってきた。

「どうも──?」


 瀬川は三和土に立ったままだ。

「彼は瀬川君」とぼくはいう。「予備校で担当だった」

「大学受験の?」

 瀬川は風呂敷包みを上がり框に置いて靴を脱いだ。

「へえ。そうか、おまえ一応先生もやってるもんな」と渡辺がいって、ぼくをみて、もう一度瀬川をみた。

「先生と生徒か」

 何を考えたか、妙にしみじみした口調だ。

「瀬川君はもう大学を卒業して就職したよ」

「今は上に住んでるんです」


 瀬川が口をはさんだ。三和土からあがるとぼくも渡辺も瀬川に見下ろされる格好である。でかい男なのだ。

「へえ、じゃ、大家と店子か」

 渡辺がそういったので、僕は異議をはさんだ。

「ぼくは大家じゃない。管理人だ」

「だったらめぞん一刻だ」


 瀬川が不思議そうな顔をした。

「めぞん一刻?」

「渡辺、瀬川君にそのネタは通じない。世代を考えろ」

「え、知らないの? まんがだよ。うる星やつらの人の」

「それならわかります。読んだことないけど」

 渡辺はため息をついた。

「そうか。おれ、帰るわ」

「奥さんによろしく。転職がんばれ」

「まだ決めてない」


 がらっと音をたててガラス戸が閉まると、瀬川は首をのばして散らかった部屋をながめ「えっと、先生の?」と聞いた。

「大学のころの腐れ縁連中だ」とぼくはいって、瀬川の持っている風呂敷包みをみた。

「それ何。スーツでそんなの持ってると法事帰りみたいだな」

「法事ぃ……ですかぁ……」

 瀬川はなぜかがっかりしたような声を出す。

「これはですね──」


 座卓に置いて結び目を解きはじめるが、きつく結んであるらしく苦労している。ぼくはそのあいだに空き缶やごみを片づけた。

「先生、じゃーん!」

「──何?」

「寿司と和牛です。霜降りです」

「何で?」


 そう聞いたのは意味がわからなかったからだ。今日は何か特別な日だったか?

「何でって……ほら、今日ね、給料日で」

「そうか、月末──」ぼくはまばたきした。

「瀬川君、給料日に和牛? 大丈夫か? 変なウイルスに罹患してないか?」

「先生! もう……」

 瀬川は口をとがらせた。

「初給料なんです、おれの! 初任給なの!」

「ああ──たしかに」僕はまたまばたきをする。

「そういえばそんな行事──というのかどうかは知らないが、そんな昭和な話があったな」


 ぼくは瀬川が箱をあけるのを見守った。和牛はすばらしい霜降りだし、寿司には雲丹がついている。ぼくは風呂敷をながめ、また心配になった。


「瀬川君、最初の給料から浪費癖をつけるなよ。初任給で贈り物なんて、令和になってもそんな習慣があるのか? そういうのって、親御さんなんかに『お世話になりました』とかいってやるもんじゃないのか? ぼくは縁がなかったが」

 思わず口をついて出た言葉に瀬川はうらめしそうな顔をした。


「最初だけです。おれの給料なんだから先生と和牛食ってもいいじゃないですか。それに先生がイクラと雲丹が好きだってわかってますよ。いらないんですか? おれひとりで食べますか?」

「イクラと雲丹を? それは困る」

「だったら素直に食べたいっていいましょうよ」

「あ、うん……」


 ぼくは急に照れくさくなって、それにすこし恥ずかしくなった。

「すまん。ありがとう。食べたい」

「素直ですね」

「素直にいえといったのはきみだ」

「それに寿司と和牛のあとは先生をいただく予定ですから」

「瀬川君」

「最後は先生でしめます」


 ぼくは返す言葉を思いつけずに黙った。瀬川は嬉しそうに笑っている。なんだか負けたような気がしたが、負けても別にかまわないのかもしれない。なんといっても風呂敷のなかで寿司と和牛が待っている。





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