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四月・はじまりの月

 四月は残酷極まる月だ。


 こんな書き出しではじまる外国の詩があると、何年も前に文学部の友人が教えてくれた。中学三年で文学に目覚めたという友人は高校三年間を『カラマーゾフの兄弟』(ロシア文学)を枕にして床で寝たという武勇伝を持つ変わり者だったが、大学四年の春に内定をさっさととり、三十を過ぎた今は奥さんと一歳の子供がいるサラリーマンだ。

 ぼくは四月が残酷極まる月だとは思わない。でも黒いスーツを着た人々がずらりと並ぶ光景がテレビに映ると、多少落ちつかない気分にはなる。

 ぼくは入社式という行事を経験したことがない。


 四月になったのでこたつは片付けた。テレビを消すと、古い家の窓ががたがた鳴る音が妙に響いた。今日は朝から風が強い。

 座卓の上に封筒がのっている。

 どうしようかな。瀬川は今日来るだろうか。


 入社式って、何をするんだろう? 大学のオリエンテーションみたいなものか? 終わった後に同期と親睦を深めたりするのだろうか?

 自分に経験のないことだから実感もわかないまま、ぼくは時計を見る。瀬川はここの二階に住んでいる。古い住宅が残るこのあたりでも最近は少なくなった、二階だけがアパートになった古い家だ。一階は道に面した端と端にそれぞれ玄関があって、こちら側がぼくの住居で、反対側は昔は店舗だった。今は貸し倉庫になっている。


 瀬川は二月に二階の空き部屋を借りた。いくらぼくが住んでいるからといっても、物好きなやつだとぼくは思った。古いから家賃は安いが、もっといい部屋もあるだろうに。


 また風で窓ガラスが鳴った。ぼくは座卓の上の封筒をみる。ここに置いていても仕方ないし、こういうものはタイミングを逃すとあまりよくない。遅れると気まずくなり、結局ずっとここに置いたまま、なんてことになりかねない。


 暗い夜に生暖かい風が吹き抜けていた。ぼくはサンダルをつっかけて二階に通じる階段の前に立つ。郵便ポストに入れるか、部屋の新聞受けに入れるか、また迷って、結局二階にのぼった。サンダルのかかとが鉄の階段を擦った。横から風がごうっと吹く。隣家の屋根のすぐ上に半分の月が浮かんでいる。あっちは西だ。ってことはこれから沈むのか。


 ぼくは新聞受けに封筒をさしこんだ。白い封筒は予想に反して素直に落ちず、どこかにひっかかってしまったらしい。舌のようにドアから突き出してしまう。瀬川め、いったい何を溜めこんでるんだ。

「先生?」

 声をかけられるまで気づかなかった。ぼくは文字通りびくっとして、あわててふりむいた。スーツを着た瀬川が立っている。いかにも新入社員という感じがした。


「瀬川君」

「下でピンポン鳴らしたんですよ。どうしたんですか、めずらしい」

「あ……これはその」

 ぼくは口ごもり、つい、意味不明のことをいってしまった。

「はみ出ていたんだ」

「何が?」


 瀬川の手がのび、ぼくの横から封筒をつかむ。

「郵便?……あ」封筒の表をみてまばたきをした。

「ね、もしかして、もしかしてじゃなくて、これ」

 ああもう。ぼくは首をふり、苦し紛れにいった。

「瀬川君。新聞受けはきれいにしてないとだめだろう」

「これ先生から?」

「ここで話すと迷惑だから、さっさと中に入って」

「どうしよう、おれ、先生から入社祝いもらえるなんて思ってませんでした」

「いいから中に入れって」

「じゃあ先生も入りますよね? おれの部屋」

「ぼくは帰る。届けに来ただけだ」

「何ですかそれ。鍵あけますって」


 瀬川はぼくの肘をつかんで、片手で鍵をチャラチャラ鳴らす。ドアはすぐにこちらへ開いた。瀬川はせまい三和土の方へぼくの肘を引いた。

「四月っていいですよね」

「そう?」

「最初に先生を見たの四月で、今日も四月だ」

「そうだったか?」


 ぼくのうしろでドアが閉まり、バタンと大きな音が響く。身震いでもするかのように、古い建物がかすかに揺れた。





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