脱衣所は素っ気ない作りで寒かった。プラスチックのカゴを並べた棚の向かいに鏡のついた洗面がひとつ、その隣にトイレ。剥がれかかった金文字で「浴場」と描かれた硝子戸が端にある。目の高さに「滑ります注意」と張り紙が一枚。
「おれ、先に行ってます」
瀬川はさっさと服を脱いで素っ裸になった。戸をあけるときはガラッと大きな音がする。すたすたと歩く音を聞きながらぼくも服を脱ぐ。タオルを一本ぶら下げて硝子戸をあけたとたん、冷たい空気に体がすくみ、股間がちぢむが、眼の前はほかほかと湯気が立っている。
温泉である。
源泉かけ流しである。
洗い場はふたつだけ、水色のタイル張りだ。瀬川はもう髪を泡だらけにしている。ぼくも隣の風呂椅子に陣取り、蛇口をひねる。瀬川が頭からじゃっと湯をかぶり、しぶきが飛んできた。ぼくもタオルを泡立て、急いで体を洗い、髪を流す。
湯船のまわりのタイルも水色だった。周りは植木と石垣に囲まれている。小さな古い宿の貸し切り露天なのだが、想像したよりかなり広い。
そして熱い。
「96度らしいです」
湯船のなかから瀬川がいった。
「もちろん、源泉湧いた時の話ですけど」
ぼくは足先、くるぶしまでそうっと湯につける。
「瀬川君、熱くない?」
「ちょっと」
「ぼくにはちょっとじゃない」
だめだ。入れない。湯船のふちをぐるっとまわり、湧きだし口から一番遠い、岩が段になって浅い部分へ足をいれた。お、ここなら大丈夫だ。ゆっくり膝を曲げ、湯につかる。
「おお……」
思わず声が出た。湯はとろりと柔らかく、冷えた足にじーんとぬくもりが染みわたる。バチャっと響いた水音に顔をあげると、瀬川が立ち上がり、湯をかきまわすようにしてぼくのすぐ前にくる。もちろんかまわないのだが、そんなところに立たれると……。
「あー……瀬川君。はやく浸かって」
ぼくはすぐ近くでぶらぶらしている物を視界に入れないようにする。瀬川は気がついているのかいないのか「やっぱり少し熱すぎたみたいです。この辺の方がいい」とのんきな調子だ。
チャポ。瀬川の体が湯に沈む。
「気持ちいいですねえ」
「ああ。気持ちいい……」
ぼくは湯の中で手首を回し、指をグーチョキパーに開く。温泉にはまったく詳しくないし、源泉かけ流しといわれても何がいいのかさっぱりだったが、今はすこし理解した。健康ランドのお湯より断然気持ちがいい。当たり前か。当たり前だな。そうでなければはるばるここまでやってきた甲斐がないというものだ……いくら先月の埋め合わせといっても……。
とりとめなくそんなことを考えていると、正面の湯気のなかで男前がにかっと笑った。
「先生」ゆらゆるする水の表面から指が二本突き出し、ひらひら揺れる。
「ん?」
「もすこしこっちに寄って」
温かい水流が背中と腰をなぞるように動いた。ぼくはうっと妙な声をあげそうになる。瀬川の手が背中に回ったのだ。
「瀬川君」
「気持ちいいでしょ?」
腰の上──いつも凝っている場所を押された。
「う……瀬川君……」
「貸し切り風呂でよかった」
ちっ。我ながら意味不明のくやしさと対抗心がこみあげ、ぼくも湯の中で手を伸ばす。同じように瀬川の腰に手をまわしたつもりが、方向が逆だった。指が締まった腹とへそをかすり、撫でおろすようになってしまう。焦った声が聞こえた。
「せ、せんせい?」
「悪い。方向をまちがえた」
「罪作りなことはやめてくださいっ」
「当たり前だ。貸し切り風呂なんだから──瀬川君!」
また変な声が出てしまった。瀬川の濡れた髪がぼくの首筋をなで、うなじを垂れた水滴がぽちゃんと落ちる。湯の中では瀬川の腕が体をがっつりホールドしている。
「あとで仕返ししますよ」
「間違えたんだって!」
「信じませんよ」
湯気のような、温かい息のようなささやきが耳に吹きこまれた。
「部屋に戻ったら続き、やりますからね……」