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三月・五人囃子

 ピンポーン。

 チャイムにつづいて「先生、おれです」と陽気な声がいった。

 「あいてる」

 床に積みあげた本の山から一冊を探し出すべく、腰を曲げたままのかっこうで僕がそう答えると、いつものようにガラっと戸がひらいて、いつものように瀬川が入ってきた。


 こんな古い家にはそぐわない背の高さだ。上がり框からこっちの部屋へ敷居をまたぐときはひょいっとわずかに頭をかがめる。

 この動作がすっかり癖になっているにちがいない。今どきの新しいマンションなら、もっと天井も戸口も高く、快適なはずなのに、この男は先月から二階の一室に住みはじめた。ここの二階は昔ながらの古いアパートなのである。


 ぼくはといえば、やっと目当ての本をみつけて腰をのばしたところだ。みると瀬川は手からぶらんと折詰のようなものを下げている。

「どうしたんだ?」

「ちらし寿司です」

 瀬川はにこにこしながらいった。

「美味しそうだったんで、買っちゃいました。先生、ゴハンまだですよね?」

「ちらし寿司? ああ、ひなまつりか」


 ぼくは得心してうなずく。この近くのすし屋は毎年三月三日、ちらし寿司を店頭で大々的に売るのだ。しかし瀬川は目を丸くして「ひなまつり?」と聞き返した。

「気づかずに買ってきた?」

「あ──いや、なんでちらし寿司売ってるのかなぁとは思ったんです。でも、どうしてひなまつりにちらし寿司食べるんです?」

「さあ。グーグル先生に聞いてくれ」


 ぼくは本をどっこいしょとこたつ台に置いた。暖かい日と寒い日が交互にくるので、まだ当分こたつは部屋の中に居座っている。瀬川は折詰をこたつ台に置くとすたすたと流しの方へ行き、やかんに水を入れている。

「何かつくるの」

「インスタントの吸い物、オマケで貰ったんです」


 換気扇が大きな音を立てて回る。ただ待っているのも変な気がして、ぼくはテレビのリモコンをいじる。ニュースは高校の卒業式を伝えている。心臓に悪い光景である。アルバイトでも正規職でも、塾や予備校で働いていると今の時期はハラハラするのだ。


 そのとき突然、台所から瀬川の鼻歌が聞こえてきた。メロディはおなじみのひなまつりの童謡だが、歌詞は大幅に変わっている。


 あかりをつけたらしんじゃった~

 おはなをあげたら枯れちゃった~

 ごーにんばやしの首チョンパ~

 きょーうはかなしいおそうしき~


「おいおい、何歌ってるの」

「え、ひなまつりだから」

 瀬川はまじめな顔つきで、吸い物椀をこぼさないようにそうっと運ぶ。湯気の立つお椀をふたつこたつ台の上に並べ、折詰の紐を解きにかかる。


「いや、本物がこんな歌詞じゃないのはわかるんですけど、知らないんですよね」

「ぼくはそんな歌詞初めて聞いたよ。いったいどこで覚えるんだ」

「そうですか? 小学校で覚えたんですよ。先生は歌いませんでした?」

「歌わないって。五人囃子の首チョンパってなに」

「いい歌詞ですよね」瀬川は真顔だ。

「最高だなって思いましたよ。小三のとき」


 ちらし寿司は海鮮もの、イクラとカニがのった上物だ。テレビは各地の卒業式を映している。ぼくは吸い物を含み、イクラをひとつぶひとつぶ拾う。視線を感じて顔をあげると瀬川がじっとこっちを見ている。


「なに」

「あ、なんでもないです」

 なんだか含みがあるようじゃないか。ぼくはもう一度聞く。

「なんなの」

「いやその……」瀬川は視線をそらし、もごもごといった。

「先生カワイイな、と……」

 自分の顔がさっと赤くなるのがわかった。

「だから何でもないですよ」

「瀬川君」

「それより今日、卒業式ですよね」


 わざとらしく話をそらされたが、しかしたしかに──たしかにその方がいいかもしれない。

 というわけでぼくは「そうだな」といい、ちらし寿司に専念する。

「おれ、高校の卒業式、ほんとうれしかったなぁ」

 テレビをみながら瀬川がいう。

「まだよくおぼえてます」

「そんなに? なんで?」とぼくは聞く。

「なんでって、わからないんですか?」

「大学に合格できたから?」

「ちがいますよ」

「高校なんてかったるいものに行かなくていい……」

「いや、ちがいますって」

「他になにかあるか?」


 するといきなりこたつの下で瀬川の足がのびてきた。

「瀬川君、足」

「先生、ほんとにわからない?」

「うん。わからない」

「これでも?」

 瀬川の足は器用だ。こたつの下でぼくのひざをくすぐり、足のあいだに入ってくる。

「おい、瀬川君……」

「卒業式が嬉しいのは、やっと生徒じゃなくなって、先生に堂々とものがいえるようになるから。それ以外にありませんよ」

「瀬川君」

「つきあってとか、アレしましょうとか」

「おい、吸い物がこぼれるって」

「ちらし寿司、さっさと食べちゃってください。俺はずっと我慢してたんですよ。先生だってわかるでしょ。高校生の性欲」

「何年前の話をしている。いまはもう大学生だし──いや、大学だってもう終わり──」

「ほんと嬉しいですよね。大人になるって」


 ぼくはちらし寿司の最後のひとくちを頬張る。あわてたせいで上にのったイクラの粒がふたつ、折詰の外へこぼれる。すかさず瀬川がそいつをつまみ、自分の口にいれた。ぼくの眼は自動的にもうひとつのイクラの行方を追う。だが瀬川の指はまっすぐぼくの口へのびる。


「瀬川く──」

「お内裏さまとお雛さまって、どこでヤッてると思います?」

「知らん」

 瀬川の指はぼくの唇にくっついて、そのまま離れようとしない。それどころか顎をつかまれた。

「ねえ、先生。五人囃子とか右大臣左大臣とか、いろいろいるんですよ」

「五人囃子なら首チョンパだ」ぼくは思わず口走る。「瀬川君。イクラを無駄にするな」

 瀬川はにやっと笑っていった。

「おれは先生を無駄にしませんね」





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