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二月・約束

 今日は二月十四日だ。

 もう二月十四日である。

 もう。

 なんということだ。


 ぼくはプリントの山を前にため息をついている。はやくこのレポートをどうにかしなければならない。全部読んで、採点して、結果を入力して、送信しなければならないのだ。今日は二月十四日。明日は十五日である。


 どうして十四日のあとは十五日になってしまうのだろう。毎日がいちにちいちにち、律儀に順序良く進んでいくことに、時間というやつは飽きないのか。たまには巻き戻って、二月十三日の次を十日にするとか、十四日の次は十一日でもいいだろうとか、そんなことを考えないのか。


 それに明日は土曜日だ。勤務先の予備校は授業コマこそないものの、受験生のフォローアップでぼくは朝から出勤である。夜は夜で、締め切りが迫る研究助成の書類を埋める必要がある。

 ぼくは忙しいのである。非正規雇用の研究者に休日はない。特に今のシーズンは。

 なのに、どうしてまた──


「瀬川君」僕はこたつの中で足を伸ばす。

「瀬川君。そこで何をしてる」

「待ってます。先生の用事が終わるのを」


 こたつの向こうから呑気な声がいう。からっとしてあけっぴろげで、大きめの声である。聞くだけで陽気な人間だとわかるような声だ。しかし顔は見えない。ぼくの視界が座卓の上に乗ったプリントにさえぎられているからだ。

「ものすごく申し訳ないんだが」とぼくはいう。

「夜まで終わらないかもしれない。ものすごく申し訳ないんだが……」


 はからずも声がすこし小さくなってしまう。というのも、今日は本当はここにいないはずだったからだ。目の前にあるプリントの山を昨日のうちに片付けて、今日は空けておくつもりだったのだ。そのつもりは十分にあったのだが……。

「うーん。そうみたいですねえ」

 幸い、こたつの向こうから聞こえる声の調子は変わらない。

「おれが手伝えるといいんだけど、無理だし」


 ぼくはまたため息をついている。約束を破るのは好きではない。締め切りも絶対に守りたい人間である。なにしろぼくは小心者で臆病だから、約束を破って相手に負い目を感じたくない。ましてや、約束と締め切りで板挟みになるなんて、あってはならない。

 でも今日はそのあってはならないことが起きている。


「瀬川君。ものすごく申し訳ないんだが」

 口に出した直後、ぼくは同じ言葉を三度繰り返したことに気がつく。

「来週か再来週埋め合わせをする。いや、三月上旬かな。だから今日は……」

 突然プリントの上に頭が生えた。こたつの向こうで瀬川がにょきっと体を起こす。


「申し訳なくないですよ。忙しいのに、無理無理で約束したんでしょう」

「……ごめん」

「でも、それならおれはかなり喜んでいいってことですよね」

「なにが」

「だって今日、二月十四日ですから」


 瀬川はこたつのむこうから側面へと腰をずらし、なぜか膝をかかえて体育座りになった。

「バレンタインデートのために空けようとしたってことでしょ? 俺のために」

「いいや!」ぼくは即答する。

「ちがう。二月十四日は、たまたまだ」

「またまた」瀬川はにやにやする。

「ね、先生。チョコレート、欲しいですか?」


 もちろん欲しい。またも即答しそうになったところをぼくは思いとどまる。ぼくは甘いものが好きだ。いつもいつもそう思っているわけではないが、特にいまはそうだ。糖分を補給しないと頭がちっとも働かなくなるのだ。チョコレートは疲労回復に最高だ。


「欲しいですよね?」

 瀬川の口調は依存症患者を誘惑する売人みたいだった。

「……欲しいよ」

「じゃ、これ」


 どこからかするっと平たい箱が登場した。黒っぽくて洒落たパッケージ。高そうだ。まずい、と僕は思う。脳に栄養を補給するためなんて理由でこんなものを食べたら、罰が当たるんじゃないか。


「あげます。あとでおれにもください」

「でも、ぼくは」

 用意できていない。そういいかけた言葉はにゅっと伸びた瀬川の手にせきとめられた。

「おれがもらうのはチョコよりもっといいものなんで。大丈夫です」





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