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笑顔の棲家
笑顔の棲家
相沢司
ホラーホラーコレクション
2025年03月03日
公開日
2,555字
完結済
あなたは誰?あなたは私?

笑顔の棲家

新居に引っ越して、一週間が経った。

部屋の中にはまだダンボールが積まれているが、生活は落ち着いてきた。静かで過ごしやすい家だ。翔太と二人で選んだ中古の一軒家。築年数は経っているが、リフォーム済みで内装は綺麗だ。住宅街の一角にあり、前の狭いアパートに比べればずっと快適だった。アパートでは毎朝、翔太とコーヒーを淹れるのが日課だったが、ここではその習慣が途切れている。

壁の一部には薄い染みが残り、リビングの隅には縁が欠けた古い鏡が置かれている。リフォーム済みの家には似つかわしくないが、前の住人のものだろうと気にとめなかった。新しい生活に慣れるまでは、些細なことは気にしない。

でも、何かが違う。

最初は気づかなかった。引っ越しの疲れだと思っていた。でも、ある日から、翔太の様子がおかしいことに気づき始めた。

家の間取りを覚えていないのだ。

キッチンの棚の位置を間違え、トイレのドアを開けようとしてクローゼットの扉を引く。何度も同じ間違いを繰り返す。

「この家、まだ慣れないな。」

翔太は笑って言ったが、私は引っかかっていた。アパートでは、彼は几帳面で、どこに何があるかをすぐに覚えた。それなのに、この家では何度も間違える。

「お前、キッチンの包丁どこにしまったっけ?」

「引っ越してからずっとここだけど。」

「そっか…見落としてた。」

彼の声に、かすかな苛立ちが混じっていた。何気ない会話なのに、心に刺が残った。そして——

翔太の笑顔が、ぎこちない。

以前は自然に笑っていたのに、今は私の笑いに一瞬遅れて笑う。笑い声が低く、遠くから響くように感じる。まるで、私を見てから笑うタイミングを決めているように。

「ねえ、本当に翔太なの?」

冗談めかして言ってみた。

彼は怪訝な顔をし、「当たり前だろ」と笑った。でも、その笑顔は硬く、目がどこか遠くを見ていた。


夜の違和感


その夜、目を覚ました。

廊下で微かな物音。何かが動く気配。翔太かと思い、寝返りを打つが、布団は空だった。

暗闇に目を凝らすと、翔太が部屋の隅に座っていた。膝を抱え、じっとしている。背筋がまっすぐで、頭が揺れている。

「……翔太?」

彼はゆっくりとこちらを向いた。

「……うん?」

声が妙に遠く感じた。

「どうしたの?」

「……お前じゃないよな。」

小さなつぶやきが暗闇に溶けた。私は息が止まった。

「何?」

「……いや、なんでもない。昔の話だ。」

翔太は布団に戻り、寝息を立て始めた。私は胸のざわめきを抑えたが、その夜は眠れなかった。


違和感の蓄積


翌日、同僚が言った。

「大丈夫? 最近痩せたよね。顔つきが少し変わった気がする。」

「引っ越し疲れかな」と笑った。でも、確かに食欲が落ちていた。体重計に乗った記憶がない。鏡をじっくり見ていない。自分の名前を、最近誰かに呼ばれた記憶がない。翔太は「お前」としか言わない。

帰宅後、洗面台の鏡の前に立った。目の下にクマ。疲れているせいか。顔を見つめる。何かが違う。何が違うのかわからない。手が冷たい。

翔太が後ろから声をかけた。

「何してるの?」

振り返ると、彼はじっと私を見つめていた。視線が冷たく、探るようだった。

「鏡見てただけ。」

「ふーん。似合ってるよ、その顔。」

彼の言葉に、不安が膨らんだ。


決定的なズレ


数日後、翔太が言った。

「なあ、お前さ…最近、雰囲気変わったよな。」

心臓が跳ねた。

「…え?」

「表情とか、動きとか。たとえば——初めて会った時、お前は左手で髪かき上げてた。あの癖、ずっと好きだったのに。最近、右手でやるよな。」

私は息を呑んだ。

「…そうだっけ。」

「うん。歩き方も違う。声も少し高くなった。お前、変わったよ。」

まるで、私が「別の何か」になったかのような言い方。でも、彼の目に、かすかな期待が見えた。

スマホで自分の顔を見た。違う。これが本当に「私」なのか?

手の甲に小さなホクロ。「…あれ?」 こんなところにあったっけ? 自分が「遥香」と呼ばれる瞬間を、いつ感じたのか思い出せない。


最後の鏡


その夜、リビングの古い鏡の前に立った。その裏に、埃をかぶったメモがあった。

「私は私じゃない。笑顔が私のものじゃない。」

震える字。鏡を見た。そこには、「私」が映っている。でも、鏡の中の「私」は首をかしげ、不自然に微笑んでいた。その笑顔が、誰のものか思い出せない。

「お前、本当に遥香か?」

翔太の声が背後から。冷たく、低く響いた。

振り返らず、鏡に目を戻した。微笑む顔が崩れていく。目が歪み、口が裂けるように広がる。手が鏡を叩き、ガラス越しに冷たい指が頬に触れた。

「私は——」

言葉を口にすると、鏡の中の「それ」が先に発した。私の声ではない、甲高い、歪んだ声で。

「私は——」

私が手を動かす前に、鏡の中の「それ」が手を上げ、私を嘲笑うように見つめた。

「お前は、私じゃない。」

足元がふらつき、胸が締め付けられた。私は「遥香」なのか? 鏡の中の「それ」が「遥香」なのか?

「翔太……?」

振り返ると、彼がドアの前に立っていた。冷たい目で私を見下ろし、静かに言った。

「お前は、もう遥香じゃない。でも——」

彼は一歩近づき、口元に薄い笑みを浮かべた。

「俺はずっと、これを待ってた。お前がこうなるのを。お前が…昔のお前じゃなくなるのを。」

その言葉に、体が震えた。記憶が歪み、視界が揺れた。翔太の声が続く。

「お前が強すぎたから、俺は疲れたんだ。あの笑顔、あの癖、全部——俺を縛ってた。今のお前なら、俺を自由にしてくれる。」

理解した。翔太は、もともとの私を愛せなくなっていた。私が「私」でなくなることを望んでいた。そして、この鏡が——隣の遺品が——その望みを叶えたのだ。

鏡の中の「私」が微笑んだ。その笑顔は、翔太の笑顔と重なった。私は叫ぼうとしたが、喉から出たのは自分の声ではない、異様な笑い声。手が震え、視界が暗くなり、体が冷たく沈む。

「遥香は、もういない。」

翔太が囁いた瞬間、鏡の中の「それ」が私に手を伸ばし、ガラスを突き破った。冷たい指が首に絡みつき、私を引きずり込む。私は抵抗したが、力が抜け、意識が溶けた。

最後に見たのは、翔太の満足げな笑顔。そして、鏡の中から聞こえる、私ではない「私」の笑い声。

次の朝、翔太は新しい「遥香」とコーヒーを淹れていた。その笑顔は、かつての私にはない、柔らかなものだった。

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