新居に引っ越して、一週間が経った。
部屋の中にはまだダンボールが積まれているが、生活は落ち着いてきた。静かで過ごしやすい家だ。翔太と二人で選んだ中古の一軒家。築年数は経っているが、リフォーム済みで内装は綺麗だ。住宅街の一角にあり、前の狭いアパートに比べればずっと快適だった。アパートでは毎朝、翔太とコーヒーを淹れるのが日課だったが、ここではその習慣が途切れている。
壁の一部には薄い染みが残り、リビングの隅には縁が欠けた古い鏡が置かれている。リフォーム済みの家には似つかわしくないが、前の住人のものだろうと気にとめなかった。新しい生活に慣れるまでは、些細なことは気にしない。
でも、何かが違う。
最初は気づかなかった。引っ越しの疲れだと思っていた。でも、ある日から、翔太の様子がおかしいことに気づき始めた。
家の間取りを覚えていないのだ。
キッチンの棚の位置を間違え、トイレのドアを開けようとしてクローゼットの扉を引く。何度も同じ間違いを繰り返す。
「この家、まだ慣れないな。」
翔太は笑って言ったが、私は引っかかっていた。アパートでは、彼は几帳面で、どこに何があるかをすぐに覚えた。それなのに、この家では何度も間違える。
「お前、キッチンの包丁どこにしまったっけ?」
「引っ越してからずっとここだけど。」
「そっか…見落としてた。」
彼の声に、かすかな苛立ちが混じっていた。何気ない会話なのに、心に刺が残った。そして——
翔太の笑顔が、ぎこちない。
以前は自然に笑っていたのに、今は私の笑いに一瞬遅れて笑う。笑い声が低く、遠くから響くように感じる。まるで、私を見てから笑うタイミングを決めているように。
「ねえ、本当に翔太なの?」
冗談めかして言ってみた。
彼は怪訝な顔をし、「当たり前だろ」と笑った。でも、その笑顔は硬く、目がどこか遠くを見ていた。
夜の違和感
その夜、目を覚ました。
廊下で微かな物音。何かが動く気配。翔太かと思い、寝返りを打つが、布団は空だった。
暗闇に目を凝らすと、翔太が部屋の隅に座っていた。膝を抱え、じっとしている。背筋がまっすぐで、頭が揺れている。
「……翔太?」
彼はゆっくりとこちらを向いた。
「……うん?」
声が妙に遠く感じた。
「どうしたの?」
「……お前じゃないよな。」
小さなつぶやきが暗闇に溶けた。私は息が止まった。
「何?」
「……いや、なんでもない。昔の話だ。」
翔太は布団に戻り、寝息を立て始めた。私は胸のざわめきを抑えたが、その夜は眠れなかった。
違和感の蓄積
翌日、同僚が言った。
「大丈夫? 最近痩せたよね。顔つきが少し変わった気がする。」
「引っ越し疲れかな」と笑った。でも、確かに食欲が落ちていた。体重計に乗った記憶がない。鏡をじっくり見ていない。自分の名前を、最近誰かに呼ばれた記憶がない。翔太は「お前」としか言わない。
帰宅後、洗面台の鏡の前に立った。目の下にクマ。疲れているせいか。顔を見つめる。何かが違う。何が違うのかわからない。手が冷たい。
翔太が後ろから声をかけた。
「何してるの?」
振り返ると、彼はじっと私を見つめていた。視線が冷たく、探るようだった。
「鏡見てただけ。」
「ふーん。似合ってるよ、その顔。」
彼の言葉に、不安が膨らんだ。
決定的なズレ
数日後、翔太が言った。
「なあ、お前さ…最近、雰囲気変わったよな。」
心臓が跳ねた。
「…え?」
「表情とか、動きとか。たとえば——初めて会った時、お前は左手で髪かき上げてた。あの癖、ずっと好きだったのに。最近、右手でやるよな。」
私は息を呑んだ。
「…そうだっけ。」
「うん。歩き方も違う。声も少し高くなった。お前、変わったよ。」
まるで、私が「別の何か」になったかのような言い方。でも、彼の目に、かすかな期待が見えた。
スマホで自分の顔を見た。違う。これが本当に「私」なのか?
手の甲に小さなホクロ。「…あれ?」 こんなところにあったっけ? 自分が「遥香」と呼ばれる瞬間を、いつ感じたのか思い出せない。
最後の鏡
その夜、リビングの古い鏡の前に立った。その裏に、埃をかぶったメモがあった。
「私は私じゃない。笑顔が私のものじゃない。」
震える字。鏡を見た。そこには、「私」が映っている。でも、鏡の中の「私」は首をかしげ、不自然に微笑んでいた。その笑顔が、誰のものか思い出せない。
「お前、本当に遥香か?」
翔太の声が背後から。冷たく、低く響いた。
振り返らず、鏡に目を戻した。微笑む顔が崩れていく。目が歪み、口が裂けるように広がる。手が鏡を叩き、ガラス越しに冷たい指が頬に触れた。
「私は——」
言葉を口にすると、鏡の中の「それ」が先に発した。私の声ではない、甲高い、歪んだ声で。
「私は——」
私が手を動かす前に、鏡の中の「それ」が手を上げ、私を嘲笑うように見つめた。
「お前は、私じゃない。」
足元がふらつき、胸が締め付けられた。私は「遥香」なのか? 鏡の中の「それ」が「遥香」なのか?
「翔太……?」
振り返ると、彼がドアの前に立っていた。冷たい目で私を見下ろし、静かに言った。
「お前は、もう遥香じゃない。でも——」
彼は一歩近づき、口元に薄い笑みを浮かべた。
「俺はずっと、これを待ってた。お前がこうなるのを。お前が…昔のお前じゃなくなるのを。」
その言葉に、体が震えた。記憶が歪み、視界が揺れた。翔太の声が続く。
「お前が強すぎたから、俺は疲れたんだ。あの笑顔、あの癖、全部——俺を縛ってた。今のお前なら、俺を自由にしてくれる。」
理解した。翔太は、もともとの私を愛せなくなっていた。私が「私」でなくなることを望んでいた。そして、この鏡が——隣の遺品が——その望みを叶えたのだ。
鏡の中の「私」が微笑んだ。その笑顔は、翔太の笑顔と重なった。私は叫ぼうとしたが、喉から出たのは自分の声ではない、異様な笑い声。手が震え、視界が暗くなり、体が冷たく沈む。
「遥香は、もういない。」
翔太が囁いた瞬間、鏡の中の「それ」が私に手を伸ばし、ガラスを突き破った。冷たい指が首に絡みつき、私を引きずり込む。私は抵抗したが、力が抜け、意識が溶けた。
最後に見たのは、翔太の満足げな笑顔。そして、鏡の中から聞こえる、私ではない「私」の笑い声。
次の朝、翔太は新しい「遥香」とコーヒーを淹れていた。その笑顔は、かつての私にはない、柔らかなものだった。
終