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憩はこの小林の行動が原因で後ほど国定と揉めるのだろうなと思うと大きなため息が出てしまった。しかし、今は二人よりウサギたちが心配だと気を持ち直す。
ウサギ窃盗事件。なんて日本全国探しても稀な事件であろう、まさか例の人がやってくるのではと思ったら、本当にその人はやって来た。
パトカーがサイレンを鳴らして到着すると、最初に現れたのは憩のよく知る人物だった。
「紋路市警察署の者です」
そう言って警察手帳を見せられたが、見なくても知っている。憩の年の離れた兄、
パトカーのサイレンを聞きつけて入り口ゲートへやってきた国定夫妻は憤慨している。
「誰だ⁉ 通報したのは⁉」
誰だと言われても、今園内残っているのは副園長の小林と憩の二人だけだ。
「小林! お前か!」
国定のギョロリとした目が小林を捉えるが、彼は飄々としている。
「園で飼育していたウサギが盗難された可能性があるということで間違いないですか?」
優にそう言われ、頷く小林。時刻は既に十一時半である。優が憩に近づいてきた。
「今日は遅いから家に帰ってくれ」
優が憩の耳元で囁く。
「参考人として残らなくていいの?」
「時間が時間だから、お前はバイトだろ」
確かに二十歳の女性が帰宅するにはもう危険な時間である。
「わかった。帰るからあとよろしくね」
憩はゲートを出た。
布団に入ってもウサギのことが頭を離れなかった。ウサギを盗む理由を頭の中にいくつか挙げてみたが、単純にかわいいからという理由は憩の脳内で却下された。恐らく、国定を困らせたい人が盗んだのではないか。だとしたら……。
疑いたくはないが小林の顔が浮かんでしまう。シャープな顎と高い鼻、切れ目で長身の小林憲武はたしか三十八歳だと言っていた。独身で、いつも冷静沈着。国定の小言を嫌がっている素振りは見せないが、やはり心のどこかでは嫌悪感を抱いているに違いない。
小林が国定を困らせるためにウサギを盗んだとしたら、納得がいく。と同時にそうであって欲しいと憩は思った。小林ならウサギを一旦どこかに保護しているであろう。
ふれあい広場が終了した午後五時から憩がウサギがいないことに気づいた午後九時半までの間、小林はずっと事務所にいたわけではない。おおよそ、午後六時ごろに一度、アトラクションスタッフへの注意事項を伝えるために事務所を出ている。一週間前にバイトとして就労したスタッフが観覧車に客を乗せる際のタイミングが遅いとの苦情があったからだ。
小林は確か二十分ほど席を外していた。そのあと、どこへ行ったのかは不明だが、午後九時ごろにも一度事務所から出ていっている。
今日は海が非番で、事務所にいたのは国定、小林、憩の三人だけだ。経理の
国定悦子についてはスタッフとして登録されているのか謎である。憩がラビパで働き始めたのは大学一年生の夏なので、丸二年は経っているが、悦子はいつも突然現れる。色鮮やかなスーツを着用してばっちりメイクで現れる彼女はいつもシュークリームやケーキなどを差し入れとして持ってきてくれる。
憩は悦子のことが嫌いではないが、香水の匂いがきついのが苦手だった。あとは小林を揶揄するようなことを遠回しに言うのも好きではない。枕元の時計が深夜の三時をさしていることに気づいた憩は、考えるのを辞めていい加減寝ることにした。きっと兄の優がどうにかしてくれるであろう。
大学の夏休みは長い。八月、九月は殆ど休みである。
八月のお盆前、ラビパは大勢のお客で賑わっている。憩も週五日、午後三時から午後九時までバイトスタッフとして働いている。大学は実家から通える範囲なので、憩は実家暮らしをしているが、刑事の兄は忙しくてあまり姿を見ない。
父と母は高校の物理と科学の先生だ。父が物理、母が科学を担当して、理科系の二人が結婚したのは、職場結婚としても珍しいケースだろう。
憩の家のセカンドリビングには、物理と科学にまつわる参考書や本が大量に本棚にセットされており、憩もなんとなく目を通した。さらに父は推理小説、母は漫画も好きで、セカンドリビングの本棚は両親の趣味で埋め尽くされている。
憩も本を読むのは好きだが、物理と科学は得に好きな科目ではなかった。将来はエイターテイメント関連の仕事がしたいと考えていた憩は大学進学の際にどの学部を選択したらよいのか分からず、かなり迷った。エンターテイメントといっても幅広く、遊園地のようなアミューズメント施設から、アニメやゲームといったジャンルもエンターテイメントに入る。
七歳の頃、憩は東京にある有名な遊園地でパレードを見て感激した。きらびやかな衣装をまとった妖精たち、着ぐるみのかわいいキャラクターたちが手を振り、色とりどりの乗り物たちが行進する。
パレードに目を奪われた憩は将来、プロデュースしてみたいと思い、遊園地のバイトを始めた。
ラビパでも週末はパレードがある。土曜、日曜の午後にラビパのイメージキャラクターのラビタンとラビリス、そして紋路市のゆるキャラもんたんを始め、愉快な仲間たちがラビパのメインストリートを通り抜けていく。
今日は土曜日だからパレードがある日だが、ウサギの件がどうなったのか。憩は昼前に起きて、洗面所で顔を洗っていたら玄関のドアが開く音がした。
「あ、兄ちゃん」
ヨレヨレのスーツで髪もみだれた優が少々ふらつきながら靴を脱いでいる。
「また徹夜?」
「おお、お前んとこのウサギ探しだよ」
「結局のところどうだったの?」
優は階段を上り始める。彼の部屋は二階だ。
「ウサギは見つかっていない」
その言葉に憩は落胆する。
「無事だったらいいんだけど……」
「ウサギ窃盗事件は初めてだよ」
優はネクタイを外して、よろよろと階段を上がる。
「ごめん、ちょっと休ませて」
憩は弱々しく消えていく兄を見送った。
午後三時、いや、正確には二時五十分、いつも通りラビパに出勤する。何事もなかったかのように園は賑わっているし、午後二時からスタートするパレードも無事終了したようだった。
「おはようございます」
タイムカードは事務所にあるので、事務所にて打刻を行うと、国定の狂ったような声が聞こえた。
「なぜ通報した! お前は私の立場がわかっていないのか!」
ああ、やはりと憩は思う。国定の通報しないでくれという命令を無視して警察に通報した小林に対して怒りがおさまらない様子の国定、そして悦子も隣にいた。
憩は打刻した後そうっと事務所から出た。昨日の件がどうなったのか聞きたかったが、それ以上に巻き込まれたくなかった。
憩は三時から五時の間、幼児向けのじゃぶーんうさこというアトラクションの受付を担当した。いつもはぴょんきちコースターだが、人手が足りないとのことで交代したのだ。ウサギの形をした船に乗り、少しだけ坂を登った後一気に落ちる、いわゆる急流すべりの幼児版だ。身長制限は百センチ以上あれば子ども一人でも乗車可能、三歳未満の子は必ず保護者と一緒にお乗りください。という看板がある。乳幼児を連れた親子から小学校低学年くらいの子たちが列を成している。
大概、お客はフリーパスを購入しているので腕に巻いた紙のバーコードを機械で読み取って、ゲートを開ける。それが憩の仕事だ。小さい子たちはとても可愛いが、泣いたり、せっかく順番が回ってきたのに、トイレと言い出したり、親たちも大変だなと常々思う。
乗り場には屋根があるが、汗が滲んでとても暑い。あくせくと働くうちにあっと言う間に五時になり、次の番の人と交代して事務所へと向かった。
事務所の扉をいつもよりゆっくりと開けると、ドアの隙間から小林の背中が見えた。
「おつかれ様です」
「おつかれ」
小林は憩を一瞥した後すぐにパソコンに目線を戻した。経理の最潮は席を外している。小林と二人きりである。
「あの……小林さん……」
憩が呼びかけると小林の細い目がこちらを向く。
「昨日のことってあれからどうなったんですか?」
「ああ……」
小林は昨日のことなどすっかり忘れていたかのようだ。
「えーとあの後警察がふれあい広場付近や事務所を捜索したけど何も怪しいものは見つからなかった」
やはりか。憩は肩を落とす。
「そんなにショックなの?」
小林のケロっとした表情に憤りを感じた。
「小林さんはウサギたちが心配じゃないんですか?」
「心配といえば心配だけど……」
そこへ、最潮が戻ってきた。トイレに行っていたようだ。
「あ、いーちゃんお疲れ様~」
最潮奈央、自称二十六歳は憩のことをいーちゃんと呼んでいる。
「お疲れ様です」
「うさちゃん、どこかへ行っちゃったんだってね。心配よね」
最潮は染め直したばかりの茶色い髪をおだんごにしている。香水ではなく恐らく匂いがきつめの柔軟剤を使用しているのであろう、いつもフローラルな香りがする。
「心配です」
「ねー。早く戻ってきてくれないかな」
そう言いながら帰り支度を進める最潮はこれから夜の街にでも遊びに行くのだろうか、いつもより短めのスカートとヒールの高いサンダルを履いている。