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34.鬼人兵

「──……ああッ──!」


 額に汗をかいた桃姫は、声を上げながら目を覚ました。視線の先には雨漏りの黒シミにまみれた見慣れぬ天井──そして、カビた布団とすえた畳とが混ざりあった悪臭が桃姫の鼻孔に押し入ってくる。


「──……うう……」


 目覚めてもなお極光の波に飲み込まれた夢の余韻が脳裏に残り、目の奥が焼けるような鈍い頭痛を感じた桃姫は、汗で濡れた額に手を当てながら自身が置かれているこの状況を把握することに努めた。


「──…………」


 桃姫は見慣れぬ部屋をゆっくりと見回して、このカビ臭い部屋は、播磨にある安宿の二階であり、昨夜雉猿狗と共に宿泊したのだということを次第に思い出していく。


「──雉猿狗……どこ……?」


 そうなると、桃姫は雉猿狗の姿を探したくなった。しかし、隣の布団はもぬけの殻であり、急いで飛び起きたかのように掛け布団が粗雑に剥がされていた。

 真面目で丁寧な振る舞いをする雉猿狗が、このような状態で自身の布団を抜け出すとは桃姫には到底思えなかった。


「──何があったの……雉猿狗……」


 雉猿狗は急いで布団から抜け出る必要があった──そう考えた桃姫の脳裏に嫌な予感が波のように押し寄せ、ただでさえ痛む頭を更に苦しめた。


「うう……雉猿狗……どこ……」


 桃姫はふらつきながら立ち上がると、右手で額を抑えながら、開け放たれている引き戸から二階の廊下に出た。そして、急な傾斜の階段を一歩一歩、左手を壁に押し当てながら降りていくと、鼻孔にツン──とカビ臭さとは異なるイヤな臭いが入り込んだ。


「……この臭い……いやだ……こわいよ……」


 桃姫は、嗅いだ覚えのある臭いに対して恐れの表情を浮かべながら、それでも階段を降りて板の間が覗ける場所まで来ると、台帳が置かれている受付台に倒れ込んでいる女性の下半身が目に飛び込んできた。

 女性は使い古した着物にたすきをかけており、その格好から昨夜挨拶をした宿屋の女将だとわかった。


「──……うぅっ」


 慄きながらうめいた桃姫が、ゆっくりと階段を降りながら倒れている女将の全身を顔を覗かせて確認すると、女将は首から上が切断されていた。

 女将の首から溢れ出た鮮血が板の間を赤く染め上げて血溜まりを作り、一段低い土間にポタポタ──と音を立てながら垂れ落ちていた。


「──……うっぷ──」


 その悲惨な光景を目にした桃姫は、強い吐き気を催して両手で口元を抑えると階段の踏み板の上に尻もちをつくようにしゃがみ込んだ。

 次の瞬間──土間の奥から何やらけたたましい音がしたと思ったら、血相を変えた雉猿狗が〈桃源郷〉を握りしめながら飛び退くようにして姿を現した。


「──雉猿狗……ッ!?」

「──なッ!? 桃姫様──!?」


 驚愕した桃姫が立ち上がって声を上げると、雉猿狗もまた桃姫の姿を見て驚きの表情で返した。


「……雉猿狗、何やってるの……!? ──ねぇ、いったい何が起きてるの……!?」

「──部屋に戻ってくださいませ、桃姫様! ……くッ──!」


 桃姫の言葉に雉猿狗は焦ったように言って返すと土間の奥から繋がる台所を睨みつけた。そして一息発しながら、飛び跳ねるようにして後退した雉猿狗は〈桃源郷〉を両手で握りしめて構えながら叫んだ。


「──鬼ですッ! 桃姫様ッ──!」

「……ッ!?」


 雉猿狗の叫びを聞いた桃姫は絶句すると、台所から大ナタを握りしめた巨漢の鬼人兵がヌゥッ──と土間に姿を現した。


「──グゥガガッ──ガァガガ──ッ!」


 赤い眼をギョロギョロ──と動かしながら奇怪な唸り声を発した巨漢の鬼人兵は、右手で柄を握った血濡れた大ナタの刃を左手で下から支え持ちながら、対峙する雉猿狗に距離を詰めた。

 雉猿狗は両手で〈桃源郷〉を構えながら鬼人兵を睨みつける。そして、階段の下にいる桃姫に向けて声を発した。


「──女将さんの悲鳴を聞きつけて、駆け降りてきたら……既に──! この鬼の狙いは──桃姫様です……!」

「……っ!」


 雉猿狗の言葉を受けて桃姫は恐怖で体を強張らせると、巨漢の鬼人兵は階段の下にいる桃姫の姿を見回していた赤い眼の視界の中に入れた。そして、その瞬間眼を動かすのをやめて、桃姫一人に標的を絞る。


「──ギグァァア! ──ガァッギャアアッ──!」


 "お目当ての獲物を見つけた"とばかりに狂喜しながら、奇声を張り上げて桃姫に迫った鬼人兵。

 それに対して、雉猿狗は翡翠色の瞳をギン──と光らせると、自分の前を通り過ぎようとした鬼人兵目掛けて咆哮した。


「──桃姫様に近づくなァッ──!」


 今まで聞いたことのない獣のような怒声を張り上げた雉猿狗は、巨漢の鬼人兵に向かって全力の蹴りをお見舞いした。


「──グッ! ──ガァギ──!」


 肥えた胴体を雉猿狗に蹴り飛ばされた鬼人兵は、玄関の木戸ごと外に弾き飛ばされ、地面を転がりながらうめき声を発した。


「──桃姫様は、部屋にッ──!」


 目をギン──と光らせた雉猿狗が桃姫に告げると、巨漢の鬼人兵を追って〈桃源郷〉を握りしめた雉猿狗も外に飛び出していく。


「……雉猿狗っ──!」


 桃姫の心配の声は雉猿狗の耳には一切届かなかった。鬼人兵を追いかけた雉猿狗が宿屋の外に出ると、鬼人兵がうめきながら立ち上がっているところであった。


「──グゥゥウッ! オガガアァ──!」


 鬼人兵は蹴りの直撃を受けた青黒い肌の脇腹を左手で抑えながら、頭にいびつな赤い一本角の生えた鬼の顔で雉猿狗を睨みつけた。


「──すぐ楽にして差しあげます。あなただって、元は人間──鬼になんてなりたくなかった……こんなこと、したくなかったでしょうにッ──!」


 雉猿狗は巨漢の鬼人兵に対して嘆き悲しむように言うと、桃太郎の愛刀、〈桃源郷〉を赤い手甲を付けた右手を軸に白い数珠を付けた左手を添えて構えた。

 早朝の朝日が照らす街道は人通りが一切なく、大ナタを振り上げる鬼人兵と〈桃源郷〉を構える雉猿狗のみが対峙していた。

 この播丸という安宿屋は、宿場町の入り口に位置している。それ故に騒ぎが起きているのに他の宿屋まで騒動は届かないという距離であった。


「……雉猿狗」


 桃姫は、"部屋に"と言われた雉猿狗の言葉を脳裏で泳がせつつも、しかし、雉猿狗に対する心配が勝って女将の亡骸が倒れる板の間を越えて、土間に降りて雪駄を履き、そして破壊された玄関の引き戸から顔を出して外の様子を見た。


「──御館様……どうか雉猿狗に、この〈桃源郷〉で鬼を退治する、"仏の力"をお与えくださいませッ──!」


 仏の加護を受けた銀桃色の刃の切っ先を鬼人兵に向けながら祈るようにして雉猿狗は声を発した。

 全身の意識を集中させる雉猿狗に対して、しびれを切らした巨漢の鬼人兵は、咆哮を張り上げながら腹の肉を揺らしてドシドシ──と音を立てながら地面を蹴って迫る。


「──グヴォガァオッッ──!!」

「──フッ──! ……ヤェェエエエッッ──!!」


 鬼人兵の大ナタによる大振りの一撃を一呼吸で身軽にいなし、体勢を低くした雉猿狗は、桃太郎由来の裂帛の声を張り上げながら鬼人兵の心臓ただ一点を目掛けて〈桃源郷〉の切っ先を流れるように伸ばして刺し貫いた。


「……わっ──」


 その光景を見た桃姫が思わず声を漏らした。それはまるで麗人の雉猿狗が軽やかな舞踊を舞っているように見えたからだ。

 雉猿狗は即座に〈桃源郷〉を鬼人兵の心臓から引き抜くと、飛び跳ねるようにして距離を取った。


「──ガ、ハァ──」


 自分が死んだことすら気づいていないような顔の鬼人兵は、尖った歯を見せつける口から生暖かい息を吐いた。

 そして、黒い鬼の血液を左胸に穿たれた穴からドバッ──と一気に流出させたあと、ようやく後ろ向きにドスン──と倒れ伏した。


「──ふゥ……ふゥ……やりました、御館様──」


 肩で呼吸した雉猿狗は鬼人兵が息絶える様子を最後まで見届けてから、ようやく安堵の声を漏らした。


「──雉猿狗っ──!」


 そして、宿屋の玄関から雉猿狗に向かって思わず飛び出した桃姫。その姿を見て雉猿狗は驚きの声を上げた。


「……桃姫様ッ!? 部屋に戻ってくださいって……私──」

「──良かった……! 雉猿狗、無事で良かったよぉ──!」


 雉猿狗が桃姫に対して言っている最中に桃姫は雉猿狗に抱きついて強く抱きしめた。


「も、桃姫様……」

「──私、雉猿狗が死んじゃったんじゃないかって……死ぬんじゃないかって……怖くて……!」


 桃姫の疲れ切った表情と言葉から雉猿狗は桃姫の感情を汲み取ると、雉猿狗はほほ笑んで答えた。


「……私は死にませんよ、桃姫様……死んでしまったら、桃姫様をお護りできないではありませんか」


 雉猿狗は強がりながら言ってみせると、胸元に抱きついている桃姫が顔を横に向けて、何かを見ていることに気づいた。


「……桃姫様……?」

「──雉猿狗、あれ……」


 桃姫の引きつったような声、雉猿狗は桃姫が見ている方向に顔を向けると、そこには一本の大きな松が立っていた。

 目印のようにして宿場町の入口に立つその見事な一本松の太い幹の陰に、一人の女が幽鬼のようにして立ち、こちらを長い黒髪の隙間からジッ──と見ていることに雉猿狗は気づいた。


「……雉猿狗、あの人も……鬼、なの?」


 怯えた桃姫が雉猿狗に尋ねると、雉猿狗は目を凝らしてよく見る。しかし、その額に角は無く、目も赤くはない──何より肌に鬼人特有の青黒さはなく、むしろ、死人のような土気色の肌をしていた。


「……私が……確認、してみます……桃姫様はこちらに──」


 そう言った雉猿狗が桃姫を身体から離すと、〈桃源郷〉の刃を振り払って鬼人兵の黒い血を地面に飛ばし、怪しい女に向けて両手で構え直す。


「──雉猿狗……気をつけて……!」

「はい……!」


 後方で見守る桃姫に対して、雉猿狗は背中越しに答えた。そして、ゆっくりと警戒しながらしかし着実に一本松に近づき、怪しい女と距離を近づけた雉猿狗は、その顔を見てゾッ──とした。

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