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33.桃太郎と桃姫

 布団の中にまで漂い、鼻孔に入る味噌汁の芳醇な香り──桃姫にはこの匂いだけでわかった。これは、小夜の作る味噌汁の匂いだと。


「──……母上」


 布団の中で呟いた桃姫──しかし、桃姫は知っていた。小夜はあの夜──全てが変わってしまったあの祭りの夜に、自らの命を犠牲にすることを選んだ。

 桃姫の小さな体を突き飛ばし、迫りくる鬼から愛する娘を助けた──。


「──桃姫、起きなさい──」


 だから、この声の主が本物の小夜ではないことを桃姫は理解していた。死んだはずの母親が。呼びかけてくるはずなどないのだから。


「──こーら、いつまで寝てるの。桃姫」


 しかし、この知り過ぎている味噌汁の匂い、そして、母親の声。これは、現実ではないと頭では理解しつつも──それでも桃姫は、布団の中からゆっくりと顔を覗かせた。


「──ふふ、ようやく起きたわね、お寝坊さん。ほら、ご飯食べて。父上はもう外で桃姫のこと待ってるわよ」

「…………」


 温かな笑みを浮かべた小夜が桃姫に言うと、前かけで手を拭きながらちゃぶ台の上に味噌汁とおにぎりを手際よく並べる。

 見慣れた景色──桃姫がこの世に生を受けてから10年間、毎日のように見続けてきた光景。


「…………」


 桃姫は一言も発さず、ただ淡々と食事をこなし、そして小夜の手伝いを受けずに一人で寝間着から萌黄色の着物に着替えを済ませると、玄関に行き赤い鼻緒の雪駄を履き、引き戸を開けて外に出た。

 その瞬間、ぶわっと吹き付ける真夏の風──うるさいほどのセミの鳴き声が桃姫の耳殻を震わせ、眩しすぎる陽光がこれでもかと桃姫の全身に照りつけると、着物の中が一気に蒸し暑くなるのを桃姫は感じた。


「──桃姫、父上は桃の木の下にいるから。早く行ってあげなさい──」


 玄関口に立ち、眉の上に手でひさしを作った小夜が、外の眩しさに目を細めながら桃姫の背中に声を掛ける。桃姫は横顔だけ向けて小さく頷くと、真夏の花咲村を歩き出した。


「あらぁ、桃姫様。おはようねぇ。今日も暑いから、しっかりとお水を飲むのよ」

「…………」


 向かいの家のおばさんがひしゃくを使って大通りに桶の水を撒いている場面に遭遇した桃姫は、黙ったまま会釈だけして返して通り過ぎた。

 燃やされる前の村の景色と、亡くなる前の住民たちの顔ぶれに激しく感情が揺さぶられていく桃姫は、一言も発さず、ひたらすらに花咲村を歩き、桃太郎が待つという桃の木の下へと向かった。


 ──……父上……。


 これが夢の中だとしても、桃太郎に逢えたら一つだけ、頼んでみたいことが桃姫にはあった──それは間違いなく、あの両親からの手紙を読んだ影響であった。


「…………」


 そして桃の木の一画までやってきた桃姫は、視線の先に桃太郎の姿を見つけた。桃太郎は白い軽鎧を身にまとい、打刀〈桃源郷〉を握りしめて、剣術の練習に没頭している。


「──エイッ! ──ヤァッ! ──デヤァアアッ──!」


 額には黄金の額当てを付け、鬼気迫る表情で一心不乱に〈桃源郷〉を振り回す桃太郎。桃姫が来たことにすら気づかないほどに集中している桃太郎に向かって桃姫は口を開いた。


「──父上ッ──私に剣を教えて──!」

「ッ……」


 突然の桃姫の声に桃太郎はハッ──として、その存在にようやく気づくと、すぐにほほ笑みを浮かべてから、〈桃源郷〉を大きく振り払った。

 そして、スッ──と流れるように左腰の白鞘の中に戻すと、腰に差したもう一振りの仏刀、脇差〈桃月〉を白鞘ごと腰から抜き取って、桃姫に差し出した。


「──……始めようか」


 桃太郎の言葉に対して静かに頷いて返した桃姫は、〈桃月〉の白鞘を受け取ると自身の左腰に括り付けた。

 そして桃太郎の指導のもと、桃の木の下で剣術の練習を開始する──汗を飛ばしながら一心不乱に〈桃月〉を振り回す桃姫に対して、桃太郎が辺りを歩き回り、腕の角度、足の位置、剣術における基本的な動作を一から桃姫に教え込んでいく。

 その様子は、父と娘というより、師匠と弟子──同じ桃色の髪と瞳の色を持つ者同士の遠慮なしの剣術指南であった。


「──斬り上げからの袈裟斬りッ! そうだ! ──不器用でいい! 全力でやるんだッ──!」

「──はいッ! デヤアアアッ──!」


 いつの間にか、桃の木の下の木陰には小夜が立っており、刀を振るう娘の安全を心配しつつも、力強く成長する娘の姿を頼もしく思う母としての温かな眼差しを桃姫に向けていた。


「──いいぞッ! そこで全力の上段突きだッ──!」

「──はいッ! ヤェェェエエッ──!」


 桃太郎の指示を受けた桃姫は、裂帛の声を張り上げて全力の上段突きを空中に向かって打ち込むと、その瞬間、膝から地面に向けて崩れ落ちた。


「ううっ……! ──ふぅッ、ふぅッ! ──ふぅッ──!」


 〈桃月〉を手放し、両手を地面についた桃姫は額からどっと汗を流して、肩を揺らしながら荒い呼吸を繰り返した。


「うぅ……父上、心臓が……苦しい……ふぅッ!」


 桃姫が顔を赤くしながらうめくように呼吸をしていると、桃太郎が桃姫の前に片膝をついて声をかけた。


「桃姫……そんな時は心臓の動きに集中するんだ。他のことは考えなくていい。心臓を中心に感じて、鼓動を意識するんだ──」


 桃太郎は桃姫の熱暴走を起こしたように激しく脈動する心臓に意識を集中するように告げた。


「──熱い心臓の鼓動を有りのままに受け入れて、意識で感じ取る……次に心臓から全身に解き放たれる燃える血の波に集中する──頭のてっぺんからつま先まで巡った血潮がまた心臓に戻ってきて全身に解き放たれる波を感じ取る──その先に、"力の制御"がある──」

「……はぁッ──はァッ……はァ……ちからの……せい、ぎょ……」


 桃太郎の指示通り、心臓の鼓動と血潮の波を意識して"力の制御"をしようとした桃姫は──しかし上手く行かず、桃太郎の顔を見ようと顔を持ち上げたその時──。


「──っ……!」


 笑顔の桃太郎の顔、その顔越しに立ち、こちらを見護るおつるの姿が視界に飛び込んで来て桃姫は大きく目を見開いた。


「おつるちゃん……!」

「──桃姫ちゃん……」


 叫んだ桃姫はふらつきながら立ち上がると、穏やかな笑みを浮かべて名前を呼び返す"大親友"の姿を見て涙が溢れそうになり、ぐっと腕で強く目をこすって頭を横に振った。


「おつるちゃん……ごめん……私、おつるちゃんのことを──」

「──桃姫ちゃん、強くなってq……」


 目を腕で抑えた桃姫に対して、おつるは笑みを解くと穏やかに、しかし、しっかりとした声音で桃姫に告げた。


「──桃姫ちゃん、強くなって……」

「……ッ」


 桃姫は腕を顔から下ろし、おつると目を合わせた。おつるの黒い瞳は穏やかで──しかし、すがるように桃姫に告げた。


「──それが私の、ただ一つだけの、願いなの──私の代わりに……強くなって、桃姫ちゃん──」

「──おつるちゃんッ──!」


 おつるの姿がゆっくりと白い光に包まれて消えていく。そして、あまりの眩しさに顔を後ろにそむけた桃姫は、後ろに並んで立っていた桃太郎と小夜の姿を見た。


「──桃姫、もっと強くなるんだ──」

「──桃姫……父上と母上が見護っていますからね──」


 桃の木の下で白い光に包まれていく両親が桃姫にそう声をかけると、遂には全てが極光する白い世界に飲み込まれて、桃姫には何も見えなくなってしまった。


「──おつるちゃん! ──父上……! ──母上っ! ──あああぁッ──!」


 極光の大波に飲み込まれた桃姫の意識は、現実世界へと否応なしに、なすすべなく引きずり戻されていくのであった。

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