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32.雉猿狗のおにぎり

 桃姫と雉猿狗は、播磨の宿場町にある安宿──"播丸屋"の二階に宿泊していた。

 年季の入った畳が敷かれた六畳の部屋にて、桃姫は格子窓の枠に寄りかかり、夜風に当たりながら雲がかかる青白い月をぼうっと眺めていた。


「──うーん……! これは、いったい──」

「…………」


 一方の雉猿狗は畳に脚を崩して座った状態で、打刀〈桃源郷〉を両手で取り回しながら眉根を寄せて何やら唸っていた。

 桃姫はただよう雲に隠された月から視線を室内に移して雉猿狗の様子を見ると、どうやら白鞘から刃を引き抜こうとしても一向に引き抜けないことに悩んでいるようであった。


「──そうですね……ならば、こうしてみては──ん、いかがでしょうか……」


 雉猿狗はそう言うと、両手で白鞘をギュッ──と握りしめ、集中したように黙り込んだ。


「……これならば──?」


 呟いた雉猿狗は右手を柄に移動させて力強く握りしめる。そして、一息に白鞘から〈桃源郷〉の刃を引き抜くと、スラッ──という軽やかな音と共に〈桃源郷〉はその神秘的な銀桃色の刃を雉猿狗の眼前に現した。


「──あっ……! ──やりましたッ! ご覧ください桃姫様……!」

「……うん、見てたよ」


 仏刀の美しい刃を目にした雉猿狗は笑みを浮かべて窓枠に寄りかかった桃姫を見やると、桃姫も頷いてから雉猿狗の前に移動して脚を崩して座った。


「……どうやったの? ずっと、抜けなかったのに」


 桃姫が尋ねると、雉猿狗は〈桃源郷〉を白鞘の中にスッ──と戻してから自身の膝の上に置いた。


「──どうやら、この白鞘に使われている木材は、寒さと乾燥で収縮する特性があるようです……なので、私の手で温めてあげれば膨張して抜けるようになるのではと──"猿知恵"、ですけれどね。ははは」


 雉猿狗はそう言って笑ったあと、自身の両手のひらを桃姫の前に差し出した。


「──私の手は、"太陽の熱"を持っています。この身体を与えて下さった、天照大御神様に由来する力なのかもしれません」

「……触っても、いい?」


 桃姫は雉猿狗の白くきめ細やかな手のひらを見ながら甘えるように言う。その言葉を聞いた雉猿狗は満面の笑みを浮かべて頷いた。

 そして、桃姫は雉猿狗の手を取ると、握り、自身の両頬に押し当てた。


「──暖かい……」


 桃姫は目を閉じ、雉猿狗の手の暖かさを感じながらゆっくりと雉猿狗の膝の上に倒れ込んだ。雉猿狗は桃姫を受け止めながら、慈しみの表情で桃姫の横顔を見る。


「……桃姫様……」


 雉猿狗は桃姫の頬の上に乗っていた手を動かして、桃姫の頭を優しく撫でた。疲れ果てた桃姫の横顔は、この数日の過酷さを如実に現していた。


「──お腹……空いた……」

「……っ」


 目を閉じた桃姫が口から漏らした言葉を聞いた雉猿狗は、ハッ──として撫でていた手を止めた。


「──父上……母上……お腹……空いたよう……」

「桃姫様……!」


 うわごとのように呟く桃姫に対して雉猿狗は声を掛けると、膝上に伏せていたその上半身を持ち上げて、桃姫と向き合った。


「桃姫様……なにか食べましょう──私が宿の女将さんに言ってなにか──」


 雉猿狗が鬼気迫る表情でやつれた桃姫に言うと、桃姫はうつろな目を浮かべながら口を開いた。


「──……"血の味"がするの──」

「……え……?」

「──ずっと……砂を噛んでるみたいな、感じで……──」


 桃姫の濃桃色の瞳は暗く染まり、恐怖と苦痛の感情に満ちていた。


「──……焼ける花咲村の臭い……ずっと、してるの……──」


 ──地獄を味わえ、桃太郎の娘──。


 気絶している桃姫に投げかけられた温羅巌鬼の呪詛の言葉──しかし、その呪いは桃姫の心の奥底に深く刻み込まれていた。


「──これが……地獄、なのかな……──」

「……ッ!」


 桃姫が涙をこぼしながら震えた掠れ声で言うと、雉猿狗は歯を食いしばってから、すっくと立ち上がって毅然とした態度で口を開いた。


「──女将さんからご飯を頂いてきます! 待っていてください──!」


 雉猿狗は桃姫にそう告げると、引き戸を開け放って部屋から出ていく。そして、一階に繋がる階段をトトトト──と降る音が桃姫の耳に届いた。

 桃姫は力なく薄汚れた畳のシミを眺めて鼻孔からただよう村の焼ける臭いに耐えた。

 それから数分後、今度は階段をトトトト──と駆け登ってくる音がすると、引き戸の向こうから雉猿狗が姿を現した。その片腕にはおひつを抱えている。


「女将さんにご飯は無いかと尋ねたら、"今何時だと思ってるんだ"って……怒られてしまいました。ははは」


 雉猿狗はそう言って苦笑しながら部屋に入ると、後ろ手で引き戸を閉め、桃姫の前に座りながら畳の上におひつを置いた。


「私が相当しつこかったんでしょうね。固くなった……食べ残しのご飯なら厨房にあるって……"勝手に持っていけ"って怒鳴られてしまいました……ははは」


 雉猿狗の照れたような笑い。それに対して桃姫は、雉猿狗がここまでしてくれた嬉しさ、しかし、それ以上にその善意を断らなければならない辛さ、小さな身体に綯い交ぜになった複雑な想いを表情に隠せなかった。


「……雉猿狗……ごめんなさい……私、どうしても、食べられないんだ……」


 桃姫は正座の姿勢になると、頭を下げて、絞り出すような小声で告げる。けれども、雉猿狗は桃姫の言葉に対して答えずに、おひつの蓋となっている布巾をどけ、桶の端に固まっている黄ばみ始めた硬い麦飯を見た。

 お世辞にも美味しそうなどとは言えない。熱い湯をかけて、茶漬けにしてごまかせばまだ食べられるかもしれない──そのような質の悪い麦飯が更に時間を経て硬くなってしまっている。

 かき集めれば大きめのおにぎりの一個分は作れそうなその麦飯の残りに対して、雉猿狗は白い左手を伸ばした。


「──桃姫様、私は天界から来たと……そう、言いましたよね」


 雉猿狗は手首に白い数珠を巻いた左手で硬く冷たくなった麦飯を一つに寄せていく。


「天界はとても暖かくて、すべてが清らかで……とても居心地が良かったんです……特に私は、天照大御神様に気に入られていましたから──余計に、ですかね」

「…………」


 雉猿狗の言葉を聞きながら、桃姫は眉根を寄せ、正座の状態でグッ──と膝の上の小さな両拳に力を込めた。


「……ずっと……天界に居続けても良かった──でも、私の元に届いたのです。御館様の……桃姫様の父君と母君の悲痛な声が──」


 雉猿狗はおひつの中央にまとめた麦飯を両手で受け取ると、優しく、愛情を込めて握り始めた。


「──桃姫様を護って欲しいという強い祈りが、天界まで届いたのです……だから私は、居心地の良い天界を離れ、"雉猿狗"としての身体を授かり、この下界に降りてきました」

「…………」


 雉猿狗の言葉をしかと耳にしながら、黄ばんでいた麦飯が段々と白さを取り戻し、ぽかぽかと湯気を立て始める様子を桃姫は固唾を呑んで見た。


「桃姫様、はっきり申し上げて……現世で生きることは苦しみそのものです。人々の様々な思惑が交差して、弱者は虐げられ、強者は踏みにじり──そして、そのすべてが否応なく時代の荒波に飲み込まれていきます」


 雉猿狗は儚げな眼差しを浮かべながら、言葉を紡いだ。


「天界と比べれば、それはあまりにも冷たく、汚く、唾棄すべき場所なのかもしれません──だとしてもッ──!」


 語気を強めた雉猿狗は桃姫の目をしかと見た。雉猿狗の翡翠色の瞳と桃姫の濃桃色の瞳とが深く交差し合う。


「──桃姫様は、まだ現世のことを何も知らないではありませぬかッ──!」

「……っ」


 雉猿狗の万感の想いの込められた言葉を受けて桃姫はハッ──として目を見開いた。


「──訳も分からずに現世に生まれ落ち──訳も分からずに十年という短い時を生き──そして、訳も分からずに絶望して自らの命を捨てる……? ──そんなに悲しいことは、他にございませぬッ──!」


 雉猿狗の真に迫った言葉を受けた桃姫の小さな身体は打ち震え、瞳からぽたぽたと大粒の涙をこぼし始めた。


「……私は、桃姫様に生きてもらいたいのです。この苦しい現世を生き抜いてもらいたいのです……そして現世とはいったい何だったのか……その目で見て、心で感じて頂きたいのです──」

「……う、うぅ……」


 言葉を告げた雉猿狗は桃姫に慈悲深く、そして力強くほほ笑むと、桃姫は泣きながら頷いて返した。


「……桃姫様が現世を"百年"生きたのち……それから、父君と母君が待つ、天界に向かいましょう──もちろん、雉猿狗と一緒にですよ──?」

「……私が、百歳まで生きれば……雉猿狗と一緒に父上と母上が居る天界に行けるの……?」

「──はい」


 桃姫のすがるような言葉に、雉猿狗は確信を持って答えた。そしてその返答は、桃姫にとって何よりの救いであった。


「──だから、食べてください、桃姫様。生きてください、桃姫様──私のためにも。桃姫様を愛する人たちのためにも──」


 雉猿狗は湯気を立て、つややかに白く光り輝く麦飯のおにぎりを両手で持って桃姫の前に差し出した。

 桃姫は雉猿狗からおにぎりを受け取ると、手のひらを通して伝わる雉猿狗の想い、その愛情の深さを実感した。


「あったかい……」


 桃姫は湯気を放つ雉猿狗のおにぎりに向かって静かに言葉を漏らすと、口を開けて一口含んだ。


「──んぐ……もぐ」

「…………」


 桃姫がおにぎりの頭の部分を食べ、慎重に咀嚼するのを雉猿狗は固唾を呑んで見届けた。そして桃姫はおもむろに目を閉じると、味わうようにしてゆっくりと嚥下した。


「太陽の……味がする……」


 目を開けた桃姫は率直な感想を雉猿狗に告げ、そして暖かなおにぎりを再び顔に近づけてよく見たあとに嬉しそうに声を上げた。


「──おいし……い……! おいしい……!」

「……良かった……!」


 桃姫は歓喜のあまり大粒の涙を流しながら二口目にかぶりつき、雉猿狗は安堵のため息を漏らした。


「──こんなにおいしいおにぎり……! 生まれて初めて食べたよ、雉猿狗……!」

「……食べていただけて……本当に良かった……」


 そう言った雉猿狗は感極まり思わず、桃姫の体を抱き寄せた。


「……桃姫様が死んでしまったら、私は……私は──!」

「──あぐ、あむ……んむ」


 桃姫は雉猿狗に強く抱きしめられながらも、おにぎりを頬張り、涙を流しながらもぐもぐと咀嚼した。

 そして、おにぎりを食べ終えた桃姫は、指についた玄米粒までしっかりと食べ切り、満足気にほうっと息を漏らしながら顔を濡らしていた涙を拭った。


「……雉猿狗」

「……はい、桃姫様」


 雉猿狗は抱きしめていた桃姫の体を離して互いに向き合った。桃姫の暗かった瞳には光が戻り、桃太郎ゆずりのその瞳を見て雉猿狗は静かにほほ笑んだ。


「ありがとう……雉猿狗のおにぎり、とってもおいしかった」

「っ……はい」


 桃姫の言葉を聞いた雉猿狗の目から熱い涙が一筋こぼれ落ち、ハッ──として雉猿狗が手で抑える。


「──あれ……私の身体は、涙も汗も……出ないはずなのに……」


 雉猿狗が動揺していると、桃姫が雉猿狗の膝に寄りかかり、膝の上に頭を乗せた。


「……あったかい……お日様みたいな……雉猿狗の体……」


 桃姫は雉猿狗の手のみならず雉猿狗の身体から発せられる熱に身を委ねた。


「……ねぇ……? また、撫でてほしい……」

「はい……好きなのですね、撫でられるのが」


 雉猿狗が桃姫のおねだりを聞いて、桃色の髪の毛をゆっくりと撫で始めると、桃姫は気持ちよさそうに目を細めた。


「……母上にしてもらってたの……寝られない時に……」


 桃姫は目を閉じて穏やかな表情を浮かべると、雉猿狗もまた母親のような穏やかな表情で桃姫の髪を手櫛で撫でた。

 開かれた格子窓の外から、涼しい秋風に乗せられて鈴虫の鳴き声が運ばれてくる。桃姫と雉猿狗、二人の間に穏やかな時間が流れていく。


「……雉猿狗……天界から助けに来てくれて……ありがとう……」


 目を閉じた桃姫は、雉猿狗の膝の上に頭を預けながら感謝の言葉を述べた。


「……父上と母上も……暖かい場所にいるって……雉猿狗が教えてくれたから……」

「はい……」


 桃姫は雉猿狗にまどろみながら言うと、雉猿狗は桃姫の柔らかな髪を撫でながら返事をした。


「……雉猿狗……桃姫、と……生き、て……」


 桃姫はついに眠りにつき、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。雉猿狗は桃姫の言葉に静かに深く頷くと、桃姫の寝顔を見ながら優しく告げた。


「……おやすみなさいませ……桃姫様──」

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