役小角は、燭台の灯りによって照らし出された鬼ノ城の地下へと続く長い階段を降りていった。
灰色肌をした二体の大鬼を引き連れ、満面の笑みを崩さずに黄金の錫杖をカツン、カツン──と突いて降りていった先には一つの赤い扉があった。
赤い扉の前に立った役小角は、右手に握った黄金の錫杖を持ち上げると、その頭を扉の取手にかざした。そして、弁財天のマントラを唱える。
「──オン──ソラソバ──テイエイ──ソワカ──」
役小角の詠唱を聞き届けた赤い扉は、一瞬紫色に光ったあとにガチャリ──という音を鳴らしてから、ギィ──と少しだけ手前に開いた。
「──おぬしらはここで待て」
特徴的なしゃがれ声でそう呟いた役小角が取手に左手を伸ばし、赤い扉を開けて中に入って行く。
扉の前に取り残された前鬼と後鬼が呪符越しに互いの顔を見合わせると、巨体を反転させて、中から閉じられた赤い扉の前に門番のように仁王立ちになった。
「……さて」
室内に入った役小角は、パッパッパッ──と勝手に灯っていく燭台の火を見ながら息を吐くように声を漏らした。
燭台に刺されたロウソクの灯し火によって照らし出されたその部屋は壁から天井、床に至るまで赤一色であった。
この赤い部屋は役小角の自室であった。鬼ヶ島に数ある部屋のうち、唯一地下にあるこの部屋を役小角は20年前から利用していた。
「──最も偉大な師とは、最もおぬしを苦しめた人物である……とはよく言うたもので」
鬼ヶ島特有の赤土から作られた顔料で塗り固められたその部屋は、宝物庫ほどの大きさはないが、物を置き集めるには十分な広さを有しており、役小角が千年の間に日ノ本各地で集めた呪物の数々や山と積まれた書物が並べられた棚の中や上に雑然と置かれていた。
そして異様さが際立つのが、部屋の中央に鎮座する赤い瓶であった。赤い床に描かれた赤い五芒星の上に鎮座する赤い瓶──それは、苦悶の表情を浮かべ絶叫する人間の顔をした不気味な装飾が幾つも施されていた。
「──のう、我が師……"一言主"よ」
満面の笑みを浮かべながら言った役小角は、赤い瓶に近づくと、その中を覗き込んだ。
瓶の中には、フツフツと泡立つ赤黒い液体が渦を巻くようにうねっており、地獄の釜を彷彿とさせる禍々しさを見せつけていた。
「──わしにも弟子が三人おるでな……おぬしの苦労も理解しておるつもりじゃよ……かかかか」
笑いながらそう言った役小角は、立てかけられていたひしゃくを手に取ると、赤い瓶の中のドロドロとした粘着性の赤黒い液体をかき混ぜ始めた。
すると、液体自体が叫び声を上げるかのように更に強くブクブクと泡立ち始める。その様子を満足げに役小角が眺めていると、聞き取り不可能な女性らしき金切り声が部屋中に響いた。
「────!!」
「……静かにせい」
金切り声に対して役小角は吐き捨てるように呟くと、赤い瓶から離れて呪物が陳列された棚の前に移動した。
「────!! ────!!」
「……おぬし、千年善行の間は大人しくしておったのに、最近になってまた随分と騒ぎ立てるようになりおったのう」
鳴り響く金切り声に対して役小角は慣れた口調で言うと、黄金の錫杖を立てかけてから、棚の前の椅子に腰掛けた。
「────!!」
「無駄じゃ、無駄じゃ……おぬしの叫びは無駄も無駄──」
役小角は棚に置かれている筒立てに並べられた八本の小瓶を見ながら言った。八本のうち二本は空になっているが、それぞれが赤や青、紫や緑などの怪しく光る液体を内包していた。
更に八本の小瓶には、それぞれ赤い筆文字で"八天鬼"の名前が記されていた。左から、荒羅、滅羅、愚羅、波羅、餓羅、怒羅、絶羅、燃羅。
このうち"燃羅"、そして"愚羅"と記された小瓶が空になっていた。
「わしは老いず、死なず、おぬしはその荘厳にして空虚な社の奥深くで、ただひたすらに森羅万象の波を傍観して暮らすのだ」
「────────!!」
「かかかか……! 泣こうが叫ぼうが結果は覆らん……千年前の京にて決したことだわいの」
言った役小角は、並んだ小瓶のうち、空の小瓶の一本をスッ──と手に取ると、それに書かれた"愚羅"という文字を見ながら呟いた。
「……おぬしの負けじゃ──我が師、一言主よ」
役小角は自身の丹田の奥深く──"社神の術"によって築かれた荘厳な社──その開かれた扉に向かって声を投げかけた。
その奥深くにいる泣き叫ぶ影、千年前に捕らえた葛城山の女神、一言主に対して──。
「引きこもりの女神のくせに、迂闊にも葛城山から降りてきたのがいかんのだ──わしの老体を乗っ取れると本気で思うたのだろう……?」
「────!! ────!!」
「かはははは……! おぬしは千年前からそればかりだのう。クソジジイ、クソジジイと。他に言うことはないのかのう」
研究室に響き渡る金切り声に役小角は笑って返すと、空の小瓶を元の位置に戻した。
「────────!!」
「……何ぃ? 巌鬼が破ったあの掛け軸は……本物じゃと?」
一言主の叫びに役小角は思わず眉根を寄せながら聞き返した。
「────!!」
「ざまあみろ……だとな──まったく……おぬしは……かははは」
役小角は呆れたように掠れた笑い声をこぼすと、自身の腹、へその下の丹田を両手で撫でた。
「それだけ元気ならば大丈夫……もうよい、駄弁りは仕舞いじゃ──社の扉を閉めるぞい」
「────!!」
「知るか……また気が向いたら外の風を入れてやる。それまでは大人しくしておれ」
役小角は一言主の抗議の声を一方的に制すると、社神の術によって築かれた荘厳な社の扉を閉じ、一言主の声は役小角の元に届かなくなった。
「まったく……うるさい女がへその奥におると疲れるのう……"腹の虫"とはよく言うたものじゃが──"腹の女"ほど厄介なものはないわい」
役小角は疲れたように腹部を撫でながらそう言うと、棚の上に陳列された呪物、その中でも特別扱いを受けている赤い神棚の上に祀られるように鎮座する呪物を見やった。
「──のう……おぬしもそうは思わんか……?」
役小角は満面の笑顔を浮かべながら愛おしそうにその呪物に向かって声を掛けた。
「──もうしばらくの辛抱じゃ……なんせ、わしらは千年も待ったのだ……千年……ああ、長かったよなぁ?」
赤い神棚の上に祀られている呪物。それは、赤い紐で縛られた、雪のように白い一房の髪の毛だった。
「──しかし、もう少しだけ……もう少しだけ、辛抱しておくれよ──わしの"悪路王"よ──」
役小角は千年もの間片想いを続ける相手の名を告げると、愛おしそうに細められた漆黒の両眼の奥深くに深淵の大宇宙を映し出すのであった。