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25.御館様の祈り

 先を行く雉猿狗の背中を追うにつれて、桃姫の顔色が段々と曇っていった。


「…………」


 小夜とおつる、昨夜三人で走り抜けた大通りの道は鬼人によって破壊され燃やされ、陽の下で見ると余りにも無惨な状態となり果てていた。


「──桃姫様、大丈夫ですか? お具合が悪そうですが……」

「…………」


 遅れ始めた桃姫に気づいて、振り返った雉猿狗が心配そうに言うと桃姫は黙ったまま首を横に振った。

 雉猿狗は心配そうな顔をしながらも足を止めずに北に向かって歩き続けると、花咲村の裏門に辿り着いて門の下をくぐり抜けた。

 桃姫も雉猿狗の後に続くように裏門をくぐって村の外に出た時、道の先に続く赤い鳥居を見た桃姫は、足を止めて呼吸を荒くし始めた。



「──はぁ……はぁ……はぁ……!」

「……しばし、こちらでお待ちくださいませ……!」


 苦しそうな桃姫の様子を見て取った雉猿狗は、これはまずいと感じて声を上げるとその場から駆け出した。そして、村の外に掘られた井戸から手早く水を汲むと、着物の袖から取り出した白い手ぬぐいにその水を染み込ませる。

 濡れた手ぬぐいを手にした雉猿狗は急いで桃姫のもとに戻ってくると、先程より強く呼吸を荒くして胸を抑えている桃姫の口元に濡れた手ぬぐいを差し出した。


「お水です、飲んでください……桃姫様」

「──はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 雉猿狗は、桃姫の小さな顎を伸ばした左手の細い指で支えて少しだけ上を向けると、右手でゆっくりと手ぬぐいを絞って水をぽたぽたと口内に垂らした。

 桃姫は舌の上に乗った水を自然と飲み下し、昨夜から一滴も水分を取っていなかった乾き切った全身に染み渡るようにして吸収されていった。


「──ん、ごく……ん……」


 桃姫は喉を鳴らしながら、手ぬぐいから水滴が落ちなくなるまで水を飲み続け、雉猿狗も最後の一滴まで握った手ぬぐいを絞り切った。


「……はぁ……はぁ……」


 水分を補給した桃姫の呼吸は段々と落ち着きを取り戻し、雉猿狗もほっと胸を撫で下ろした。そして、湿った手ぬぐいで桃姫の顔を優しくぬぐい始めた雉猿狗。

 目を閉じた桃姫は雉猿狗にされるがまま、埋葬作業によって汗と土とに汚れた顔を差し出して、黙って雉猿狗にふかれ続けた。


「……先に進むのが怖い、ですか?」


 一通り綺麗になった桃姫の顔から手ぬぐいを離した雉猿狗が桃姫に言うと、桃姫は静かに頷く。そして、目を閉じたまま口を開いた。


「──……"嫌なこと"が起きたから……」

「…………」


 苦しそうにそう言った桃姫の顔を黙って見つめた雉猿狗は、手ぬぐいを袖に仕舞うと、白い右手を差し出して桃姫の小さな左手を握った。


「……ッ」


 左手に伝わった"太陽の熱"にハッ──として濃桃色の瞳を見開いた桃姫は、雉猿狗の目鼻立ちの整った美しい顔と、その翡翠色の瞳を見上げた。


「……この手……」


 桃姫は呟くように言うと、雉猿狗は優しくも凛とした声音で告げた。


「──共に参りましょう、桃姫様──雉猿狗と二人なら、なんら問題ございません──」


 雉猿狗はそう宣言して颯爽と歩き出すと、雉猿狗の手に引っ張られるようにして桃姫は花咲山に続く赤い鳥居へと歩を進めていった。


 ──……"太陽の手"だ……。


 桃姫は雉猿狗と固く結ばれた手のひら同士に生じている感覚──その太陽の日差しのような不思議な熱を感じながら、二人並んで赤い鳥居をくぐり抜けた。

 二人して峠道を進んでいくと、いつの間にか太陽が沈んで夜の帳が落ち、秋の黄色い満月が顔を覗かせ始める。そして、雉猿狗と桃姫は三獣の祠の前に辿り着いた。


「…………」


 三獣の祠の前──それは、昨夜おつると別れた場所でもある。しかし、今この状況において桃姫には全く別の意味をもたらす場所となっていた。


「──……眠る桃姫様をご自宅に運び、新しいお召し物に着替えさせてから布団に寝かせたあと──私は、"御館様"の亡骸をこの祠まで運びました」


 三獣の祠の前には、切断された右肩がくっつけられ、その上から白い死に装束を着せられた桃太郎の亡骸が横たわっていた。

 桃太郎は胸の上で両手のひらを合わせて合掌しており、目を見開いていた死に顔は、まぶたが閉じられて穏やかに見える顔つきをしていた。

 そしてその頭上には、打刀〈桃源郷〉と脇差〈桃月〉が収められた白鞘が二振り並べられて置かれていた。


「──父上……」


 桃姫は静かに声に漏らすと、月明かりに照らされる桃太郎の亡骸に向けてしゃがみ込み、ゆっくりとその身を寄せた。その光景を見ながら雉猿狗はとても穏やかに話し出した。


「……御館様は、鬼退治が終わって村に帰ると、すぐに私たち三獣を手厚く供養し、この三獣の祠を建立(こんりゅう)してくださいました」


 雉猿狗は心の底から嬉しそうにそう言ってほほ笑むと、石造りの白い祠の格子扉の中を覗き見た──その奥、榊に挟まれた小さな神棚に立てかけられていたはずの〈三つ巴の摩訶魂〉は忽然と消えていた。

 雉猿狗はそれを黙って確認すると、香炉を囲む手前の三つの骨壷に視線をやった。


「──桃姫様……御存知でしたか? この骨壷の絵は、御館様が私たちのことを想いながら、ご自分で描いてくださったのですよ?」


 雉猿狗は、小さな青白い三つの骨壷に藍色の顔料でそれぞれ描かれた犬、猿、雉の三獣の絵を穏やかな笑みを浮かべながら眺めた。


「……二十年間にわたる御館様の強い祈りは、天界にいる私たちのもとまで届きました──最初の十年間、御館様の祈りは、私たち三獣に対する多種多様な"感謝の祈り"でした……」


 雉猿狗は満ち足りたような声でそう言うと、桃太郎の亡骸に寄り添う桃姫に向けて振り返った。桃姫は桃太郎の腹部に押し当てていた顔を上げて、雉猿狗の翡翠色の瞳を見つめた。


「そして……その次の十年間の祈りは──"どうか桃姫のことを護ってください"……ただ、その一言でした……」


 桃太郎の祈りの言葉を雉猿狗が桃姫に告げると、桃姫の濃桃色の瞳から涙があふれ出し、次々とこぼれ落ちて桃太郎の白い死に装束を点々と濡らしていった。


「──御館様の長年の祈りは、私たちをこうして、再び現世に顕現させるほどの強い祈りでした……そして、それは私たちの願いでもあります」


 雉猿狗は言うと、その場に片ひざをついてしゃがみ込み、涙を流す桃姫と目線を合わせた。


「──たとえ死んででも、雉猿狗は桃姫様のことを護り抜きます──それが私たち、三獣の願いなのです」


 雉猿狗の凛とした眼差しと声音に桃姫は圧倒されながらも、小さく口を開いて呟いた。


「……死んだら……護れないよ……」


 桃姫の言葉を聞いて、雉猿狗はハッ──とした顔を浮かべると、軽く咳払いをしてから再び宣言した。


「──死んでもよい覚悟で──桃姫様のことをお護りいたします」


 雉猿狗は何度見ても美しい凛とした佇まいでそう言うと、桃姫は小さく頷いて答えた。


「……うん……それなら、いいかもしれない……」


 その言葉を聞いた雉猿狗は、これ以上ないほどの満面の笑みを見せ、その笑顔に釣られた桃姫も少しだけ笑みを浮かべた。

 悠久の眠りについた桃太郎を前にして、笑顔を見せ合う桃姫と三獣の化身──そんな二人の姿を、黄色く輝いた秋の満月が優しく照らし出していた。

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