ゆっくりと、桃姫の意識が覚醒していく。桃姫は目を閉じたまま、温かな布団のぬくもりを体に感じた。
何か、とても恐ろしい悪夢を見ていたような気がする。
思い出せない、思い出したくない──でも、その悪夢の最後には一片の救いがあったような、不思議な感覚を抱く。
「──ん……んん……」
不意に強い寒気を感じた桃姫が、頭を押し込んだ布団の中で、小さく声を漏らしながらもぞもぞと動いた。
肌寒くて、まだ眠い──ということは、今は夜が明けたばかりで、両隣の布団にはまだ眠っている父上と母上がいるのだろうと、桃姫は布団の中で目を閉じながら想像した──しかし、それにしても寒すぎた。
「……ん、んんっ……」
それは、分厚い布団の中にも容赦なく押し入ってくる凍えるような寒さで、否が応でも目覚めを加速させられた桃姫は、ゆっくりと布団から顔を出し、そして普段なら右隣で寝ているはずの小夜の寝顔を確認しようと、濃桃色の瞳を見開いた──。
「──…………──」
桃姫の視界の先に広がっていたのは、半壊した自宅の惨状だった──かろうじて焼け焦げていない畳の上に敷かれた布団、外壁と屋根の一部は崩壊して、秋の寒空を露呈していた。
──地獄は……続いてた──。
愕然とした桃姫の脳裏に昨夜の出来事が一気に想起されると同時に、鼻孔を強烈に突く血と肉の焼ける悪臭が肺を満たして、激しい呼吸困難を引き起こした。
「──ぐ……! げほっ……! げほっ、げふっ……!」
桃姫は布団から上半身を起こし、胸を抑えて幾度も大きな咳をする。体が受け付けない悪臭によって嘔吐の不快感も湧き起こったが、胃が空っぽのために乾いた咳が出るだけで終わった。
「……う、うう……!」
嘆くように唸った桃姫は、自宅の惨状に嫌気が差し、布団の中に戻ろうかと思った──布団の中に戻り、両親が生きている温かな良い夢が見られるまで無理やりにでも寝ようかと思った。
しかし、もはや意識は完全に覚醒しており、鼻孔を突く強烈な悪臭、外と変わらぬ秋風の寒さの存在に気づいてしまった──もう寝ることは不可能だと、桃姫は布団に戻ることを諦めた。
そして桃姫は、半壊して外の景色が筒抜けになった外壁の大きな亀裂を見た。その隙間から、遠くで人らしき何かが動いているのが見えた──それは、青い着物を着た、長い銀髪の女性。
「……あ──」
その瞬間、桃姫は小さく声を漏らした。昨夜の出来事、その最後の最後に起きた奇跡──地獄の中に咲いた、一片の救いの記憶。
「──雉猿狗……」
桃姫は思わずその名を口にした。亀裂から見える雉猿狗は、一心不乱に鍬を振り上げては地面に振り下ろし、花咲村の片隅に穴を掘っていた。
「……んっ」
その姿を見た桃姫は、意を決して布団から立ち上がった。桃姫自身、立ち上がれるのかと不安だったが、案外、足はしっかりと桃姫の体を支えた。しかし、自分の足元を見た桃姫は違和感を感じた。
「……あれ?」
桃姫は言いながら、手を広げて自分の着ている着物を見回した。それは昨夜着ていたボロボロになった萌黄色の着物ではなく、可愛らしい桃の花が随所に描かれた桃色の着物であった。
「なにこれ……見たことない」
桃姫はその着物が一目で気に入って、寸法も桃姫の体にぴったりだったが、それは今までに着たことがない初めて見る着物だった。
桃姫は心に疑問符を浮かべながらも、仕立ての良い清潔な桃色の着物を気に入り、ほんの少しだけ明るい気持ちになった。
少なくとも、足を前に動かし、玄関口で雪駄を履いて、木製の引き戸を開けて、半壊した家の外に出るだけの元気を得ることは出来た。
「──ふッ……ふゥっ──!」
雉猿狗は五本の桃の木が並ぶ村の片隅で、ひたすらに鍬を使って穴を掘り続けていた。その数は60を超えていた。
「──ふぅ! ──ふッ! ──ふぅッ……!」
空き地に穿たれた大量の穴の脇には、村人の遺体が男女に分かれて山となって積まれていた。
桃姫は、一生懸命に穴を掘る雉猿狗の存在に意識を集中していたため、遺体の存在には気づかずに近づくと口を開いた。
「……雉猿狗?」
桃姫が重労働にも関わらず汗一つかいていない雉猿狗の横顔に向かって呼びかけると、雉猿狗はハッ──とした表情を浮かべて桃姫を見た。
「──桃姫様っ!?」
そして驚きながら名前を叫んだあとにチラッ──と目線を動かすと、桃姫も釣られてそちらを見た。まずい、と雉猿狗が思うより早く桃姫は遺体の山を見てしまった。
「……え」
桃姫が声を上げると、雉猿狗はしまった、という顔をして目を閉じた。しかし、鍬を地面に降ろして翡翠色の瞳を開くと、桃姫に向けて口を開いた
「──花咲村を巡って、集めさせて頂きました」
雉猿狗が堂々かつ凛とした声で告げると、桃姫は掘っている大量の穴と遺体の山の意味を関連付けて、雉猿狗の真意を理解した。
「お墓……なんだね」
そう言った桃姫は、いつも蹴鞠の練習に利用していた桃の木の一画に掘られた大量の穴が丁度、人一人が収められる幅だということに気づいた。
「はい……勝手なことをしましたが、そのままでは、余りに忍びなくて」
「……うん」
雉猿狗の真摯な言葉を聞いた桃姫は頷いて返すと、遺体の山の前に向かって歩き出した。
「──あっ! 桃姫様!」
その様子を見た雉猿狗が声を出しながら、白い数珠のついた左手を伸ばして制止を掛ける。それでも桃姫は止まらず、遺体の山に両手を伸ばした。
「──触れてはなりません! ──穢れが御身体に付いてしまいます……!」
桃姫は雉猿狗の声を耳にしながら、背中を斬り裂かれて苦悶の表情を浮かべた女性の亡骸を見て口を開いた。
「──花咲村に住む人が汚いなんて思ったことは、一度もないよ」
「……っ」
桃姫の言葉に二の句が告げなくなった雉猿狗。桃姫は女性の亡骸を遺体の山から降ろすと、両脇に両手を差し入れて、墓穴に向けて引きずって運んだ。
「……雉猿狗は、お墓の穴を掘って……私は、みんなを入れるから」
桃姫はそう言うと、引きずってきた女性を墓穴に転がすように優しく入れた。墓穴に横向きに収まった女性は苦悶の表情を浮かべながらも何処か救われたような印象があった。
「……桃姫様」
「──雉猿狗、早くしないと、夜になっちゃうよ」
その様子を見ながら思わず声を漏らした雉猿狗に対して桃姫は言うと、次の亡骸を遺体の山から引きずり下ろして墓穴へと運び始めた。
「……はい──はいっ!」
自分の着物が汚れることも気に掛けず、村人の遺体を運ぶ桃姫の姿を見て、感銘を受けながら返事をした雉猿狗は、地面に落としていた鍬を拾い上げると、残りの墓穴を掘るために力強く地面を叩き始めた。
それから6時間後、一心不乱に働き続けた桃姫と雉猿狗は、100体に及ぶ村人の埋葬作業をすべて終えた。
雉猿狗が最後の一人の墓穴に鍬で土を掛け終わると、2人は桃の木の根本に背中から倒れ込んだ。
「──はぁ……はぁ……はぁ……!」
「──ふぅ……ふぅ……ふぅ……!」
桃姫と雉猿狗の荒い呼吸音がカラスの鳴く夕焼け空に向けて放たれた。
先程から、20羽ほどのカラスが墓の周りを旋回したり、近くの屋根の残骸に止まったりしてこちらの様子を伺っていた。
「……おーい、カラスのばーか!」
おもむろに雉猿狗がカラスに向かって悪態を吐いた。
「ははは……やつらの御馳走、全部埋めてやりましたね」
「……うん」
雉猿狗が笑顔で桃姫に言うと、汗だくになった桃姫は頷いて返した。
カラスの一羽がは恨めしそうに雉猿狗に向かって一鳴きすると、一斉に飛び立って、花咲山に向かって鳴きながら遠ざかっていった。
「……雉猿狗……」
「はい……?」
その光景を見ていた桃姫が、おもむろに雉猿狗に声を掛けた。雉猿狗は桃姫の横顔を見て聞き返した。
「なんで雉猿狗は、汗をかかないの……?」
桃姫はそう言うと、雉猿狗の顔を見た。雉猿狗の顔は汗どころか、土汚れ一つ付いておらず、この世の者とは思えぬ端正な顔立ちをした麗人の顔がそこにはあった。
「それは……」
雉猿狗は言いかけると、すっくと立ち上がった。
「……付いてきてくださいませ。桃姫様」
雉猿狗の言葉を受けた桃姫はその顔を見上げたあと、桃色の着物の裾を払いながら立ち上がった。
「──こちらです」
凛とした声でそう告げて、桃の木の下から歩き出した雉猿狗の背中、青い着物を着たその背中には、何処かで見たような曼荼羅が描かれていた。
「…………」
桃姫はその見覚えのある曼荼羅の描かれた背中を追いかけるように、花咲村の片隅、桃の木の一画に作られた村人たちの埋葬地を後にした。