「──耐えているようですね。前回の村人はすぐに"赤飯"を喰べていましたが」
「かかか……なぁに、見ておれ──すぐに心折れますわいの」
鬼蝶と役小角は、蟻の巣でも観察しているかのような会話を大穴の上で交わしながら大穴の底を覗き込んだ。
「……おっとお……おらぁ、もう駄目だぁ……」
「こらえろ、吾作……! ──鬼の喰いもん、一度でも喰っちまったら……どうなるかわかんねえ……!」
大穴の底の隅で、腹を両手で抑えた吾作と呼ばれた少年が父親に対してすがりつくような声を出すと、父親は声を荒らげて少年の行動を制した。
「で……でもよぉ……おらぁ、腹すかして待ってた祭りで、なんも喰えんかったから──ほんとに腹が減っちまって……このままだと、死んじまうよお……」
少年が悲痛な面持ちで声を漏らしたその時、笹の葉をガバッ──と開いて、山と盛られた赤飯に手を突っ込む若い男の姿を少年は見た。
「──もう我慢ならねぇ! ──俺は喰うぞッ! ──こんな穴底で飢え死になんかして、たまるかってえんだ!」
「……おいっ……やめろ!」
かつて桃太郎と共にやぐらの建設をしていたその男は、他の村人が止める声も聞き入れず、右手に掴み取った赤飯を大きく開けた口の中に押し込むように詰め込んだ。
「──あぐっ! ──ん……! ──んめえっ! んめぇぞ、こりゃあ! ──だ……大丈夫だっ! みんな──喰える! このメシ、喰えるぞ……!」
「…………」
嬉々とした声を上げながら赤飯を食べだした若い男の姿を、その場にいる村人たちが生唾を飲んで見ていると、村人たちの中から一人、また一人と、赤飯に近づく者が現れだした。
「──う……うめえっ! ──米だ! ちゃんとした米だ! ──うめえ!」
「──あむっ! ──あぐ! んぐ! ──んめえ……! ──んめえなあ!」
たった一人が赤飯に手をつけたことを皮切りにして、まるで蜜に吸い寄せられる蟻のように次々と赤飯のもとに集まりだして、我先にと手を伸ばしていく村人たち。
人数が増えていくその光景を羨ましそうに見た少年は、山ほどあった赤飯が瞬く間に減っていくのを見ながら父親に向けて叫んだ。
「──おっとお……もう駄目だぁ! ──おら、喰うだッ──!」
「──待てぇ! ──吾作! ──喰うなぁ!」
走り出した少年が父親の制止の声を振り切ると、村人たちの間を分け入って、飛びつくようにして残り少なくなった赤飯に両手で掴み掛かった。
「──あぐっ──!」
「──おい……! う……うう……! ──おらだってな……! おらだって、ほんとは喰いてえだよぉ……!」
両手に握った赤飯を旨そうにむさぼり喰らう息子の幸せそうな顔を見ながら、父親は正座してその場に座り込むと、両膝を両拳で叩きながら涙を流した。
「おっとお……ほら……ング、早く喰わねと……! ──おっとおの分が無くなっちまうだあよ……!?」
立ち上がった少年は父親のもとに歩いて近づくと、そう言いいながら、左手に握り締めた赤飯を父親に向けて差し出した。
「……そうだな……そうだ……おめぇの言うとおりだ──喰わねと……喰わねとな……」
正座をした父親がそう呟いて、少年が差し出す赤飯に手を伸ばした、その時であった──。
「──うッ……! うッぐ……ぐっ! ──ぐアあ……ががアが!」
「……ッ!? どした!? ──どしたぁ、吾作ッ!?」
突如として苦しみ出した少年は、差し出していた赤飯を地面に落とすと、両手で自分の喉を抑えた。そして、苦悶の表情を浮かべた息子の顔面は、見る見るうちに青黒く染まっていく。
「──かかかかかァァ!! ──ついに始まりおったぞ! 人が鬼に転じる様は、いつ見ても愉快だのう──!!」
大穴の上で甲高い笑い声を発した役小角。それに対して大穴の底にいる父親が悲痛な面持ちで役小角を見上げながら叫んだ。
「──何したァッ! おめえッ! ──おらのせがれに、何喰わしただぁッ!」
「かかかか……何って──ちょいと隠し味に"鬼の血"を混ぜ込んで炊いただけじゃが……?」
役小角の言葉を聞いた父親は愕然とすると、役小角は満面の笑みを浮かべながら黄金の錫杖の頭で大穴の底を指し示した。
「──ばあかもん。呆けたツラでこっちを見とる場合か──ほれ、大事なせがれがおぬしのことを見ておるぞ」
「……っ……?」
役小角の言葉を聞いた父親が少年の方に顔を向けると、そこには二本の赤い角を額から伸ばし、赤く染まった眼を光らせる青黒い肌の鬼人と化した少年が立っていた。
「──ああ……っ!? ああッ! おめえ! どした!? ──あああ!?」
「……おどあ、アア、ぐがが──ガああアアああッッ!!」
鋭く伸びた牙を剥き出しにして唸り声を発した少年は、戦慄する父親に勢いよく襲い掛かった。
「──ぎゃああァァァァアアアアッッ!!」
「かかかか……美談じゃのう。これで、おぬしのせがれは空腹に苦しまずに済むでな……父親としての務めを立派に果たせましたわいの? ……かかかかッ!」
大穴の底から鳴り響く、息子にむさぼり喰われる父親の断末魔の声を耳にしながら役小角が笑うと、その隣に立っていた鬼蝶があることに気づいて口を開いた。
「──あら……? 赤飯を喰べたのに、鬼人に転じぬ者がおりますわね……?」
鬼蝶は大穴の底を興味深そうに目を細めて眺めていると、苦しんだ末に鬼に転じる者と絶命する者との二者に分かれていることを見て取った。
「おお、そこに気づくとは。かかか……目聡いのう、鬼蝶殿──うむ、その通り。鬼に転ずる確率は半々──陽が出れば、もがき苦しみながら死に絶え、陰が出れば、鬼人として新たな生を得る」
「なるほど……陰と陽のどちらが出るかは、その者が持つ生来の性質ということですね?」
役小角の説明に、鬼蝶は納得の声を上げながら分析した。
「難しいところだのう。陰として生まれてきた者が人生の過程で陽に転じることもあれば、その逆もまた然り……肝心なのは陰と陽の均衡じゃ──故に確率は半々となる」
役小角はそう言うと、黄金の錫杖をチリン──と鳴らしながら大穴の底を指し示した。
「しかし、死に絶えることも決して無駄ではない。鬼になった者たちによってその亡骸がむさぼり喰われ、そやつの血肉と成り変わって生き返る──それがこの世の道理、大宇宙の神秘が織り成す妙」
「……すみません、私にはまだ到達し得ない領域です──千年の時を生きる行者様の御言葉、ただただ敬服致します」
役小角の言葉に鬼蝶が申し訳無さそうに答えると、役小角は黄金の錫杖を大穴から戻して地面を突いて、金輪をチリン──と鳴らした。
「──つまるところ、人も鬼も、その本質はまったく変わらんということじゃよ……かかかか!」
鬼蝶にそう告げた役小角は高笑いしながら前鬼と後鬼を引き連れて大穴を立ち去っていく。すると、太い腕を組んで仁王立ちする巌鬼がギロリ──と役小角を見ながら口を開いた。
「……新たな鬼人が誕生したようだな……鬼の"出来損ない"だが、桃太郎退治では思いのほか役に立った──もっと作れ」
「……おぬしに言われずとも、鬼人の大軍勢を築き上げるのが目下の課題じゃ──何より、鬼ヶ島の戦力は枯渇しとるからのう」
巌鬼の前までやってきて立ち止まった役小角が、満面の笑みを浮かべながら漆黒の眼を細める。
「──のう温羅坊、覚えておるか──?」
神妙な声音を発した役小角の顔を巌鬼が黙って見下ろすと、役小角はにんまりとした笑みを浮かべながら巌鬼の顔を見上げて口を開いた。
「──腹を空かせた幼いおぬしは、母鬼の肉を喰らおうとしておった──もう少しで、"あれ"になろうとしておったのだぞ──?」
「──ッ」
役小角の言葉に黄色い眼球をカッ──と見開いた巌鬼。
「──せいぜいわしに感謝せいよ! ──温羅坊ッッ!! ──かかかかッッ!!」
「──誰が感謝などするかよ……! ──腐れ外道僧がッ!」
巌鬼の横を通り抜けて立ち去っていく役小角に向けて、激昂した巌鬼が怒声を発した。
「──かかかか……! 外道の鬼に言われるとは、こりゃあ傑作じゃッ! ──かかかかッ!」
役小角は愉快そうに笑いながら振り返ることなく、二体の大鬼を引き連れて鬼ノ城へと歩いていく。
「……あンの……クソジジイ……」
巌鬼が息を荒くしながら、大鬼に扉を開けさせて城の中に入っていく役小角の姿を見送ると、鬼蝶が隣にやってきて巌鬼に声を掛けた。
「……でも、私たちには行者様の力が絶対的に必要……そうよね、巌鬼?」
「……それは……わかっている……!」
巌鬼は鬼蝶の顔を見ずにぶっきらぼうにそう答えると、肩を怒らせながら鬼ノ城に向けて歩いていった。
「……ふふふ──あ……そういえば」
巌鬼の大きな背中を見ながらほほ笑んでいた鬼蝶は、ハッ──と思い出して、裏庭の崖に向かって歩き出した。
赤い海が一望できる裏庭の崖沿いには、異様な雰囲気を漂わせた二本のザクロの木が並んで立っていた。
鬼ヶ島特有の悪臭を放つ腐敗した赤土と、赤い海から吹きつける潮風に当たって育ったザクロの木は、二本の枝同士が複雑に絡み合って、見るも無惨な邪悪な形状をしていた。
「うーん……これにしましょうか」
鬼蝶はそんなザクロの木の下に行くと、しなだれかかった枝に実った大きなザクロの果実を手に取って、馥郁(ふくいく)たる香りを嗅ぎながら声を発した。
熟しきった果皮は盛大に外側に向けて破裂しており、美しくも凄惨な果肉を見せつけるザクロの果実を見回しながら、鬼蝶は思わず笑みをこぼした。
「ふふふ……これならきっと、気に入ってくれるわよね」
日ノ本の物より一回り大きな鬼ヶ島のザクロの果実を黒爪でちぎり取って、胸に抱きながら鬼蝶は鬼ノ城に戻った。
そして、城内の燭台が照らし出す長い廊下を歩き、目的の部屋の前まで来ると鬼蝶は声を上げた。
「……入るわよ、おつるちゃん」
横開きの黒い扉をガラガラ──と開けて中に入った鬼蝶は、黒岩を削り出して作られた部屋の、一段高く作られた寝台の上に敷かれた布団の上に座るおつるの姿を見た。
膝を抱きかかえてしゃがみ込んだおつるの眼は真っ黒に染まり、ただゴツゴツとした黒い壁の一点だけを黙って見つめていた。
「……良い部屋でしょう……? この城には牢屋もあるんだけど──あなたには特別にこの部屋を使わせてあげるわ」
鬼蝶はそう言ってほほ笑むと、燭台の灯りに照らされる机の上にザクロの果実と小刀を置いた。
「……おつるちゃん。見てこのザクロ、立派でしょ? ふふふ……私が育てたのよ──お喰べなさいな」
鬼蝶は言うと、沈黙するおつるの姿を眺め見ながら着物の袖から煙管をスッ──と取り出した。
「私、あなたのこと気に入っちゃったから……鬼女にして、私直属の部下にしてあげる……これは初めてのことで、とても光栄なことなんだからね……? ──……ふゥ……」
鬼蝶は慣れた手付きで煙管に着火して一服すると、白い煙をおつるの顔に向けて吹き掛けた。
「今はまだちんちくりんだけど──……ふゥ……成長したら、かなりの美人さんになりそうな予感はしてるのよね」
濃厚な白煙が顔面を覆っても、おつるは表情一つ変えなかった。その生気のない顔つきを見た鬼蝶は、煙管を口から離して思案しながら告げた。
「……ねえ、おつるちゃん。あなた、何か欲しい物はないの? ──お菓子でも着物でも宝石でも……この鬼ヶ島なら、求める物はなぁんでも手に入るわよ……?」
「…………」
「……あっそ」
鬼蝶の提案に対しても無言を貫いて答えとしたおつる。その態度に嫌気が差した鬼蝶は、煙管を逆さにして、先端にある火皿に詰まった刻み煙草を冷たい石畳の床の上に振って落とした。
「……まあ、そのうち気が変わると思うわ──ザクロ、ちゃんと残さず喰べなさいね……私が大事に育てた、鬼ヶ島のザクロなんだから──」
鬼蝶が横目でおつるにそう告げると、廊下に出て黒い扉を後ろ手で閉めた。
「…………」
鬼蝶が居なくなった部屋で、おつるはゆっくりと顔を動かすと、机の上に置かれたザクロの果実と小刀を静かに見た。