この世とあの世の狭間、絶海の鬼の領域に浮かぶ鬼ヶ島──その鬼ヶ島の中央に築かれた鬼ノ城、更にその中枢に位置する玉座の間にて──。
漆黒の大玉座に腰掛けて、野太い両腕を組みながら固く目を閉じた現鬼ヶ島首領・温羅巌鬼の姿がそこにはあった。
「──ぐ……ウウ……うゥむ……──」
桃太郎退治を見事に成し遂げ、鬼ヶ島に堂々の帰還を果たした巌鬼は──しかし、襲い来る過去の悪夢に苛まれ、苦しげに深く唸っていた。
「──……かか……かか……」
悪夢の中の"奥の間"にて、幼い巌鬼が死に絶えた母鬼──おはるの亡骸を揺さぶった。
桃太郎は既に立ち去り、鬼の黒い血が屏風や寝具、玩具や着物など、辺り一面に飛び散っていた。
「……まんま……かか……まんま……」
桃太郎が惨殺した母鬼や子鬼の大量の亡骸の中で、孤独に空腹に耐える幼い巌鬼は、おはるに食事を要求し続けた。
巌鬼は父である温羅の特性を受け継ぎ、"命が2つあった"おかげで桃太郎による虐殺を生き延びたが、空腹が続けばその残った命すらも失うことになる。
「……かか……まんま……」
惨状は"奥の間"だけではない、鬼ノ城の城内──その至るところに桃太郎に惨殺された鬼女の亡骸が転がっていた。埋葬して供養する者などおらず、惨たらしくも、そのままにして放置されていた。
そんな地獄絵図を露呈した鬼ノ城にて、白装束を身にまとい満面の笑みを浮かべた白髪の老人が、黄金の錫杖をチリン、チリン──と突きながら"奥の間"を目指して一人歩いていた。
「……まんま……かか……あグアぁ──」
飢えに耐えきれず、小さくも鋭い鬼の牙が生えた口を大きく開いた巌鬼は、おはるの柔らかそうな首筋目掛けてかぶりつこうとした。
「──まてい、温羅坊」
特徴的なしゃがれた老人の声が"奥の間"に響くと、大きく開かれた巌鬼の口に黄金の錫杖の先端がグッ──と強引に突っ込まれる。
「──あが、あがが……!」
「──母鬼を喰らえば、餓鬼畜生に成り下がるぞ──」
老人はそう言って、黄金の錫杖の先端を巌鬼の口から抜き取ると、満面の笑みを見せながら告げた。
「わしに付いてこい──広場に馳走を用意したでな」
「…………」
巌鬼は呆然とした顔で老人の顔を見上げると、颯爽とひるがえって白装束を揺らしながら"奥の間"を出ていく老人の背中を見つめた。
「──はよせい、温羅坊」
背中を向けたまま発せられる老人のせかす声を耳にした巌鬼は、無意識のうちに生まれて初めて二本足で立ち上がると、両手を前に出しながら、その背中を追いかけた。
「──ほれ、好きだけ喰らうがよろしい」
巌鬼を鬼ノ城の外まで連れ出した老人は、広場の中央に横たわる一頭の大きな黒毛牛を黄金の錫杖の三つの金輪が並んだ頭で指し示した。
「──生きておるが、わしの呪術で気絶させたから安心せい──かかかか……"鬼"というのは、生きた血肉が大好物だからのう」
老人の言葉はまだ理解できなかったが、とても魅力的なことを言っているとわかった巌鬼は、短い二本足で必死に歩き、目を閉じて静かに呼吸する黒毛牛のでっぷりとした腹部に向けて、大口を開けてかぶりついた。
噛みつき、引きちぎり、咀嚼する。そして、ゴクリ──と牛の温かい血肉を飲み込んだ瞬間、幼い巌鬼の黄色い眼球が見開かれ、縦に入った赤い瞳孔が横に拡がる。
「──かかかか……! ──気に入ったようで何より。大きく育てよ、温羅坊」
老人が笑いながら言うと、口元を赤く染めた巌鬼が再び黒毛牛に噛みついて、引きちぎり、咀嚼する──無我夢中でその行為を繰り返した。
そして空腹が満たされ始めた巌鬼は、もぐもぐと牛肉を咀嚼しながら老人の方を振り返った。幼い巌鬼のその表情には感謝と共に困惑の意思も込められていた。
「──ん……? わしは一体誰なのかと、そう思うとるのか? かかかか──わしの名は、役小角(えんのおずぬ)。おぬしの味方じゃ」
それが巌鬼の記憶の中にある、役小角との最初の出会いだった──それから10年後、成長した巌鬼が鬼ノ城を歩いていると、役小角に声を掛けられた。
「──おお、温羅坊。ちょいとこちらに来い。おぬしに紹介したい者がおるでな」
「…………」
少年の巌鬼が役小角の後について広場に出ると、そこには紫色の着物をまとった育ちの良さそうな女が一人立っていた。
女の額の左側には赤い鬼の角が生えており、ただの女ではないと巌鬼はすぐに見て取った。
「──初めまして、巌ちゃん。私の名は鬼蝶……行者様からお話は伺っております。鬼ヶ島首領であるとのこと……ふふふ、これからよろしくね」
妖艶なほほ笑みを浮かべながら挨拶した鬼蝶は、黒い鬼の爪が伸びた白い右手を巌鬼に向けて差し出した。
「…………」
巌鬼はその手を見ながらしばし黙っていると、役小角が笑みを浮かべながら声を発した。
「──なーにをしとるか、温羅坊……はよう鬼蝶殿の手を握り返してやらんか──すまんのう、こやつ緊張しておるようでな」
「…………」
巌鬼は役小角の言葉を聞いて眉根を寄せたあと、鬼蝶の整った顔をちらりと見た。そして、その美しい顔からすぐさま目を逸らすと、ぶっきらぼうに右手を前に突き出した。
「ふふふ……」
鬼蝶は笑いながら、無骨な鬼の手を取り、10歳の少年巌鬼と握手を交わした。
「──さて、鬼蝶殿には、温羅坊の教育係をして頂こうと思う。鬼ヶ島を率いる首領には、最低限の教養が必要だからのう──かかかか……!」
「…………」
満面の笑みを浮かべた役小角は漆黒の眼を細めて高らかに笑った。そのしゃがれた笑い声を耳にしながら、互いの手を結んだ鬼蝶の顔を巌鬼はちらりと伺い見た──。
「──ッ……う。ウぐ……?」
鬼ノ城の大玉座にて、巌鬼が過去の記憶から意識を戻して鬼の眼を開くと、巌鬼の顔を静かにジッ──と眺める鬼蝶が前方に立っていた。
「──な、なんだ、鬼蝶……!」
10年前とは異なる筋肉の張った巨大な肉体を持った巌鬼が、10年前と変わらぬ妖艶な美しさを保った鬼蝶に対して、困惑しながら低い声で言った。
「……巌ちゃん、今から裏庭で面白いものが見れるわよ」
「──裏庭……? ……あのクソジジイ、何をやっている……」
「……ふふふ、一緒に見に行きましょう?」
鬼蝶は夢の中で見たものと同じほほ笑みを巌鬼に向けて浮かべると、しなやかに振り返って玉座の間を立ち去っていく。
「……うゥむ……なんだというのだ……」
巌鬼は寝ぼけた頭を鬼の大きな手で抑えながら呟くと、燭台の灯りが照らす大玉座から立ち上がってドシ、ドシ──と音を立てながら鬼蝶の背中を追った。
「──ほれ、前鬼、後鬼……はよう客人に飯を降ろしてやらんか」
「……ウグォアア」
役小角は、荒涼とした赤土が広がる鬼ノ城の裏庭にて、梵字が書かれた赤い呪符を顔に貼った前鬼と梵字が書かれた緑色の呪符を顔に貼った後鬼と共に居た。
裏庭の中央には地中深くに届く大穴が穿たれており、役小角は大穴の底を覗き込みながら、黄金の錫杖を振るって前鬼と後鬼に指示を出す。
「──そうじゃ、そうじゃ……ゆっくり降ろせよ」
「……グオァァア」
役小角の指示を聞いた前鬼と後鬼は、低いうめき声を発しながら、縄に縛られた笹の葉に包んだ大量の赤飯を大穴の底に向かって降ろしていく。
大穴の底では、30人ばかりの村人が右往左往しながら顔を上げて赤飯が降りてくるのを見届けていた。
「──待たせたのう、客人衆! 飯の時間じゃあ……! ──仲良く分けて喰うのだぞぉ! かかかか……!」
役小角が大穴の底に向かって声を発すると、反響した役小角の声が村人たちの耳にうるさく響いた。
「喰うわけねぇだろ! 鬼ヶ島の喰いもんなんざよぉ……!」
「んだんだ! どうせ、酷い臭いで、喰えたもんじゃないっぺよ……!」
役小角に向けて声を上げた村人に同意した村人が、笹の葉に歩み寄って縛っている紐を開封すると、山のように盛られた赤飯があらわになった。
小豆と一緒に炊かれた赤く染まった米──ほわほわと舞い上がる湯気と共に甘い香りが大穴の底に充満していく。
「……ん、んぐ……!」
脇目も振らず、今すぐにでも喰らいつきたい気持ちが湧き上がった村人は、歯噛みしながら笹の葉を閉じて赤飯を隠すと、上に向かって叫んだ。
「──こ、こげなもん! 喰うわけねかっぺよ! おらたちが知らねぇとでも思ったか! 鬼ヶ島の飯を喰えば鬼になる! ──知ってんだぁ、おらたちはぁ!」
「んだ! んだ! ──鬼のくいもん、人間様が喰うわけなかんべぇよ!」
役小角に向かって叫ぶ村人、それに呼応して他の村人たちも怒声を上げて頷きあった。
「──かかかかッ! 別に無理して喰わんでもよろしい……! 喰わねば飢え死ぬだけじゃからのう──かかかか……!」
役小角がさも愉快そうに笑っていると、鬼ノ城の裏扉から鬼蝶と巌鬼が連れたって現れた。
「……何をしているかと思えば……」
巌鬼が呆れたように低い声で言うと、鬼蝶は大穴を見下ろす役小角に声を掛けた。
「ふふふ……どうですか行者様? ……もう始まりました?」
「──いんや、見世物はこれからじゃ……良いところに来たのう、鬼蝶殿、温羅坊」
鬼蝶は役小角の隣に並んで立つと大穴の底を覗き込んだ──そこには飢えと戦いながら笹の葉に包まれた赤飯をジッ──と見つめる村人たちの姿があった。