「──桃姫……知ってる? 悪いことをするとね、こわーいこわーい、"地獄"、に落っこちちゃうんだよ……?」
「……地獄……? 地獄ってなあに……?」
家の炊事場で食器を洗っている小夜を隣で手伝いながら、初めて耳にした言葉に桃姫は尋ねた。
「地獄はね、"鬼"がいる世界のこと……血と肉の焼けるいやーな臭いがして、大切な人が死んじゃってて──悲しさが止まらない世界のこと」
「ええー……やだぁ! 桃姫、地獄に落ちたくないよぉ……!」
小夜のおどろおどろしい地獄の解説を聞いて一気に顔色が悪くなった桃姫は、小夜の顔を見上げて悲鳴のような声を発した。
「そうだよね。なら今まで通り、良い子に暮らしていれば大丈夫……こうして、お皿洗いを手伝って、父上と母上に嘘はつかずに、言われたことはちゃんとやって、服も脱ぎっぱなしにしない──わかった?」
「うん……! うん! わかった! だからお願い、桃姫を地獄に落とさないで……?」
桃姫は小さな両手を合わせて、懇願するような上目遣いで小夜にお願いをした。
「ちょっと、桃姫……? 母上は地獄に落とす人じゃないよ……?」
「……そうなの?」
本気で怯えだした桃姫の顔を見て、心苦しくなってきた小夜は、地獄の解説に希望を付け足すことにした。
「うーんと……そうだ。ここでひとつ、桃姫にとってもよいお知らせがあります」
「……へ?」
小夜が人差し指をピッ──と口元に立てて言うと、地獄の様相を想像して怯える桃姫が小夜の顔に注目した。
「──桃から生まれた! あッ! ──桃太郎ぉッ!」
「わっ、わっ!」
小夜は大きな声で見得を切ると、桃姫は驚きと共に歓声を上げた。
「ふふっ、鬼はぜーんぶ父上が退治してくれたでしょ? だから、大丈夫! もうこの世には、地獄はありません! なくなっちゃいました!」
小夜は断言するようにそう言うと、濡れた手を前掛けで拭ってから桃姫の髪を撫でて満面の笑顔を見せる。
その笑顔を見た桃姫の表情も花が咲いたように明るくなると、それと同時に風呂場から桃太郎が出てきた。
「──ん……? 二人して、いったい何の話で盛り上がってるんだ?」
手ぬぐいを肩に掛けて体から湯気を発した桃太郎に向けて桃姫が絶叫しながら駆け寄った。
「きゃー! ──桃太郎が! ──父上が! 鬼をぜーんぶやっつけたんだっ! だから地獄はもうないんだ!」
「──うお! おいおい! 落ち着け、桃姫……! ──小夜、なんとかしてくれ!」
突撃してきた桃姫の勢いに気圧された桃太郎が畳の上に尻もちをつくと、困惑しながら小夜に助けを求めた。小夜は笑顔でその様子を見ながら口を開いた。
「そうよ、桃姫! だから桃姫は絶対に地獄──地獄には──地獄──絶──対に──落ち──な──地獄──に──」
「──……っ」
冷たく硬い地面に倒れ伏した桃姫がゆっくりと目を開いたその瞬間、全身に痛みが走った。
視界は光に覆われ、下半分は赤くぼやけていて、ここが一体どこなのかまったく判別が付かなかった。
「──……うう」
そして、否が応でも鼻孔を通って肺の中に押し入ってくる血と肉の焼ける臭いが強烈に桃姫の脳に現実を伝えてきた。
「……う……うう……」
桃姫はうめきながら、左手、その次は右手と地面に手をついて、何とか上半身を持ち上げて周囲を確認しようとした。
吐き気を催すような臭いに続いて、身を焼き焦がすような熱気が桃姫の体を襲う。
「……あ……ああ……」
時間の経過と共に目の焦点が合わさり、視界が段々と明瞭さを増していくと、光の正体は燃えるやぐらなのだとわかった。
そしてその下半分に広がっていたのは──桃太郎の亡骸と血溜まりであった。
「──ッ──」
それを目にした瞬間、気絶するまでに起きた事象が一気に桃姫の脳裏に流れ込んだ来た。
──地獄はね、"鬼"がいる世界のこと。
鬼蝶の右手の長い黒爪に付着した小夜の黒髪を桃姫の脳が呼び起こす。
──血と肉の焼けるいやーな臭いがして。
桃姫は臓物の焼ける悪臭に堪らず、その場に嘔吐した。
──大切な人が死んじゃってて。
それでも桃姫は顔を上げると、手を左、右と交互に前に出し、這いずるように桃太郎のもとへと進む。
──悲しさが止まらない世界のこと。
体から心臓を失い、血溜まりに沈んだ桃太郎は目を見開いたまま沈黙し、最愛の娘がやってきても動くことはない。
桃姫は、巌鬼の大太刀の一撃によって寸断された勢いで吹き飛んだ桃太郎の右肩と、その手から離された脇差〈桃月〉を見ながら口を開いた。
「……父上……母上……」
桃姫は力ない声で言いながら、〈桃月〉に向けて這いずって移動すると、その柄を掴んで両手で拾い上げた。
「……桃姫は……」
そして、上半身を起きあげて正座をすると濃桃色の瞳を固く閉じて一筋の涙を流しながら疲れ果てたように声を発した。
「──……地獄では、生きていけません……──」
仏の加護を受け、銀桃色の刃を持つ〈桃月〉の切っ先を自身の喉元に差し向けた桃姫。
「──……弱い子で、ごめんなさい──」
桃姫は桃太郎の亡骸の前で謝罪と別れの言葉を告げると、喉元に向かって両手で握り締めた〈桃月〉を一息に突き出した──。
「──なりませぬ」
目を閉じた桃姫の耳元に届いた美しい鈴の音のような凛とした声。桃姫の喉に切っ先が到達する寸前で〈桃月〉の刃はピタリ──と止まっていた。
「──死んではなりませぬ──桃姫様」
再び届いた不思議な声。力強くもあり、しかし慈悲深くもある不思議な声。その声を聞きながら、桃姫は自身の両手が包み込むように握られていることに気づいた。
包み込まれた両手はじんわりとした"太陽の熱"を感じ始め、桃姫は恐る恐るゆっくりと目を開き、その声と熱の正体を確認しようとした。
「──……っ」
桃姫の目に最初に飛び込んできたのは、〈桃月〉の柄を握り締める自身の両手を上から包み込んだ手首に数珠を付けた左手と赤い手甲を着けた右手。
その白く美しい"太陽の熱"を持ち合わせた両手から伸びる、青い着物をまとった両腕を辿って桃姫はゆっくりと視線を持ち上げた。
「──決して、死んではなりませぬ、桃姫様──」
幾度も繰り返される、力強くも慈悲深い不思議な声を聞きながら、桃姫は、ついに声と熱の主と顔を見合わせた。
「──私の名は、雉猿狗(ちえこ)。御館様との約束を果たすため、ただいま天界より現世に顕現いたしました──」
翡翠色の瞳をした見目麗しい銀髪の女性が、桃姫の濃桃色の瞳を見つめながら告げた。
「……雉猿狗」
桃姫がその名を口に漏らすと、雉猿狗は静かに頷いて天照大御神のような力強くも慈悲深いほほ笑みを浮かべた。
「……私は、生きていても、いいの……?」
桃姫が力なく尋ねると、雉猿狗は深く頷いて答えた。
「──桃姫様、どうか、生きてくださいませ」
生存を肯定する雉猿狗のその言葉を聞いた桃姫は、目から一筋の涙をスッ──と流し、〈桃月〉の柄を握り締める両手の力を緩めた。
それを感じ取った雉猿狗もまた、桃姫の両手を包んでいた両手を開くと、それと同時に支えを失った〈桃月〉は地面に落ちた。
「……ありがとう……」
桃姫は呟くように感謝の言葉を述べると、目を閉じて、ふらっと前方に上半身を倒れ込ませた。
ハッ──とした雉猿狗が素早くその場に両膝を突いてしゃがみ込むと、その膝の上に桃姫が倒れ込む。
「──桃姫様……」
雉猿狗は、疲れ切った表情で寝息を立て始めた桃姫の髪を優しく手櫛で撫でて、そして桃太郎の亡骸を見た。
「──御館様の祈り、確かに天界まで届きました──御館様に忠誠を誓う、私たち"三獣"のもとまで確かに届きました」
雉猿狗は悲しみと喜びがない交ぜになった複雑な表情を浮かべると、膝にもたれかかって眠る土と泥で汚れた桃姫の寝顔を見る。
たった一晩の間に、桃姫の人生は一変した──そしてそれは、10歳になった桃姫の、"桃太郎の娘"としての本当の人生の始まりを意味していた。
「──桃姫様。あなた様が強い女性に育つその日まで、雉猿狗があなた様を必ずや護り抜きます──」
桃姫の吹けば飛ぶような小さくて軽い体を自身の体に抱き寄せた雉猿狗が、翡翠色の瞳に力を込めて、眠る桃姫の顔を見つめながら凛とした声で誓う。
雉猿狗のその力強い宣言に呼応したかのように、黄金に光り輝く太陽が、その神々しい姿を東の地平線の遥か彼方から現し始めるのであった──。