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20.地獄を味わえ

 鬼蝶の喜びの声を耳にした巌鬼は、冷めやらぬ自身の荒ぶりを抑えるために熱い息を口から吐き出すと、血溜まりに崩折れる桃太郎の亡骸を改めて見下ろした。


「──桃太郎退治か……──」


 巌鬼は低く唸るように言うと、鬼蝶に向けて振り返った──そして、鬼蝶が胸に抱く桃姫を見やると口を開いた。


「──鬼蝶……そいつの様子はどうだ──」

「ダメね……この娘、ずーっと気を失ってるのよ」


 鬼蝶は白目を向いたまま沈黙する桃姫の顔を呆れたように見下ろしながら言った。


「そうか……見て欲しかったんだがな──桃太郎が……己の父親が死ぬところを──しかたあるまい、平和な村で血の一滴も見ずに暮らしてきたのだろう」


 巌鬼は言うと、燃えるやぐらの前からドス、ドス──と鬼の足で地面を踏みしめて歩き出した──そして、鬼蝶の前までやってくると、巌鬼に対して鬼蝶が口を開いた。


「──ねえ、厳鬼……今日の私、結構頑張ったと思うのだけれど──この娘、ご褒美に私が殺してもいい──?」


 鬼蝶がおねだりするように巌鬼を艶っぽい視線で見上げながら言うと、巌鬼は気絶する桃姫の顔を見てから答えた。


「……構わんが」

「ふふふ──ありがとう……巌鬼は優しい子に育ったわね」


 巌鬼の許可を得て、鬼蝶はほほ笑みながら感謝の言葉を述べると、気絶した桃姫の首を左手でグッ──と掴んで眼前に突き出した。


「恐怖に怯える可愛いお顔が拝めないのは残念だけれど──ふふふっ……この温かく、柔らかい肉を鬼の爪で切り裂く感触──思う存分、私に楽しませて頂戴ね?」


 鬼蝶は細い目を見開き、赤い"鬼"の文字が浮かんだ黄色い眼球を顕にすると、御馳走を目の前にした行儀の悪い子供のように舌舐めずりをした。

 そして、鋭利な黒爪が指先から長く伸びる右腕を、気絶した桃姫の喉元に向けて大きく振り上げる。


「──さようなら、英雄桃太郎の娘──」


 陰惨な笑みと共にそう別れを告げて、勢い良く右腕を振り下ろした鬼蝶。ヒュッ──と風切音を発した鬼の爪が桃姫の首筋に触れる瞬間──その白い手首が紫肌の鬼の手によって強固に掴まれた。


「──待て」


 鬼蝶の細い手首を、折れんばかりの強さで握り締めた巌鬼が低い声を発した。


「何よ……」

「──こいつは、生かす」

「……は?」


 眉根を寄せた鬼蝶が苛立ちを隠さずに声を上げると、巌鬼は静かに呼吸する桃姫の顔を見ながら口を開いた。


「──こいつは、桃太郎が死ぬところを見ていない──母親が死ぬところを見ていない──」


 そう言って巌鬼は鬼蝶の腕から手を離すと、鬼蝶は興が削がれたように目を細めた。


「──まだ、俺が見た地獄を見ていない。生かして、俺と同じ地獄を見せる──それから、殺す──」

「はぁ……? ──じゃあ、私の楽しみは? ──ねぇ、御馳走を眼の前で取り上げられた私の楽しみはどうなるのよッ……!?」


 一方的に告げる巌鬼に対して、納得のいかない鬼蝶は声を荒らげて抗議した。

 それに対して巌鬼は、鬼蝶にグッ──と顔を近づけると、常人ならそれだけで失神する"鬼の睨み"を効かせながら低い声で唸るように告げた。


「──いいな?」

「──ッ──」


 至近距離での巌鬼の"鬼の睨み"は、同じ鬼である鬼蝶すらも恐怖心を抱かせる凄まじいまでの迫力があった。

 積年の恨みを発露させ、見事に"桃太郎退治"を果たした巌鬼は、明らかに鬼としての"格"が上がったように鬼蝶は感じ取った。


「……わかったから……そんな怖い顔で私のこと睨まないでよ、"巌ちゃん"……」

「──その呼び方はやめろ。俺はもう"あの頃"のようなガキじゃない……」


 怯えた鬼蝶が懇願するように言うと、巌鬼は吐き捨てるようにそう言ってから、"鬼の睨み"を解いて鬼蝶から顔を離した。


「はぁ……あなた、命拾いしたわね」


 鬼蝶は桃姫の首を掴んでいた左手を離して、地面に桃姫を倒れ込ませた。鬼蝶はその姿を口惜しそうに見るが、気を取り直して顔を上げた。


「さてと……それで、次はどうするの? ──鬼ヶ島の"首領"さん」

「──目的は果たした。鬼ヶ島に帰還する。村に散らばった鬼人兵を招集しろ」

「わかったわ」


 巌鬼の指示を受けた鬼蝶は、着物の袖から黄金の篠笛をスッ──と取り出すと、美しくも物悲しい旋律を奏でて村中の鬼人の耳に届けた。

 次々と燃えるやぐらに集まってくる鬼人の中には金品を抱えている者もいれば、気絶した村人を担いでいる者もいた。


「108人の鬼人、全員無事みたいね」

「村の襲撃に対しては……案外、役に立つのかもしれんな」


 集結した鬼人の軍勢を鬼蝶が見回しながら言うと、巌鬼も感心したように言葉にした。

 そして、鬼蝶はおもむろに紫色の着物の胸元に左手に差し入れると、赤い呪文が描かれた一枚の黒い呪札をピッ──と取り出した。


「──オン──マユラギ──ランテイ──ソワカ」


 鬼蝶がマントラを呟きながら、手にした呪札を宙空に放り投げた次の瞬間、呪札を中心にした空間が突如として蜃気楼のように歪んで、ググググ──と縦横に広がって伸び、ゆらゆらと揺れる空間を作り出した。


「──敵討ち、成功したようだのう」


 向こう側の空間からこちら側を覗き込んだ役小角が満面の笑みでそう言うと、手をこちら側に伸ばしてピッ──と呪札を持っていって懐に入れた。

 その瞬間、役小角はちらりと燃えるやぐらの前に倒れた桃太郎と桃姫の姿を見た──そのわずか一瞬だけ役小角の笑顔は解かれたが、すぐさま元の笑みが再現された。


「そこをどけ、クソジジイ」


 巌鬼が役小角に向かって言うと、役小角は開かれた空間から身を退けた。そして、向こう側の空間──鬼ノ城の広場が視認できるようになった。

 大きな体を丸めるようにしながら空間に入り込もうとした巌鬼は、ちらりと桃姫を一瞥すると。


「──地獄を味わえ、桃太郎の娘──」


 そう低い声で呟いてから門をくぐり、広場に姿を現す。その後に続くように次々と鬼人たちが空間を通って広場に転移すると、鬼蝶は鬼人が担いだおつるの顔を見た。


「──あら、あなた起きてるじゃない」

「……っ」


 鬼蝶はおつるの顔を伺い見ると、おつるはフッ──と顔を下に向けた。


「ふふふ……人間では、あなただけが"桃太郎退治"の生き証人ね」


 鬼蝶が笑みを浮かべながら言うと、おつるを担いだ鬼人が空間を通って広場に転移し、そして最後に鬼蝶が空間をまたいだ。

 広場の中から見た空間は大量の呪札が繋がって描いた円によって呪札門を構成していた。


「……巌鬼と鬼人が108人、そして私で最後……閉じてくださいませ、行者様」

「──うむ」


 鬼蝶が呪札門の隣に立っていた役小角に報告すると、役小角は頷いて黄金の錫杖の金輪をチリン──と鳴らした。


「──オン──マユラギ──ランテイ──ソワカ」


 役小角のマントラによって呪札門は崩れ落ちるようにバラバラと広場の石畳の上に落下した。


「ねぇ、行者様?」


 それを見届けた鬼蝶が役小角に声を掛ける。


「門を鬼ヶ島に繋げるだけじゃなくて、新しい門を開く呪術も教えて頂けないかしら……? そうすれば、行者様の負担を減らせると思うのだけれど……」


 鬼蝶が言うと、役小角は軽く笑ってから口を開いた。


「かかか……わしが簡単そうにやってるように見えるか? だとしたら、大間違いだ。これは仙級の呪術……実を言うと、わしも習得までに100年ほど掛かった」

「あら……そんなに、ですか」


 役小角の言葉に鬼蝶は驚きを隠さずに左手で口元を覆った。


「下手に用いれば、転移した瞬間に体が細切れになる……まあ、わしのような専門家に任せたほうがよろしい」

「そうですね……そういたしましょう」


 役小角の言葉を聞いて、鬼蝶は納得したように口にした。


「しかしだの。鬼蝶殿に呪術の素質があるのは事実──さすがは、美濃のマムシの娘と言ったところ。育ちが良くて教養がありますわいの」

「ふふふ……おだてても何も出ませんよ?」


 笑みを浮かべた役小角の言葉に鬼蝶は笑みを浮かべながら答えた。


「──おい。馴れ合ってるところ悪いが、俺はもう寝させてもらう。こいつらはキサマらで片付けておけ」


 巌鬼は談笑する役小角と鬼蝶に対して低い声を上げると、横目で鬼人が花咲村から略奪してきた金品と村人を見た。


「わかりました。今日はお疲れ様──お休みなさい、"巌ちゃん"」


 鬼蝶がほほ笑みながらうやうやしく言うと、巌鬼はカッ──と"鬼の睨み"を浮かべた。


「──それをやめろッ! 二度と、俺をガキ扱いするな……鬼蝶ッ!」

「あら……怖い怖い」


 眉根を寄せた鬼蝶が静かに言うと、そのやり取りを見た役小角は笑いながら声を出した。


「かかかッ、なんじゃ"温羅坊"。おぬし、桃太郎を殺して随分と鬼らしくなったではないか。一丁前に"鬼の睨み"など効かせおってからに」

「──その"温羅坊"と呼ぶのもやめろ……!」


 役小角のおちょくるような言葉に対して、温羅の息子・巌鬼が憤怒の形相で吼えるように言った。


「かかか、おぬしはいくつになろうが、どれだけデカくなろうが、なにを為そうが、わしにとっては"温羅坊"だ──残念だったのう」


 しかし飄々とした役小角は満面の笑みを浮かべながらそう言ってのけると、巌鬼はこれ以上付き合いきれないとばかりにフンッ──と強く鼻息を吐いてから巨体をひるがえして、鬼ノ城の大扉へとドシ、ドシ──と歩き去っていった。


「行者様、今まではあんなに怒らなかったのに、最近になって"巌ちゃん"と呼ばれるのを本気で嫌がり始めたのは、いったい何故なのでしょうか……?」


 鬼蝶が役小角のそばによって巌鬼に聞こえないように小声で尋ねた。


「──うーん……それはのう……そう! ──"思春鬼"だからじゃ……! ──かかかかか、こりゃ傑作!!」

「……は? ……はあ……」


 特徴的なしゃがれ声で高笑いする役小角に対して、鬼蝶は冷めた声で返すと、鬼ノ城の大扉を乱暴に開けて城内に入っていく20歳になった巌鬼の大きく育った背中を見送った。

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