三獣の祠の前まで走って来た三人は、月明かりに照られた峠道の地面に座り込むと荒くなった呼吸を繰り返した。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
「──此処まで来れば……もう……大丈夫だから、ね」
小夜が額から流れ落ちる汗を着物の袖で拭いながら桃姫とおつるに言うと、おつるは地面に伏せるように倒れ込んだ。
「……おつるちゃん……!」
桃姫が心配そうに声をかけると、おつるは焦点の合わない黒い瞳を開きながら何かを呟いていた。
桃姫は口の動きを見て、それが"お母さん"と言っているのだと気づいた──桃姫は何も言えずに小夜の方を向いて口を開いた。
「村の鬼は……父上が、何とかしてくれる、よね……?」
桃姫が小夜に恐る恐る尋ねると小夜は静かに、しかし確信を持って頷いた。
「──大丈夫……絶対に大丈夫……」
小夜は顔を上げると、星空を見ながら自分に言い聞かせるようにそう言った。
「──……いったい全体、何が大丈夫なのかしら?」
突如として響き渡る背筋が凍りつくような冷たい女の声──小夜、桃姫、おつるの三人はその声を聞いて昆虫標本の如く、針で地面に体を突き刺されたように動けなくなった。
「──あなたたちの誇らしくて頼りになる"桃太郎様"なら……あっけなく死にかけてるわよ」
嘲笑まじりのその言葉を耳にした小夜は、目を見開いて声の発せられた方を向いた──そして、黒い影がゆっくりと三獣の祠の地点まで歩いてくるのを見た。
木々の作り出す影の中をしなやかに歩き、黄色い眼球と赤い瞳孔を爛々と光らせたその女が影の中から抜け出て月明かりの下にその姿を現した──。
「──申し訳ないんだけど、誰一人として逃さないように言われてるの……ごめんなさいね──」
赤いアゲハ蝶が描かれた仕立ての良い紫色の着物を着ながら、妖艶な雰囲気を漂わせた鬼蝶が現れると、当然のように三人は左側の額から伸びる赤い一本角に注目した。
「あなたも……鬼……なんですね」
重圧に押されながらも何とかして、小夜が口にすると、鬼蝶は陰惨な笑みを浮かべながら口を開いた
「──ええ……鬼よ。それも……とーっても悪い、鬼。ふふふ……」
鬼蝶はそう言って笑うと、金色の篠笛を袖の中からスッ──と取り出して見せた。
「──この笛はね、鬼人を操る笛。この笛の音を聞かせれば、どこに行けとか、なにをやれとか……あるいは燃やせとか……命令し放題なのよ」
鬼蝶は言ってから、篠笛の歌口に真っ赤な唇の先端を触れさせた──そして白く長い指を動かして指孔を塞ぎ、甲高くも美しい笛の音色を森の中に響き渡らせた。
恐ろしさは感じない、ただ物悲しさのある笛の音色だった。
「──さあ……鬼人がやってくるわよ。30秒──? 1分──? ──いずれにせよ、早く逃げたほうがいいんじゃないかしら?」
鬼蝶がいたずらっぽく告げると、小夜はふらふらと立ち上がって桃姫とおつるを見た。小夜と目を合わせた桃姫も立ち上がって逃げる意志を見せたが、おつるのほうは倒れたままだった。
「──あら、その娘はもう逃げる気力がないみたいね……まぁ、それも人生の選択肢の一つ。彼女の自由を尊重してあげたほうがいいと思うわ」
鬼蝶は他人事のように言ってのけると、桃姫はおつるのそばにしゃがみこんでその腕を掴んだ。
「おつるちゃん、逃げよう……! 鬼が来るから……逃げないといけない……!」
桃姫は何度もおつるの腕を引っ張るが、まるで死体を扱っているかのように、おつるの体には生気がこもっていなかった。
「──はーい、30秒経ちました……さぁ、さぁ──早く逃げないと、襲われちゃいますよ?」
鬼蝶の言葉に歯噛みした小夜は桃姫の隣まで歩くとその腕を掴んだ。
「……桃姫、行きましょう」
「え……!? ──母上……おつるちゃんが!」
「──いいからッ! 逃げるわよ!」
小夜は力づくでしゃがんでいた桃姫を立ち上がらせると、桃姫の手を握りしめて何も言わずに歩き出した。
「ま、待って……! 母上……おつるちゃんッ……!」
「…………」
困惑する桃姫に対して小夜は沈黙を貫くと、段々と歩きから小走りになっていく。桃姫もそれにつられるように小走りになると、どんどんおつるとの距離が離れていった。
「──ふふふっ、いいわねぇ……! ──我が子は"特別"……んん、これこそが母性よね……」
鬼蝶は意地悪い笑みを浮かべながら、三獣の祠の前から走り去る小夜と桃姫の背中を見た。そして、赤い鳥居の方角から四人の鬼人が鬼蝶に向かって小走りでやってくる。
「……あなたがた、本気で走ってますか、それ……」
鬼蝶は不満げに鬼人たちに対して言うと、鬼人たちは互いに顔を見合わせた。
「……その娘、おつるちゃん。鬼ヶ島に連れて帰ります。丁重に扱いなさい」
鬼蝶が金色の篠笛で力なく倒れ伏したままのおつるを指し示すと、鬼人の1人が近づいていき、おつるの小さな体を軽々と肩に担いだ。
「──ッ! おつるちゃん……!!」
桃姫は振り返ってその光景を見ながら叫ぶ。おつるは鬼人に担がれた状態で顔を上げると、桃姫の濃桃色の瞳と自身の黒い瞳とを無言で交差させた。
「──おつるちゃんッッ……!!」
桃姫は叫びながら、それでもおつるから遠ざかるように走っていく。小夜はただ前だけを見て、愛娘の手を握りしめ、一心不乱に引っ張って走り続けた。
「──さぁてと……そろそろ茶番も終わりにしましょうか」
鬼蝶は冷めた口調でそう言うと。篠笛を口元に運び、先程とは異なる激しい笛の音色を鳴らし始めた──。
おつるを担いでいない鬼人たちがその音色を耳にした途端、体をガクガクと震わせ始め、両手を地面について四つん這いになった。
「──ほら、行け」
鬼蝶が鬼人に対して吐き捨てるように命令すると、一層甲高い笛の音を鳴らした。
「──シィィイイイイッッ!!」
四ツ足の獣と化したの三人の鬼人は口から息を吐き出すと、一斉に手と足を使って地面を蹴り上げて走り出した。
小夜と桃姫が後ろを振り返り、誰も追って来ていないと思って走る速度を落としたその時──獣になった鬼人の赤く光る眼光を遠くの暗闇の中に目撃した。
「──なにあれ……!?」
「……桃姫ッ……!」
急速に近づいてくる赤い眼光を目にした桃姫が恐怖に声を上げると、小夜は桃姫の名前を呼びながら手を引っ張って自身の胸に抱き入れた。
「……母上……?」
夜の峠道で抱きしめ合う母娘──桃姫は肩を上下させて息をしながら汗をかいた小夜の濃い匂いを嗅いだ。
それは小夜も同じで、桃姫の柔らかく甘い髪の匂いを鼻を擦り付けてこれでもかとたっぷり自分の肺の中に入れた──そして小夜は、桃姫の額に自分の額をくっつけるとささやくように言った。
「──桃姫のこと、ずっと、見護ってるからね──」
「──えっ……?」
桃姫が声を漏らすと、小夜は桃姫の体をトンッ──と突き飛ばした。桃姫の体は山のゆるく傾斜した斜面に向かって飛び出すと、桃姫の視線と小夜の視線が一瞬だけ交差し、小夜はすぐに峠道を走り出した。
そして次の瞬間には、山の斜面を転げ落ちていく桃姫──枯れ草を押し潰し、枯れ枝を折りながら全身を回転させて斜面を落ちていった桃姫は大木に背中からぶつかって停止した。
「──う……うう……」
桃姫は口に入った枯れ葉を吐き出しながらよろよろと立ち上がる。お気に入りの萌黄色の着物はみすぼらしいほどにボロボロになり、桃色の髪の毛もぼさぼさになっていた。
「……母上……」
桃姫は斜面の上方を見上げながら声を出した。桃姫は小夜が峠道を走り出した瞬間にわかった。自分を迫り来る鬼人から逃してくれたのだと。
「……母上ええ……」
桃姫は大粒の涙を目からこぼし始めた。目からこぼれ、頬を伝って顎の先端からぼたぼたと落ちる大粒の涙が大木の根本に生えたきのこの上に降り掛かった。
「──う……うううう……おつるちゃん、父上、母上……! ──なんでええ……! なにが起きてるのおお……!」
桃姫は泣きながらとぼとぼと歩き出した。すると、暗かった木々が開けて急にパッ──と明るくなった。桃姫が何事かとあたりを見回すと、それは丁度、花咲村の全容を見下ろせる位置にある開けた山の中腹だった。
村は全体が轟々と燃え上がっており、微かに聞こえる悲鳴、怒声、絶叫──桃姫は山の中腹から破壊されていく自分の生まれ育った村を見た。
「……うっ……うっううう……!」
何処がどういう場所か、何処に誰が住んでいるか、何処の食べ物屋さんで父上や母上と笑いながら食事をしたか──炎に飲み込まれていく村の遠景を見ながら、桃姫は平穏な日々を思い出して、更に大粒の涙をこぼした。
「──悲しいわよねぇ、生きるって──」
その時、桃姫の背後に投げかけられた声──涙をこぼし続ける桃姫の肩にポン──と白く細い手が優しく置かれた。
「──信長様がこの光景を見られたら、なんておっしゃられたのかしら──」
桃姫の肩に置かれた手は白い指にも関わらず不気味なほど黒い爪をしていた。
「──やっぱり……"天晴れ"……かしらねぇ──ふふふ──」
桃姫の背後に立ち、燃える花咲村を見ながら笑顔を浮かべた鬼蝶が黄色い眼球を見開くと、燃えるように赤く輝いた"鬼"の文字が瞳の中央に浮かび上がっていた。