──私は、あの日……許されないことをしたのか……おはる姉ちゃん──。
桃太郎は迫り来るおはるの息子──巌鬼の鬼の形相を見ながら、これまでの人生で感じたことのない、あり得ないほどの"恐ろしい"という感情が押し寄せていた。
それでも桃太郎は、右手を左腰の白鞘に這わせて、何とか20年前の愛刀──〈桃源郷〉を引き抜こうとした。
「──ッ、なぜ……抜けない……なぜ……!?」
しかし、まるで鞘と刃が一体化してしまったかのようにガチガチに固まってしまって抜くことが叶わなかった。
「──桃太郎、その刀を抜いたのはいつ以来だ……?」
巌鬼が震える桃太郎を見下ろしながら告げると、桃太郎は鬼ヶ島成敗10周年記念の時にやぐらの上で高々と銀桃色の刃を掲げたのを思い出した。
そしてそれ以来、一度も鞘から抜いた記憶がないことも──。
「──刀は手入れをしなければ腐る……そんなことすら、この20年の間に忘れてしまったのか?」
巌鬼は言いながら一歩、また一歩と桃太郎に近づいてきた。
「──随分と……平和な暮らしをしていたようだなぁ、桃太郎」
「ッ……う……うう……!」
桃太郎は〈桃源郷〉の白鞘から右手を下げ、脇差〈桃月〉の白鞘に触れた。そして柄を掴むと、"頼む"と祈りながら鞘から引き抜く──。
「──ッ!」
「……ふん、そちらは抜けたようだな」
桃太郎は、仏の加護を受けた銀桃色の刃を持つ〈桃月〉を右手で握り締め、その切っ先を巌鬼に向けた。
「……知っているぞ。その脇差で、俺の親父を殺したのだろう……?」
「……ふぅ……! ふぅッ……!」
巌鬼は憎々しげに言う。桃太郎は何とか腰に力を込めて立ち上がろうとするが、心が恐怖に支配されて動けずにいた。
心にまとわり付いた恐怖を振り払うため、桃太郎は深い呼吸を繰り返して息を整えることに注力した。
「……桃太郎の英雄譚は、鬼ヶ島にも届いている……どうやって俺の仲間を殺したのか、そのすべてを知っている」
巌鬼はそう言うと、左胸を無防備に桃太郎の前に曝け出した。
「──ほら、刺せよ。あと一回そいつで心臓を突き刺せば、俺は死ぬぞ……? ──どうした、英雄」
巌鬼が小馬鹿にするような低い声を出すと、桃太郎は口から漏らすように声を発した。
「……おはる姉ちゃん……すまない……」
「──誰だ、そいつは……?」
知らない名前を聞いた巌鬼が、口元を歪めて笑みを浮かべながらまた一歩近づいた。対する桃太郎は、〈桃月〉を握った右手を力なくだらりと落とした。
「──この期に及んで女の名前を口にするか……よもや、これほどの腑抜けになっていたとは──残念だ、桃太郎」
巌鬼が桃太郎の眼前まで来て見下ろすと、背中に背負った黒い大太刀の柄に手を掛けた。
「──桃太郎、俺の勝ちだ──」
そう言って、巌鬼が両手で握り締めた大太刀を背中から持ち上げた瞬間だった──。
「──ヤエェェェエエッッ!!」
裂帛の声を張り上げた桃太郎は、右手に握った〈桃月〉を跳躍するように立ち上がった勢いで巌鬼の曝け出された左胸目掛けて突き出した。
その瞬間──ドンッ──という爆音に似た轟音が辺りに鳴り響いた。
「──……っ」
「──20年、俺は、キサマを殺すことだけを、考えて生きた」
巌鬼の剛力で振り下ろされた黒い大太刀は、桃太郎の右肩を根本から〈桃月〉ごと吹き飛ばしていた。
「……ぐぅぅううウウッっ!!」
遅れてやってきた右肩に走る激痛、そして噴き出す大量の血──桃太郎は目をひん剥き、砕けんばかりに歯を喰いしばると、左手で右肩の切断面を抑えた。
「──痛いか? 桃太郎──苦しいか? 桃太郎──でもな、本当の地獄の責め苦ってのは、そんなもんじゃないはずだよな」
巌鬼は低い声で言いながら、桃太郎の赤い鮮血を浴びた黒い大太刀を持ち上げて背中に背負った。
「──本当の地獄ってのは……"自分以外"の苦しみを見ることにあるんだ──俺は20年前に、キサマからそのことを教わったんだよ」
「……ぐ……う……ぐぐッ……!」
巌鬼に対して跪いた状態の桃太郎は激痛に耐えることで精一杯だった……しかし、巌鬼はそれでは全く満足していなかった。
「──なァ……桃太郎。まさか今、この村でキサマだけが鬼に襲われていると──そう思っているんじゃないのか……?」
「……ッッ!?」
「──図星か……とんだクズ野郎だな」
驚愕の表情で巌鬼を見上げた桃太郎に向けて、侮蔑の言葉を浴びせかけた巌鬼──実際、長きに渡って平和を享受していた桃太郎にとっては温羅とおはるの息子──温羅巌鬼に相対することで精一杯だった。
他の村人も鬼に襲われている──その考えは完全に、桃太郎の思考にはないものであった。
「……っ、みん、な……っ」
そして、ここに来てようやく桃太郎は自分以外の村人に対して、目と耳の注意を向けることを始めたのであった──。
「──キャアアアアアッッ!!」
「──ワァッッ! ──アアッッ!!」
「──助けてッ! 誰か助けてッ……アガッッ!!」
「──桃太郎様っ! ──どちらですか! 鬼が──ギャッ」
──地獄絵図。槍と刀で武装した鬼人の集団が村人を追いかけ回し、家屋に火を付けて回り、命乞いを一切聞き入れず無慈悲に殺害していく──。
「──ずっとこうだったぞ……? ようやくこの村で何が起きているか、理解したようだな──」
「……あ……ああ……っ」
状況を把握した結果、戦慄して嗚咽を漏らした桃太郎の顔を見下ろした巌鬼は、桃色の髪の毛に鬼の手を伸ばすとグッ──と掴み上げて眼前まで近づけた。
「──何が鬼退治の英雄だ、腰抜け野郎──今日、キサマの村は消える──キサマの家族と共にな──!!」
「……ッッ──小夜ッ──桃姫ッッ──!!」
桃太郎は真っ赤な血を口から吐き出しながら、燃え上がるやぐらの炎を反射させて赤く染まった夜空に向けて、愛する妻と最愛の娘の名を絶叫した。